廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

002:予感

 エンデリスタ大公国の首都より遙か東の街、工業都市アビリオがウィルの第二の故郷となったのは、既に十年も前の秋の日のことであった。
 藁を敷いた馬車の荷台へ横になり、見上げた空のことは今でもよく覚えている。今日と同じで忌々しいほど晴れ渡った青空は、不安に翳るウィルの心に涙をこぼすことさえ許さなかった。
 実家は田舎の貧乏農家。次男として生まれたウィルには継ぐべき農地も家畜もなく、物心がつく頃には、既に奉公へ出されることが決まっていた。
「ウィルは我が家の余り物だから」
 意地悪ばかり言う兄と、訳もわからずよく喧嘩した。あることが理由で母親には酷く嫌われていたものだから、彼女との思い出は極端に少なく、奉公に出てからも出稼ぎで街へ来た父親とは何度か顔を合わせたことがあったのが、最後に消息を耳にしたのも、最早随分と昔のことになっていた。当初の奉公先であった鍛冶屋が店をたたむことになり、洗濯屋、パン屋とウィルが奉公先を転々とするうちに、実家との繋がりはすっかり薄れてしまったのだ。
 ウィルにとってなにより幸運だったのは、八つの時、今の勤め先であるライジア印刷所の親方に拾われたことであった。印刷所の親方、ルドルフは気のいい男で、厳しい面もあるにせよ、ウィルのことを本当の息子のように可愛がってくれた。だからウィルはうだるような夏の日も、凍えるばかりの冬の朝も、人一倍に働いてきた。
(ここでやっていこう。鍛冶屋もパン屋もなくなったけど、――今度こそ、俺はここで生きていこう)
 そう思った。
 印刷所を隅から隅まで掃除して、活字を逐次磨き上げた。親元から離れた以上、手に職をつけなければ生きてはいけないご時世だ。ウィルは煙突掃除に売られる子供や、主の暴挙に振り回される炭鉱夫達よりも自分がずっと恵まれた環境にいる事を自覚していたし、何より、文字を覚え様々な文書に触れられることは、何にも増して楽しく思えた。
 ただの下働きではあったが、印刷所に勤めている他の従業員達にねだって読み書きを習い、職場に詰まれた新聞記事を、端から端まで読み耽った。そうして十二になる頃には大人にも負けないほどの識字を身につけ、一人で活字組を任されるほどに信頼を得るようになったのだ。
 だが、しかし。
「頭、割れそう……」
 弱々しく呟いたその声は、人々の喧噪ですぐに掻き消された。それもそのはず、ただでさえ大声の飛び交う店の中、机に突っ伏したウィルの頭上では、同僚達が陽気な声で笑いあっているのである。彼らはウィルの呟きになど気づきもせず、どん、と音を立てて酒の入ったジョッキを置くと、誇らしげにこう言った。
「いやしかし、北部で初雪が降ったって話の時には焦ったね。あの記事、ちょうど三件目の火事と重なったろう? マルドリア・ジャーナルの奴ら、決まって納期ぎりぎりに記事を持ち込みやがるからな。今度こそはもう無理だと思ったぜ」
「だよなぁ。毎度毎度、無茶言いなさる。……まあ、それを短納期でやってのけるのが、俺達ライジア印刷所の技師ってわけなんだけどよ」
「そりゃ、そうさ。スピードで他の印刷所に負けてたまるかよ。それから、あれだな。南オーンエルト発の大陸縦断鉄道建設予定の号外記事。あの記事の時は納期に追われちゃいたが、わくわくしたぜ。このアビリオを通ってソーンベルクまで線路が延びるんだろ? 一度乗ってみてえなぁ」
「バカ、鉄道なんてお貴族様の乗り物だぜ。お前がどうしてもって言うんなら、機関士になる方法を考えた方がいいだろうよ」
 そうして続く馬鹿笑いが、痛む頭にずきずきと響く。ああ、痛い。最悪だ。ウィルはやっとの思いでむくりと顔を上げると、まずは酒を片手に大笑いする同僚達に向かって、「誰か、俺を心配しろよ!」と訴えた。
「おお、ウィル。割れた頭はくっついたか? 痛かったなぁ。可愛そうに」
「泣き止んだなら、ジュースでも飲むか? 一杯だけならおごってやるぜ」
 そう言ってまた、笑う声。「割れてねえし泣いてねえ」と低い声で言ってみせても、誰かに届いた様子はない。だがしかし、瘤の出来た頭ばかりが鈍く痛むのを感じて、ウィルは一言「最悪だ」と呟いた。
 夜も深まる飲み屋の一角。どうにかこうにか今日の仕事を終えた同僚達と、食事に出てきたのは既に二時間も前のことであったが、ウィルの皿だけは手つかずだ。寝不足な上に昼間殴られた頭が痛んで、ちっとも食欲がわかないのである。
「親方が一発で、編集長が二発だったか?」
「……、親方が二発で、編集長が三発だよ……。親方ってば、『一緒に殴られに行くか』なんて言ったくせに、表に出るなり俺のことだけ殴ってくるんだもんなぁ」
「『うちの馬鹿もんがご迷惑をおかけしまして』ってやつだろ? でかい声だから、印刷所の中まで響いてたぜ。まあ、でもそれで丸く収まったんだから、結果オーライだと思えばいいじゃねえか」
 正論を言えば、確かにそうだ。当のルドルフは来客の予定があるとのことでこの席には現れなかったが、今回の件の後処理で、散々手間をかけさせてしまった。だが親愛なる親方への感謝の念と、この頭痛とはまた別の物である。からかうように瘤にあてられたエール入りのグラスが、ひんやりと傷を冷やしてくれるのに目を細めながら、ウィルは小さく溜息をつく。
 「しかしなぁ」とヘッセが続けた。
「それにしたって最近、あまりに仕事が……、というより、紙面に載るような事件が多くないか? この近辺で立て続けに起きてる火事のこともそうだし、北部だっていつもなら、まだ雪が降るような時期じゃないだろう。首都の方でも干魃があったらしいし、何かよからぬ事でも起きてるんじゃないかと不安になるよ」
「少なくとも、火事と異常気象とは別物だろ?」
 ドルマンが問うたのを聞き、今度はクルトが首を横に振る。
「いやいや、どこで何が繋がってるかなんて、案外わからないもんだぜ。不作で家を追い出された浮浪者が、腹いせでアビリオの町に火をつけてるって可能性だってあるしさ」
 そうして議論好きな同僚達が、またああだこうだと話し始めるのを片耳に聞きながら、ウィルは肘を突き、大きく一つ欠伸した。
 ここ最近、噂の絶えないアビリオの連続放火事件。そして異常気象。確かにどれも気になる話ではあったのだが、紙面を通してしか触れることのなかったそれらの世界は、どこか現実味がなく、他人事のように思われた。
(どっちかっていうと、サダンでやってた飛行実験の事とか、そういう話の方が楽しいのにな。……まあ、あの実験もまた失敗だったらしいけど)
 そんなことを考えながら、そっと静かに右手を伸ばす。しかしその指先が目的のものへと届くか届かないかというところで、ウィルはぎくりと肩を震わせた。唐突に、ヘッセが話題を振ってきたのだ。
「……そういや火事で思い出したけど、ウィル、お前も昔火事に遭ったって言ってたよな。ほら、胸に酷い火傷の痕があっただろ? あれはどういう火事だったんだ?」
 そっと顔を上げてみれば、ヘッセを始め、同僚達と目があった。置かれた酒瓶へ密かに手を伸ばしていたウィルがにへらと笑えば、同僚達もにこりと笑い、無言のまま、問答無用でウィルの掌中から酒瓶を引っこ抜く。
「ザルに飲ませる酒はねえ。どうせ酔いもしねえくせに」
「なんだと、このケチ。少しは怪我人を労れよ!」
「はいはい。あんまり興奮すると、折角くっつきかかった頭がまた割れちまうぜ」
「だから、割れてないっての!」
 顔をしかめて毒づいたが、相手はどこ吹く風である。ウィルは悔し紛れに痩せたチキンにかぶりつくと、一つ、大きく溜息を吐いた。ただでさえ瘤が痛むのに、先程話題に挙げられた、胸の火傷痕までもが鈍く疼き始めたように思われたのだ。
 誰に言っても信じてはもらえないが、ちょっとした曰くのあるこの傷痕が疼く時には、ろくな事が起こらない。突如発生した風雨で崖から落ちかけたこともあったし、山から下りてきた猪に目をつけられて、追い回されたこともあった。一人で奉公に出るようにと言われたのも、思えばこんな風に傷痕が痛んだすぐ後のことであったように思う。
(まあ、今日の分は先取りで、親方達に殴られてるからな……)
 これ以上の災難は、無いはずだ、と願いたい。
 見れば同僚達の興味は既に次の話題へと移り、ああだこうだと言い争っている。空のままになったウィルのグラスへ誰かが飲み物を注いでくれたようだが、飲んでみれば、それもただのジュースであった。
 
 * * *
 
「先に届けた手紙には、『本人に会わせるように』と書いたつもりでいたんだが」
 味も素っ気もないただの水が入ったグラスを傾けながら、彼は端的にそう言った。
 はるばるアビリオまでやってきて、出されたものがこの生ぬるい水一杯とは。歓迎されていないらしいことは事前に重々承知していたが、思わず溜息を吐きそうになる。だが目の前に座った人物――アビリオの街に拠点を構えるライジア印刷所の所長、ルドルフが素知らぬ様子で深々と椅子へ腰掛けたのを見て、男は小さく舌打ちした。
「私はアレの親代わりです。ご用件がおありなら、まずは私にお聞かせ願いたい」
 言葉遣いだけは丁寧だが、その表情は堅く隙など微塵も感じさせない。「本人に直接話す」と言えば、相手は穏やかに、「その本人は、今晩中に印刷所へは戻りません」と返した。
「お急ぎなのでしょう? 貴方ほど良家の出身でいらっしゃる方が、一介の技師に何のご用かは想像も付きませんが……。しかしだからこそ、アレの身に何が迫っているのか、事前に把握したいと思うのが親心というもの。ご理解いただけますか? クラウス・ブランケ殿」
 そう言って、印刷所の所長が油断のない笑みを浮かべてみせる。笑みを浮かべてはいるものの、内心ではこちらの一挙一動から、腹の内を探ろうとしているのだろう。
 突然現れた場違いな来訪者に、それだけ用心しているといったところか。そこまで考えて、クラウスと呼ばれた男は短く溜息を吐いた。これではまるで、自分が悪者のようではないか、と、そう感ぜられたからだ。
――あの方にご迷惑がかかってはいけません。出来る限り、穏便に事を運んでくださいね。
 出立前に聞いた仲間の言葉が、不意に脳裏へ甦る。どうやら初っぱなから相手の警戒心を煽ったようだと話したら、一体何と言われるだろうか。一瞬そうは考えたが、こちらの素性が裏目に出たというのなら、不可抗力の範疇だ。それに、望み通りに事の次第を一から話してやったところで、相手の懸念が解消されるとは思えない。
 ふと見れば、隣の机には最近この印刷所が出したのであろう新聞記事が無造作に積み重なっている。その一番上へ置かれた記事には、数日前にこの街で起こった、火災の件が書かれていた。
 犯人、動機、一連の事件の関連性。一切が謎に包まれている、アビリオでの連続放火事件。そうだ、確かに時間がない。相手は既に動き始めている。その確信があったから、彼自身も手間を惜しまず自らこの街へと足を運んだのだ。
 既にいつ何時、事が起こってもおかしくない。
 だから。
「もう一度だけ言う。ウィル・ドイルホーン本人と話をさせてくれ」

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