空吹きの凪

中編


 大人になったら、必ず騎士になってみせる。そう話して聞かせるニケに、「坊ちゃんになら、きっとできるよ」と屈託のない笑顔で答えてくれたのは、いつだってムーラであった。
 裏山へ探検に出ればニケが掴まえたものより大きな蛇を連れ帰り、海に出れば自らが掴まえた海風(サジ)を遊ばせるこの幼なじみは、それでもニケにこう言った。
「坊ちゃんが騎士になったら、私、きっとラーミナの葉を探してくるね。あの葉っぱ、海の方にはあまりないけど、裏山を一生懸命探したら、きっと少しくらいはあると思うの。ラーミナの葉を見つけたら、昔からのお話みたいにお守りをつくって、坊ちゃんが無事に帰ってくるのを待ってる。私、きっとそうするね」
 何を、しおらしいことを言っているのだ。はじめのうちはそう思った。騎士団には女性の隊員も多くいるのだし、風売り(サジバンナ)のように特殊な能力を持った人間であれば、特に歓迎されるはずだ。お転婆なムーラには、港で待つよりその方が合う。そう言って、共に騎士団に入らないかとニケが誘っても、彼女は頑なに首を横へ振った。
「私は父さんと同じ、風売りになるの。だけどいつか私の力が、坊ちゃんの役に立つ日が来ると良いな」
 にこりと笑った幼なじみは、やがてその言葉通り、父親と同じ風売りになった。それと時を同じくして、ニケは騎士見習いとして内地の士官学校に通うこととなったが、一年間の宿舎生活を終えて港町へ戻ると、ムーラは変わらぬ笑顔でこう言った。
「ねえ坊ちゃん。聞いてください。私、凄い発見をしたんです!」
 早く、早くとムーラが急かすので走ってみせたら、軽々と追い越してしまった。昔はムーラの方が、ずっと速く走っていたのに。首を傾げるニケの前で、ムーラは興奮気味に頬を火照らせた。
「坊ちゃん。私、この港町で、大っっっきな『ラーミナの葉』を見つけたの。港に行きましょう、私ね、これを見つけてから、坊ちゃんに教えたくってたまらなかったんです!」
 
 * * *
 
――坊ちゃんはずうっと楽しみに、こういう事件を待ってたんだよね。
 ムーラの言ったその声が、絶えず脳裏に響いている。もやもやとした思いのまま、ニケはぼんやりと船の櫂を漕いでいた。
――折角騎士になったんだから、もっと手柄をたてたいよな。いっそこの海に、海賊でも出てくれたらいいのにさぁ。
――平和な海なんて、つまんないだろ。もっと活躍の場が欲しいのに!
 考え無しに飛び出した、過去の言葉が脳裏に過ぎる。なんて馬鹿なことを言ったのだろう。騎士団が緊急出動するような事件が起こるということは、つまり、その事件の被害に遭う人間が必ず出るということだ。誰かが辛い目に遭うということだ。
 暗い目をしたあの幼なじみは、つまり、ニケにこう言ったのだ。
 「私はこんなに不安なのに、手柄をたてる機会が出来て、坊ちゃんはきっと嬉しいんでしょう」と。
――父さん、今日帰ってくるって、今度帰ってきたら、一緒に冬の帽子を買いに行こうねって、そう言ってたのに。
 真っ青な顔で肩を震わせ、それでも必死に立っていた、ムーラのことを思い出す。とぼとぼと港を立ち去る幼なじみに、かける言葉が浮かばなかった。
(……、違う)
 言葉をかけるその資格を、ニケは持っていなかった。
(ムーラのこともクルガン先生の事も、俺は家族みたいに思ってる。クルガン先生の船が戻らないって聞いたときだって、嬉しいなんて思わなかった)
(心の底から、心配したんだ。ムーラを見たとき、俺まで一緒に落ち込んじゃいけないって、そう思った。ムーラを励まさなきゃ、俺がクルガン先生を見つけなきゃ、って、俺は本当に、そう思ったから、……)
 本当に? 心の言葉に、疑問が灯る。
 ずっと、騎士団の田舎部隊でくすぶっていた。きっと手柄を立ててやると、そう思い続けてきた。
 緊急出動の話を聞いたとき、少しでも思いはしなかっただろうか。
 少しでも、期待をしやしなかっただろうか。
 絶好のチャンスが訪れたのだ。ここで手柄を立てれば、自分も『荒野の鷹』のようになれるのだ、と。
 小さく短い溜息を吐き、手にした櫂を握り直す。そうしてニケが目を伏せた、
 その瞬間。
 ゴッと鈍い衝撃が、ニケの後頭部を打ち付ける。その不意打ちに咄嗟に反応することが出来ず、しかし櫂を手放すわけにも行かず、ニケがその場で呻いていると、すぐ後ろから声がした。
「おいコラ、何をぼさっとしてやがる。周りにあわせて櫂を漕げ。じゃないといつまで経っても、浅瀬から出航できねえだろうが!」
 聞こえた声は、片腕のガランのものである。ニケが悪態を吐きながら、それでも櫂を漕ぐ手に力を込めると、相手がふんと鼻で笑う。
「お前なあ。港であんなふうに言われておいて、これ以上、嬢ちゃんをがっかりさせる気か?」
 聞いて思わず、びくりとした。慌ててガランを振り返れば、「だから漕ぐのに専念しろ」と、また櫂の先で殴られる。
「ガラン、ど、ど、どこまで聞いて……!」
「全く。目的の船が見つからなけりゃ、お前の日頃の行いのせいで、俺達まで風売りの嬢ちゃんに白い目で見られちまうじゃねえか」
「ニケのデリカシーのなさが、まさに光った瞬間だったよな。はらはらさせるんじゃねえよ、ほんと。あとムーラを泣かせんな」
「それに比べてムーラは偉いなぁ。ただでさえお袋さんを亡くしてるのに、親父さんの消息もわからないだなんて不安で仕方ないだろうに、一所懸命に堪えててさぁ。幼なじみなのに、なんでニケとはああも違うもんかねえ」
 ガランに続いて他の船員達までもが言葉を続け、最後に互いの同意を求めるように「なあ?」と言葉をあわせている。ニケは自らの頬が真っ赤に紅潮していくのを感じながら、それでも櫂を漕ぐ手に力を込めた。
「なんで、……なんで、お前らみんな聞いてんだよ!」
「そりゃだって、ムーラは船乗りみんなにとっての期待の風売りだし」
「良い娘だよなぁ。港で会う度に、『坊ちゃんがまた馬鹿なこと言ってご迷惑をおかけするかも知れませんが、どうぞよろしく』なんて言ってさぁ」
「はぁあああ!?」
 情けなさに身震いする。しかし船員達は皆一様ににやにやと笑うだけで、少しもニケに取り合わない。「ああ、くそ!」力任せに櫂を漕いで、悪態を吐けば、隣に座ったシディアが、「しっかりやれよ」と軽い口調でそう言った。
「手ぶらで帰港して、『やっぱり口だけの男だった』なんて思われたくはないだろう」
 からかい混じりのその言葉に、思わず相手を睨み付ける。しかしシディアの腕に走る古い縫い跡を見て、それから周囲の船員達を見渡し、ニケは口元をへの字に結んだ。
 十二年前に起こったハンディアナ沖海戦の功労者達で主に構成されたこの隊、ラーミナ騎士団西域物資運搬部隊――。各々に負傷し第一線を退いた先輩隊員達の多くは、しかし紛れもなく戦線を戦い生き残った、アヴニール王国の戦士なのである。
「……、そうだよ。俺は、手ぶらで帰るわけにはいかないんだ」
 ぶすっとしたまま、呟いた。
「おや、今日はやけに素直だな」
「うるせー。それより、出航してこれからどうすんだよ。手がかりもなしに、闇雲に船を探すのか?」
 「いんや」暢気な声が降ってくる。はっとして甲板へ続く階段の方へ向き直れば、隊長である隻眼のハマーンが、にやりと嗤ってそこにいた。
「目的の船が最後に他の船団に目撃されたのが、二日前の夕方のこと。船はグラン海峡を経てレンスの港を目指していた。凪に遭って帆船が動かず、波に攫われた類の事故なら、潮を追って南へ捜索範囲を広げるところだが、船に風売りのクルガンが乗っていたなら話は別だ。あいつはどんなに小さい海風でも読めるからな。ちょっとやそっとの凪地帯なら、うまく海風を読んで脱出しているはずだ。それでも船が抜け出せずにいるのなら、それは、『孤立せる無風の群島地帯(グラニシア)』にでも迷い込んだと考えるのが妥当だろう」
 「魔狩りの夜(グラニシア)……」思わずニケが呟くと、その周囲で他の隊員達も、覚悟を決めた様子で唾を飲む。
 海の凪いだ日に現れる、海底に住む化け物達の御伽噺、魔狩りの夜。「悪い子には、魔狩りの夜の魔物が出るよ」親から子へと語り継がれるその存在は、ただの御伽噺に違いなかった。子供の頃には怯えても、誰もが成長するにつれ、段々と曖昧な記憶の中に埋もれさせていく物語。しかしその言葉が、この海域に駐屯するラーミナ騎士団の口から発せられたとなれば話は別である。
「隊長。あそこへ向かうんですかい」
 堅い声でグルダが問えば、ハマーンは鷹揚な様子で頷いた。
 孤立せる無風の群島地帯――。西へ進んだ蒼海の果てにある、海図にも記されることのない無名の群島地帯のことを、騎士達は皮肉を込めてそう呼んだ。陸地からは離れた場所に位置し、航路からも大きく外れたこの島は、民間人にその存在を知らされることなく、騎士団の隊員ですら通常は上陸することを禁止されている場所であった。
 その理由は諸説あったが、中でも特に耳にするのは、――
「そう。我ら一番隊はこのまま更に西へと進み、未確認の魔物の出現報告が多く上がる事で有名な、群島地帯の探索だ。群島地帯へ入る前に、別の場所で船が見つかれば、それに越したことはないが……。てめえら、少しでも気を抜くんじゃねえぞ」
「了解(バルザフ)!」
 腹の底から言葉を返す。再び甲板へ戻っていくハマーンを見送って、しかし隣に座るシディアを見ると、ニケは思わず目を瞠った。
 シディアの腕が、微かに震えている。錯覚だろうか。船の揺れのせいなのだろうか。しかしニケが言葉を失っていると、その視線に気づいたのであろうシディアが、にやりと笑ってこう言った。
「武者震いだよ、またあの島に上がれるのかと思ったら、ちょっとな」
 低い声が、隠れていたニケの臆病心を撫でていく。
「シディアは、群島地帯に行ったことがあるのか」
「あるよ。この顔の傷は、その時のもんだ。ガランの左腕も、ソドマの鼻もな」
 聞いて、今度こそニケは戦慄した。群島地帯の存在は、騎士になったばかりの頃に聞いて知っていたが、件の島へ行ったことのある人間が、こんなに身近にいるとは思っていなかったのだ。
 「いつ」と問う声が、やはり微かに震えている。応じるシディアの言葉は、簡潔だ。
「歴史に名高い、ハンディアナ沖海戦の真っ最中さ」
 
 ハンディアナ沖海戦。これはニケの暮らすこの国アヴニールと、隣国ヘルバンドとの戦争に終止符を打った、七つの海戦の総称である。三番隊にハマーンの率いる戦闘部隊を含んだラーミナ騎士団は、当時の主力艦隊であった第三角帆のキャラヴェルを巧みに利用し、国の西岸に広がる蒼海の制海権を掌握した。
 ニケの属するラーミナ騎士団西域物資運搬部隊は、このハンディアナ沖海戦を戦い抜き、しかし負傷して第一線を退いた騎士で構成されている――。その事は、ニケも重々承知していた。だが彼らの傷は皆、戦いの中で刻まれたものであったはずだ。
「群島地帯とハンディアナ沖海戦に、何の関係があるんだ?」
 ニケが尋ねても、船員達は苦笑を漏らすばかりで、答えようとはしなかった。「俺をからかう時は、あんなにお喋りだったくせに」とニケが食い下がっても、一向にお構いなしだ。
 ただ船が静かに港を離れ、やがて帆を張り船員達が甲板へ上がってくる時分になって、ガランがぽつりと、こう言った。
「ハンディアナ沖海戦の勝者は、間違いなく俺達ラーミナ騎士団……、ひいてはアヴニール王国だ。だが海戦の中でも特に、中盤のサディアン海戦は、当時最新鋭の旋回砲を持っていたヘルバンド王国軍に分があった。辛くも俺達が勝利をおさめられたのは、群島地帯があったからだ」
 彼の目はようやくのぼり始めた、朝日をじっと睥睨している。
「俺達はあの時、『孤立せる無風の群島地帯』に助けられたんだよ」
 
 やがて陽が真上に昇り、それが西へ沈む事を三度繰り返す間船を進めても、目的の運搬船を見つけることは出来なかった。ついには他の隊からもめぼしい連絡を受けることがないままレンス港の灯台は山の端にも見えなくなり、ニケ達の乗ったキャラックは、他との連絡手段のないまま蒼海を航海し続けている。
 船首と船尾に船楼を設けた、三本マストのこのキャラックは、ハンディアナ沖海戦で活躍したキャラヴェル船に比べ、風をはらみやすい横帆を含めて五つの帆を備え、悠々自適に海を渡る。物見台からグラスを覗いていたニケは、その船が陸地を離れて久しいのを見て、小さく息を吐いた。ついにこの船が、通常の航路を離れ、群島地帯への道を進み始めたのだと理解していたからだ。
 訓練を始め通常の航海において、この船が完全に陸地を見失い、大海原を進む事態などはそうそうある事ではない。潮に流され、風に翻弄されるこの海において、コンパスの針は船員の命を賭けるに値する指標にはなり得ず、夜を待たねば観測できない星を頼りに進むより、陸地を沿って沿岸部を進む方が余程危険が少ないからだ。
 ふと、背後のマストを振り返る。見ればその雄大な帆には、ラーミナ騎士団の隊章が描かれていた。陸の象徴である獅子と、空の象徴である鷲が並び立つ姿の上に、剣と杖とが交差している。まるで海上の戦いになど焦点の当たらないその隊章は、海でくすぶるニケにとっては、もどかしさの象徴とさえ思われた。
(海で頑張ってる奴だって、いるんだぜ)
 心の中で、そう呟く。そろそろ潮目だ。微かな風と潮の流れを読み、足りない分は風売りから仕入れた風の一切れ(フィラーサジ)で上手く補わなくては。番を交代したニケが物見台からするすると降り、甲板に降り立つと、尚更揺れを身近に感じた。
 濃い潮の匂い。喚く潮騒。海で育ったニケにとって、この揺れは、この香りは、この音は、全て生活の一部であった。暮らしの中心に、いつでもこの蒼海の存在がある。
(クルガン先生達、どうしてるかな……)
 船は航海の途中に消えた。最寄りのレンス港に姿を見せないのだから、必ず、この海域のどこかを彷徨っているはずだ。
(海の上か、それとも、……)
 魔狩りの夜の物語を思い出し、ニケは思わず、身震いした。海の底から目覚め這い出た魔物達が、人々の船を深い海中へ引きずり込む――。物語の全てが真実ではない、と頭では理解しているのだが、実際の群島地帯には未確認の魔物が多く出ると聞いている。目的の運搬船がその地域へ迷い込んだかもしれないというのなら、つまり、そういうことも起こりうるのではないだろうか。
 脳裏に過ぎった悪い予感を打ち消そうと、咄嗟に目を閉じ、首を振る。弱気になってはいけない。こんなところで、怖じ気づいてはいられないのだ。
――大丈夫、クルガン先生のことは、絶対に俺が見つけてくる。
 一方的なこととはいえ、ムーラと約束したのだから。
――なんたって俺はこういう時のためにこそ、騎士団に入ったんだから。
(俺は、絶対、)
――坊ちゃんになら、きっとできるよ。
 騎士になることを両親からどんなに反対されても、ムーラだけはいつだって、そう言って勇気づけてくれていた。あの時もらったムーラのお守りは、今でも常に、制服の内ポケットへしまってある。最近、会えば小言ばかりの彼女は、もしかすると、昔のことなどもう忘れてしまっているのかも知れない。けれど。
(手ぶらじゃ帰らない。必ずクルガン先生を見つけ出すんだ。船を見つけて、乗員全員、助けてみせる)
 思いを握りこむように、ぐっと奥歯を噛みしめた。
 しかし、その時。
 不意に感じた違和感に、ニケは辺りを見回した。明け方の海に、なにやら妙な揺れを感じた気がしたのだ。
(潮目……?)
 甲板に立って目をこらし、じっと耳をそばだてる。すると、
 ぐらりと世界が、鳴動した。
 咄嗟に帆柱へ手をかけて、ニケは大きく息を呑む。船が激しく揺れている。甲板全体がぎしぎしと、いやに軋んだ音を立てた。
「二十度の方角、水中に黒い影を確認!」
 帆柱を伝う、鉄で出来た連絡管から声がする。物見台のグルダの声だ。
『数は!』
「確認できたのは一体のみ! 動きが鈍い、これなら振り切れる!」
 船室から延びた別の連絡管から聞こえた声に、グルダの声がそう答える。ニケはごくりと唾を飲み込むと、あらかじめ帆柱に巻かれた麻縄を、右手に幾重も巻き付けた。そうして命綱を握りしめ、甲板から海を覗き込む。
 手にじっとりと、汗を掻いていた。
――海の底の魔物達にまで、月の光が届いているかもしれないでしょ。
――もしかしたら、ねえ、もしかしたら、父さん。
 船の下に、何か居る。その覚悟はしていたのに、それでもニケは、暗い海に灯るその不自然な光を見て、総毛立つのを感じていた。
 波の中に、ぽつりと光る円がある。その円が蛇のような複数の触手に隠れ、また現れて、ニケ達の乗る船をじっと見据えている。人の頭程度の大きさに見えるそれは、――間違いない。クラーケンの片眼だ。
 思わず小さく悲鳴を零し、しかし咄嗟に、手近な連絡管へと走る。「クラーケンだ!」腹から声を張り上げた。
「目算ですが、目の大きさは人頭程度。中型の種と思われます!」
 クラーケンの全長は、その目の大きさからある程度推測することができる。そして蒼海の船乗りは、推測された全長を元に、その場の対応方法を決めるのだ。――騎士団に入ったばかりの頃、士官学校で学んだ知識を咄嗟に思い出す事が出来た自らに、内心拍手を喝采させる。ニケの報告を聞き、『よく報せた!』と堅い声がした。船長であるハマーンの声だ。
『総員、配置に付け! 砲台と海風の準備を整えろ! 奴を大砲で撃つのと同時に船を進め、クラーケンから距離を取る!』
 「了解!」答えようとして、次の揺れに舌を噛む。足がもつれて胃が浮いた。
(海へ、投げ出される――!)
 しかし青ざめたその瞬間、誰かの大きな手が、ぐいとニケを引き戻す。
「バカヤロウ、命綱を緩める奴がいるか! しっかり握ってろ!」
 吠えて、容赦なくニケを甲板へ叩きつけたのは、シディアである。彼も左手に麻縄を巻き付けて、その腰には、白兵戦用の一太刀を帯びている。
 それに続いたのはゼオだ。彼らは揺れる甲板を身軽に駆け、船の甲板へ延びたクラーケンの足を易々と切断した。
(お、俺も……!)
 気持ちは急いたが、手元にあるのは小ぶりのナイフが一本だけ。重たい剣を振り回すより、お前の身軽さを活かせるようだ、と、以前隊長にナイフの扱いを褒められてから、ニケの得物はいつもナイフだ。しかし普段なら戦闘用のナイフを二振り持っているのだが、見張り台へ登るのに邪魔なため、船室に置いてきてしまっていた。
 それでもクラーケンへ向かおうとしたニケの襟元を、今度は甲板へ上がってきたガランの腕が引き掴む。
「どいてろ、お前なんぞに太刀打ちできるか!」
 再び甲板へ尻餅をついたニケを置き去りにして、ガランが砲台へと駆けていく。怒りにまかせて身を起こしたニケは、しかし既に怒りの矛先を失った事に気づき、地団駄を踏んだ。
「くっそー、……くっそー!」
「ニケ、遊んでる場合じゃないぞ! クルガン達を助けたいんだろ!」
「わかってます! でも、蒼海にこんなでかいクラーケンがいるなんて!」
「それだけ、群島地帯が近いって事だろうよ。さあ、考えろ! お前が今、するべき事は何だ!」
 がなり立てるハマーンの声。切断された足から赤黒い血を流し、しかし船からは離れようとしないクラーケン。それらをじっと睨み付けると、ニケは麻布をまた固く握りしめ、甲板の後方へと駆けだした。
――お前のその身軽さは、まるで猿みてえだな。
(足の速さと身軽さだけは、俺は誰にも負けねえんだよ!)
 クラーケンを大砲で撃ち、同時に風の一切れを解いて船を進める。ハマーンの指示を脳裏に反芻しながら駆ければ、縄目に結われた海風を手にしたソドマの姿がある。しかし揺れに気を取られて、なかなか縄目を解けずにいるようだ。
「ソドマ、海風を!」
 声をかけ、ナイフを咥えて空いた手を伸ばせば、ソドマの差し出した風の一切れの縄目が触れた。それを掴むと後甲板へと駆け上がり、砲台のガランに目配せする。
 ガランの右手がさっと挙がる。導火線に火が付いた。
 幾人かが急ぎ、低層甲板の開口部を閉じたのを見て取ると、ハマーンの吹く号笛が場に鳴り響く。
 大砲音が轟くのと同時に、きつく結われた縄目を、一度に解いて解放する。
 ピィィッと、躍動する海風が音を立てる。解放された海風ははぜて強く帆布を張り、海風を受けたキャラックは、船首を下げて加速した。
「やった……!」
 誰ともなく歓声が沸く。しかし、
 不意に視界が翳るのを感じて、ニケがはっと振り返る。見れば大砲を撃ち込まれ、身を捩って海底へ戻ろうとするクラーケンの足が、ひゅんと目の前を横切った。しなるその足は真っ直ぐに、次の海風を解放しようとする仲間へ向かっている。
「ソドマ!」
 叫んで、咄嗟に仲間を庇うように駆けた。そうしてソドマをその場へ押し倒し、自らも甲板の床へ頭を打つ勢いで場に伏せると、そのすぐ頭上を、音を立ててクラーケンの足が通り過ぎていく。
 ささくれ立った木の板に顔を押しつけたまま、じっと耳を澄まして待った。もう一度高らかな大砲音が聞こえたかと思えば、いまだ船を掴んでいた何本かのクラーケンの足が、みしみしと音をさせながら、しかし船から離れ、海中深くへ潜っていく音が聞こえてくる。
「ニケ、……ありがとうな」
 揺れる甲板でようやく身を起こしたソドマが、青い顔をしてそう言った。しかしその頭上では、また聞いたこともない鳴き声を上げる大型鳥類が、我関せずといった表情で飛び交っている。
「これが、……『群島地帯』」
 誰かの発したその呟きが、まるで凪の海に落ちたひとしずくの水滴のように、人々の耳に染みこんだ。
 
 風の吹かないその土地に、穏やかな波だけがただ寄せては返しを繰り返している。
 汚れのない砂浜は日中の日差しに明るく白んで見え、隊員達のつけた足跡を、波のうちへとすぐさま眩ませてしまう。沖の岩陰へ何人かの隊員と共にキャラックを置き、小舟で群島地帯のうちもっとも大きな島へ上陸したニケ達は、しかし陸地に突き立った無数の剣を前に、ただ言葉を呑み込んだ。
「これ、……ラーミナ騎士団の剣だよな。こっちは、ヘルバンド王国の白銀騎士団の紋章が入ってる」
 呟いて、そっと剣を引き抜いてみる。持ち手の錆びたその剣の、刃の腐食が激しいのを見て、ニケが小さく唾を飲む。血だ。おびただしい血に濡れた剣先は、陽に晒され人知れず、年月を経てここで朽ちていったのだろう。
「ハンディアナ沖海戦の置き土産さ」
 背後から聞こえた声に、ニケは思わず、びくりと肩を震わせる。振り返ればハマーンが、気に入りの羽根付き帽を脱いでそっと胸元へ置き、そこで静かに黙祷していた。
「サディアン海戦の頃、戦況は膠着していた。ヘルバンド王国には旋回砲があったが、祖国アヴニール王国の帆船には全て専任の風売りが乗船していたからだ。近海のガレー戦では奴隷制度の残るヘルバンドに後れを取ったが、帆船同士が沖合でぶつかりあうのに、風を使える有利は大きかった」
 ハマーンに倣って、他の隊員達も同じように黙祷する。ニケも慌てて剣を戻し、目を閉じた。
「風下に追い込んだヘルバンドの帆船が敗走するのを追って、無風の群島地帯へ迷い込んだのが、忘れもしない王国歴一五二年の秋のこと。同じ頃、ガレーで港を攻め込まれていた俺達には、ここで勝利を収めるより他に、道は残されていなかった。
 無風地帯で完全に機動力を失ったヘルバンドの船を仕留めるのは容易く、この時のことが決定打となってアヴニールは制海権を確かにしたが、群島地帯の魔物の襲撃で、俺達も多くの仲間を失った」
 墓標を見るような穏やかな目で、ハマーンが並び立つ剣を見つめている。そうして彼は低い声で、ぽつりとこう言葉を続けた。
「両国の英霊に、敬意を」
 誰もがじっと、押し黙る。涼やかな波の音だけが、背後にそっと響いている。そうしてからハマーンは、隊員達に指示を出した。
「島内では二人一組で行動する。一組に一つずつ焔の民(フラシナ)の発火筒(フレド)を持っていけ。使いどころは各自に委ねる。ただし、この島での活動時間は日暮れまで。それまでに何も見つけられなければ、群島地帯の探索は打ち切りとする」
 「打ち切り、……でも、他の島も見て回った方が良いんじゃ」ニケが思わず口を出すと、ハマーンは堅い表情でこう説いた。
「風を失い、潮に流されて来たのなら、群島地帯の中でも特にこの島へ流れ着いている可能性が高い。第一、まだここに目的の船が迷い込んでいると決まったわけじゃないんだ。もしかすると今頃、他部隊が別の場所で、救助に成功している可能性だってある。群島地帯での探索にどんなに危険を伴うか、クラーケンに遭って実感しただろう。ここで無闇に、時間を割くわけにはいかないんだ」
 そうして隊員達に探索開始を指示しておいて、ハマーンは後から、ニケにだけこう付け足した。
「ひよっこのお前を、待機組ではなく探索組に加えた理由をよく考えろ。――正しく騎士としての行動を取れよ、ニケ」

Ann & Thor All Rights Reserved.