廻り火

【 第一章:アビリオでの一件 】

001:汽笛

 汽笛の音が響いていた。続いて線路の軋む音。振り返らずとも聞こえてくるのは、知人との別れを惜しむ声、そしてその門出を祝福する声である。工業都市として近年発展の一途を辿り、その中心部に鉄道の駅を有するこのアビリオの街は、今日も声に溢れていた。
「賑やかなところだな」
 呟くようにそう言うと、目の前の女は口を開け、「この街の取り柄はそれだけさ」と言って明るく笑ってみせた。そうして彼女は親しげにホットドッグを差し出すと、代わりに掌へ置かれた銅貨の数を目で数え、すぐに帳簿へ印をつける。慣れた動作だ。無駄がない。このアビリオの駅前に小さな店を持つ彼女は、これまでに一体どれほどの歳月を、この商売に費やしてきたのだろう。そんなことを考える。
「お客さん、アビリオの街は初めてかい? あんた、良い身なりだから気をつけた方が良いよ。この街にはスリやら何やら、小悪党も多いからね」
「忠告をどうも。この辺りは、昔からそうなのか?」
 問えば、女はやれやれと肩を竦め、まずは大きく溜息を吐く。
「ここ数年のことさ。最近一気に工場が増えたんで、辺りの農村からどんどん人が流れて来ちまってね。働き口があると期待してくるんだろうけど、限りってものがあるからさ。あぶれた奴らが何かと事件を起こすんで、治安は悪くなる一方なんだよ。最近じゃ、不審火なんかもよく出るしね」
「……、不審火」
 思わず、声が低くなる。しかし同時に聞こえてきたかしましい物音が、その不穏な声音をうまく掻き消した。どうやらどこかの馬車の積み荷が、バランスを崩して地面に散らばってしまったらしい。かと思えば、広場の反対側では、炭鉱夫らしい男達が何事かを言い募り、商人に詰め寄っている。その脇を行くのは、近隣の釦工場で働く女達だろうか。いずれも質素な身なりだが、大声で話し笑いあう姿が、街の活気に花を添えていた。
「この前も、ラダン通りの倉庫で放火があったらしくてね。しかも犯人がまだ捕まっていないもんだから、こっちも気が気じゃないんだよ」
 周囲の騒音などは意に介した様子もなく、女がやれやれと話を続ける。その逞しさにある種の感心を覚えながら、傍らに置いたトランクをひょいと担ぎ上げると、男は短くこう問うた。
「ところで、道を聞いてもいいか?」
 夏の日差しが、まだ残っている。
 秋にさしかかったものと思われた街はまだ熱を帯び、着込んだベストの内側に、じわりと汗を感じさせる。駅からは馬車でも拾うつもりでいたのだが、辺りを見回してみても、蹄の音を響かせるのは御者席しかない荷馬車ばかりだ。
 まだ熱の冷めないホットドッグを口へと運び、二口、三口で食べ終える。指についたマスタードをぺろりと舐めて、首に巻いたクラバットを緩めると、一陣の風が石畳の広場を駆けぬけた。
(これが、アビリオ)
 田舎町かと思っていたが、事前に報告で聞いていたより、ずっと明るく、強かな街だ。
 足下で何かがカサカサと鳴るのを見下ろすと、新聞が一誌落ちている。この辺りの地域誌のようだ。捨て置かれていた物が、風に飛ばされてきたらしい。『マルドリア・ジャーナル』という聞き覚えのある単語にそれを拾い上げると、気づかぬうちに溜息が漏れた。三面の見出しに書かれた『古天文学における惑星軌道の解析的解法』という論文のタイトルに、ふと、星を眺めるのが好きだとこぼしたかつての友人のことが思い出されたからだ。
――皆は私の力を褒めそやすけれど、私の力なんて、あの空に輝く星の光に比べたら、たいしたことはないんだよ。私自身には、民の夜道を照らすことすらままならないのだから。
 あれだけマナに愛されておいて、よくもまあ、そんな事を口にできたものだ。気が遠くなるほどの昔に聞いた言葉だというのに、今でもつい、思い出す度に毒づいてしまう。
――生命は死ねば等しく魂に還り、転生を繰り返すものだけれど、……もし生まれ変わる先を選べるのなら、その時は星になりたいな。そうすれば、今よりもずっと分け隔て無く、人々の営みを見守っていられるだろう?
 地上の細事に厭気がさして、高みの見物を決め込むつもりかと尋ねると、相手は珍しく不服そうに眉をしかめ、「それは違う」と文句をたれた。だが、今のこの状況はどうだ。お前は今世で今まさに、どこか平和な高みに座して、地上のいざこざを笑って眺めているのではないか。
 無意識のうちに握りしめていた新聞を折りたたみ、広場のベンチに置いておく。物乞いらしき風貌の男が、じっとこちらを見ていることに気づいたからだ。案の定、男は今夜の暖を取る道具にでもするつもりか、それともどこかで売るのやら、たたまれた新聞を手に取ると、浮き足だたせて去っていく。
「……、まだ」
 荷馬車の脇を通り抜け、小さな声で、呟いた。
「セドナ。まだお前を、星にしてやるつもりはない」
 
 * * *
 
「ウィル! ――ウィル・ドイルホーン! さっさと出てこないか、居るんだろう!」
 工業都市アビリオに怒鳴り声が響いたのは、市場の賑わう昼下がりのことであった。
 そこかしこから、食欲を誘う芳しい香りの漂う昼食時。秋を向かえた街は冬に備える人々の活気で賑わい、市場に並べられた様々な品は穏やかな日差しに照り輝いている。
 そんな中、ウィルは自ら握りしめたゲラで顔を覆い、「ああ」と消え入るような声を漏らした。
「おい、ウィル。お得意さんが通りで怒鳴りちらしてるぞ」
 茶化すようにそう言ったのは、職場の同僚であるヘッセである。しかし彼の言葉も存外弱々しく、見ればその目許には大きな隈をこしらえていた。おそらくは彼もウィル同様、ここ数日間ろくに眠っていないのだろう。ウィルが「殺される」と呟くと、彼は大真面目な顔をして、「編集長に? それとも、親方に?」と聞き返した。
 最悪だ。ただでさえ徹夜続きのこの時期に、なんという面倒ごとを起こしてしまったのだろう。ウィルは脇に置いた紙面を開くと、もう一度、大きく深い溜息を吐いた。
 何度確かめても同じ事だ。――スペルが二カ所、間違っている。
「ああ、なんで発行前に百回でも二百回でも確認しなかったんだ。俺は! 馬鹿か! 素人か! くそっ、……泣きたい!」
 「もうほとんど半泣きじゃねえか」あきれ顔のヘッセを尻目に立ち上がり、机に紙面を叩きつける。そうして中二階からの階段を駆け下りると、ウィルは先程から腕を組んでどっしりと腰掛けたまま考え込んでいる男の前で、まずはがばりと頭を下げた。
「今回の件、本当にすみませんでした!」
 大通りの方へ耳を澄ませれば、まだウィルの名を呼ぶ怒鳴り声が聞こえている。それが耳に届く度、情けない思いで心が萎れていくようだ。そんなウィルの思いを知ってか知らずにか、目の前に座るその男――ライジア印刷所の技師達をとりまとめる所長のルドルフは、重々しい口調でこう言った。
「お得意さんが外で怒鳴り散らしてるのは、ファーマティカの天文台で発表された論文の件か。あの記事の組版は、ウィル。お前が担当だったな」
「……ハイ」
「あの記事を出したマルドリア・ジャーナルは、うちの印刷所の上得意だ。そこの編集長が、今回論文を出した女天文学者に熱を上げてるって事は知ってるよな?」
「……、有名ですから」
「で、お前はその天文学者の記事を任されて、あろうことか女の名前に誤植をこさえてくれやがった」
 情けなくて、涙が出そうだ。消え入りそうな声で「その通りです」と答えると、ルドルフは深い溜息を吐く。そうして静かに、こう言った。
「一言だけ、言い訳を許す」
「すいません徹夜続きで意識が朦朧としてました!」
 一息にそう言い募り、また深々と頭を下げる。するとルドルフはもう一度だけ溜息を吐き、「だよなぁ」と言って頭を掻いた。正直なところ所長その人も、徹夜続きで疲れている点は他の従業員と何ら変わりないはずなのである。しかし彼は疲労の色を見せもせずに立ち上がると、その場で働く従業員全員に向かってこう言った。
「確かに、ここ最近の異常気象やら連続放火の件の号外刷りやらで、お前達には苦労をかけた。ウィルの馬鹿のド素人のようなミスはまあ、……論外だが、」
 思わず青ざめたウィルの肩を、通りがかりの従業員達が「ご愁傷様」とでも言わんばかりに叩いていく。そんな様子を横目に見ながら、ルドルフは皆にこう続けた。
「他の印刷所とも相談して、今日は夕方には仕事を終えられるよう、なんとか調整をつけてみる。だからお前ら、午後の残り数時間、ここだけ集中して取り組んでくれ! その後は、寝るなり食うなり好きにしな」
 疲れ果てた印刷技師達の間に、それでも小さく歓声が上がる。ここのところ次から次に不穏な事件が起こるものだから、報道誌を中心に扱うこの印刷所の技師達には、休む暇もなかったのだ。しかしそうして沸き立つ従業員達の中、ウィルだけは、正面口へ向かおうとするルドルフの後を慌てて追い、「俺に、謝りに行かせてください」とまず言った。
「親方に迷惑はかけられません。それにあの、マルドリア・ジャーナルの編集長だって、さっきから俺を呼んでるわけだし……」
「謝るだけで済む問題じゃねえ。マルドリア・ジャーナルからの受注が無くなりゃ、うちの印刷所は即店じまいだ。気の済むまで謝って、それでその後、今みたいな情けねえ面で相手と交渉できんのか」
 「それは……」思わず、言い淀む。
「まあ、いいから任せておきな。それとも、……一緒に殴られに行きてえって言うなら、話は別だが」
 そう言って振り返ったルドルフの顔は、悪戯っぽい様子に笑んでいた。

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