空吹きの凪

後編


 
「群島地帯(グラニシア)の魔物には、好戦的な種もあれば人に興味を持たないものもある。よく見極めて行動しろ」
 そう話して進むガランの後を、コンパスを持って着いていく。ハンディアナ沖海戦の最中に利き腕である左腕を失った彼は、それでも難なく邪魔な枝を切り、足元に獣の残した跡がないかと周囲を見回りながらさっさと進んでいってしまう。士官学校での実地訓練以来久方ぶりの獣道に、ニケは初めのうちこそもたついたが、進んでいくうちに段々と、ガランと同じペースを保てるようになっていた。
「なあ、ガラン」
 近づく獣の気配を察知し損ねないよう、声を潜めて話し出す。
「海戦の時は、この島にも上陸したんだよな?」
 聞けば、相手は「そうさ」と頷いた。「風を失ったヘルバンドのやつらが、帆船を捨ててこの島に逃げ込んだのさ。何が何でも敵艦の大将の首を取って帰って、港まで攻め込まれていたガレー隊を退ける必要があったからな。俺達もおおいに殺気だって追いかけたわけよ」
「……。俺、騎士としてこの部隊に配属されたとき、群島地帯の事は『未確認の魔物が多く生息する危険な無人島』で、『航路からも離れているし、帆船で行くには不向きだから絶対に立ち寄るな』とだけ聞いてたんだ。そんな事があったなんて、知らなかった」
 草木を掻き分け進んでいくと、どうしても、浜から少し進んだ陸地に突き立てられていた、無数の剣を思い出す。
 歴史に名高いサディアン海戦で、ラーミナ騎士団が敵将を討ち取った場所。ハンディアナ沖海戦の勝敗を分けた、熾烈な戦いが行われた場所。――そして恐らく、祖国のために戦った多くの騎士が、命を落とした場所。そんな島がそうとは知られぬまま、ただ朽ちてゆく無数の剣と共に、海にぽかりと浮いていた。
「まあ、この島はちょっとばかり特殊だからな。変な噂が立って貿易に支障が出ても困るし、それにほら、……船乗りってのは、海の上で死にたがる生き物だ。あいつらは未知の島で魔物に殺されたわけじゃない。海の上で、敵艦と勇敢に戦って死んだんだ。俺達が、ただ、そう思いたかったのさ」
 ガランがそう言って笑うのを、ニケは黙って聞いていた。そうしてふと足元に、長い葉と、それに寄り添うようにたれる穂を見つけて、足を止める。
(ラーミナの葉……)
――坊ちゃんが騎士になったら、私、きっとラーミナの葉を探してくるね。
――ラーミナの葉を見つけたら、昔からのお話みたいにお守りをつくって、坊ちゃんが無事に帰ってくるのを待ってる。私、きっとそうするね。
(船乗りは、海の上で死にたがる生き物……)
 ガランが笑いながら言ったその言葉が、ずしりと胸に落ちてくる。そんな事、今まで考えもしなかった。
――折角騎士になったんだから、もっと手柄をたてたいよな。いっそこの海に、海賊でも出てくれたらいいのにさぁ。
(海の上で、……死ぬ)
 そんな覚悟、
 今までに一度だって、したことがあっただろうか?
 「ガラン、聞きたいことがあるんだけど」ニケが言うと、ガランが生返事をしながら、浅く振り返る。「隊長が最後に言ってた、『正しい騎士としての行動』って、」足元に生えていたラーミナの葉を、そっと一房、手に取った。しかしふと顔を上げ、
 ニケはその場で、青ざめる。
「ガラン、――後ろ!」
 叫んだ。それに被せるように、見知らぬ獣の咆哮が響く。
 咄嗟に身を翻し、鋭い爪をすんでの所で避けきった。しかしそのまま体勢を崩して側の木の幹に背をぶつけ、それでも、目の前に現れた熊のような大型の魔物を、視線ですぐに追いかける。木の枝で切ったのだろう、すり切れた手の甲の傷から滴る血が、やけに熱く感じられた。だが今は、それよりも、
「ガラン」
 呼ぶ声が、喉の奥に引っかかるようで息苦しい。しかし、「情けない声、出してんじゃねえよ」と聞こえてきた言葉を聞いて、いささか恐怖が和らいだ。ニケの声で魔物の存在に気づいたガランも、すれすれにその爪を避けている。肩をいくらか自らの血で濡らしながらも、危うげのない足取りでその場へ立ち上がると、彼はその右腕ですらりと剣を引き抜いた。
「ニケ、合図をしたら北へ走れ。いちいち魔物の相手をしているわけにはいかねえ」
 ごくりと唾を飲み込んで頷くと、しかし表情は青ざめたまま、ニケはにやりと笑ってみせた。「わかった」と応える声が震えていないことに、ひとまず安堵する。
「ここでこいつと戦り合ったところで、何の手柄にもならないもんな」
 いつもの調子で、軽口を。するとガランはふと笑って、じっとこちらの様子を窺っている、例の魔物と向き直る。
 聞いたこともない鳥の鳴き声が、どこかで低く響いていた。じりじりと徐々に後退すれば、その分魔物が距離を詰める。ニケの踏んだ木の枝が、ぱきりと乾いた音を立てた。その時、
 ガランの剣が宙を凪ぐ。――合図だ。
 即座に地を蹴り、駆けだした。
 逃げたニケとガランの姿を見て、魔物がまた吠え、追いかけてくる。物音を聞きつけた他の魔物が寄ってくるかも知れない。今のうちに少しでも、距離を取っておかなくては――。しかしそうしてしばらく駆けて、ニケは小さく悲鳴を漏らす。
 鬱蒼と茂る木々の間を駆けるうち、ふと唐突に視界が開けた。だがその理由に思い当たるより以前に、何か、やわらかい土を踏む。
(違う、……坂!)
 踏んだ地面が途端に崩れ、急な斜面へ投げ出された。咄嗟に受け身を取り、奥歯を噛みしめたが、どこかに強く頭を打つ。
 視界にぱたりと、暗闇が落ちた。
 
 * * *
 
「なあムーラ。これはちょっと、大きすぎやしないか?」
 呆れた口調でそう言えば、ムーラが心外そうに振り返る。大きなラーミナの葉を見つけたのだというムーラに黙ってついてきたが、彼女が指さしたものを見て、ニケは思わず吹き出してしまった。
「でもほら、形は、なんとなくラーミナの葉に似てるでしょ?」
「まあ、なんとなくなぁ」
「大きい方が、ご利益だってあるかもしれないし」
「それはないだろ。絶対ない」
「大発見だと思ったのに」
「大発見? ……大袈裟なんだから」
 膨れっ面の幼なじみへ、「ムーラって、たまに凄く馬鹿っぽいよな」と呟けば、今度はばしんと背を叩かれる。
「私は、心配してるんですからね! 坊ちゃんったら向こう見ずなわりに変なところで抜けてるし、騎士になって危険な任務に行ったりしたら、大きな怪我をするんじゃないかとか、また無茶なことをするんじゃないかとか、心配だから、……だから、」
「そんなに信用ないのかよ」
「自業自得です! たまには我が身を振り返ってください!」
 そう言ってムーラが、ぷいとそっぽを向いてしまう。こうなった時のムーラを放っておくと、後々何かと面倒だ。ニケは音をたてないように溜息を吐くと、まずは軽い調子でこう言った。
「怒るなよ。見える。見えます、ムーラ先生。ラーミナの葉に見えてきました」
 「今更言っても遅いです」ムーラの機嫌は直らない。
「確かになぁ。ムーラにはいつもいつも心配ばかりおかけして申し訳ないなぁ。俺も反省しなくちゃなぁ」
 膨れっ面をしたままのムーラが、それでもニケを振り返る。もう一押しだ。
「だけど騎士になった以上、いつかは危険な任務にもあたるだろうし、できたら俺もお守りが欲しいなぁ。ムーラが見つけてくれたラーミナの葉は大きすぎてポケットに入らないし、かといって本物の葉はこの辺りではあんまり見ないし、ムーラが世界でたった一つのお守りを作ってくれたら、嬉しいんだけどなぁ」
 「世界でたった一つの、お守り?」ムーラがおずおずと聞き返したのを聞いて、ニケはにやりと笑ってみせた。そうしてその場の思いつきを、まるで重大な秘密かのようにそっとムーラへ耳打ちすると、彼女は一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑ってみせた。
「そんなもので、いいの?」
「いいさ。なによりのお守りだろ?」
 聞いた彼女は、誇らしそうに胸を張る。「わかりました。じゃあ私、坊ちゃんのために『世界でたった一つのお守り』、作ります。坊ちゃんがどんな任務に行っても、無事に帰ってこられるように、一生懸命作ります」
「ありがたき幸せ」
「ふふ。ちゃんと持ち歩いてくださいね。うっかりなくしちゃ駄目ですよ」
 
 * * *
 
 最初に視界に入ったのは、夕焼けに赤らむラーミナの葉であった。
 頭が鈍く、疼いていた。何故こんなにも、体が重く感じられるのだろう。いまだ覚束ない意識の内で、そんな事を考える。ともすれば、また目を閉じてしまいそうになりながら、ニケはぼんやりと耳を澄ませていた。どこか遠くで、耳に馴染んだ波の音が聞こえている。
――ねえ、知ってる?
 海水が浜に戯れる、子供達の噂話にもよく似た潮騒。幼い頃はニケもよく、波打ち際でムーラの耳に、こんな言葉を囁いた。
――この海をずうっと行くと、誰も知らない島がたくさんあるんだ! そこには俺達が見たことのないような、すっごくキレイな植物や、動物が、たくさん生きてるんだって。凄いよなぁ。いつか、行ってみたいなぁ。
 体のあちこちがずきりと痛む。痛む左手を見れば、擦りむけた甲から、じくじくと赤い傷口が覗いていた。
(俺は何を、してたんだっけ)
 ここはどこだろう。一体何を、していたのだろう。
 冷たい地面に横たわっている。体が重い。頭が重い。しかし、――何故。
――坊ちゃんは本当に、冒険が大好きなんだから。でも、気をつけてくださいよ。冒険に危険はつきものだ、って父さんが言ってたもの。
――わかってるって。ムーラは心配性だなぁ。
(ああ、……そうだ。クルガン先生の乗った船が、行方不明になって、それから)
――大丈夫。俺ならもし魔狩りの夜(グラニシア)に遭ったって、必ずピンチを乗り切れるさ。
 緩慢な動作で、しかしやっとの事で起き上がる。そうして頭をゆるゆると振り、ようやく自らの状況を察すると、
 ニケはその場で、青ざめた。
(……、群島地帯)
 途端に直前までの出来事が、ふっと脳裏に蘇る。魔物から逃げ、駆けるうちに、足を踏み外して草木の茂る斜面へ落ちた。恐らくはその時に、頭を打つなりしたのだろう。転がり落ちたニケは巨木の根元へ引っかかるようにして、しばらく気を失っていたらしい。先程までは天高く頭上に見えていた太陽が、気づけば沈みかけている。木を支えにして立ち上がってはみるものの、体のあちこちが痣や擦り傷だらけになり、頭にも鈍い痛みがあった。
「……ガラン」
 小さくそう呼び、慌てて辺りを見回した。確か、彼も一緒に坂道を転がり落ちたはずだと思ったが、周囲に姿は見られない。
(まさか、はぐれたのか?)
 夕日の射す斜面の中腹に、ぽつりと一人、立ち尽くしている。そうしているニケの頭上には、見知らぬ大きな鳥が飛び、斜面を見上げて目をこらせば、やはり見慣れぬ獣の足跡があった。
 ふと足元から、震えが来た。
(俺は、こんな所に一人で、何をやってるんだ?)
 背に冷や汗が湧いて出た。どくり、どくりと不安の音が、胸の大半を占めていく。
(合流、……そうだ、合流しなきゃ。俺がここにいること、誰かに報せなきゃ。発火筒(フレド)はガランが持ってる。何か、何か他に合図を)
 未確認の魔物が多く生息する、無風の群島地帯。その島の危険なことは十分に承知していたはずなのに、まさか仲間とはぐれるだなんて。
(大体、この島での活動時間は日暮れまでだったはずだ。もうこんなに陽が落ちてる。もし日暮れまでに船へ戻れなかったらどうなるんだ? 隊長は、なんて言ってたっけ。まさか俺、このまま島に、一人で、)
 ぶるりと背筋が粟立った。
 この場にもしも取り残されたなら。そんな思いに、今度は頭を打ったわけでもないのに、また視界が暗転するような気さえした。しかし途方に暮れたニケの視線の先には、
 変わらず夕焼けに彩られた、ラーミナの葉が見えている。
――正しく騎士としての行動を取れよ、ニケ。
「正しく、騎士としての、――」
 ふいに言葉がこぼれ落ちる。そうしてそっと、制服の内ポケットへと手を伸ばすと、そこには以前ムーラから渡された、小さなお守りが入っていた。
 港の周辺ではなかなかラーミナの葉が見つからないからと、幼なじみがくれた小さなこより。それは話に聞くラーミナの葉で編んだ腕飾りとは似ても似つかなかったが、それでもニケはそのこよりを身につける度、ラーミナの葉の誓いを思った。
「正しい騎士、」
 呟く。ラーミナの葉はニケの思いになど知らん顔をして、すらりとすまして立っている。
「正しい騎士。俺にとっての、俺がずっと思い描いていた、『正しい騎士』の姿は、」
 ごくりと唾を飲み込んで、ナイフを二振り引き抜いた。そうしてじっと耳を澄ます。風のないこの島に、梢のさざめく音はない。もし木々が揺れるなら、それはなにがしかの獣がしたことだ。
(足、……ぶつけたところは痛いけど、捻ってはない。大丈夫、歩ける)
 緊張に高鳴る胸を押さえ、転がり落ちてきた斜面を仰ぎ見る。いくらか前に、雨か何かで土砂崩れでもあったのだろう。先程まで歩いていたところとは違い、斜面に生えていたらしい木々がまばらにへし折れている。地面に生えた草を見れば、いずれも柔らかな土地を好むものばかりだと知れた。
(傾斜が急な上、地盤が安定していないから、無闇に登るのは危険だ。場所を報せるにしても、ここじゃ狼煙を上げることも出来ない。ガランもきっと、ここを一人で登るより、いったん下へくだるはず)
 とにかく、まずはガランと合流すべきだ。こうしている内にも、陽は刻一刻と落ちていく。夜になれば魔物の動きが活性化する。今のうちに、少しでも、出来ることをしておかなくては。
(隊長、俺、何が『正しい』行動なのかなんてわかりません。俺はただ漠然と、ベルトランみたいな騎士になりたかっただけです。颯爽と誰かを助けられる、カッコイイ人になりたかっただけなんです。……けど、)
 木々を掻き分け、獣道を進んでいく。あちこちぶつけた傷は痛んだし、緩んだ地盤に度々足元をすくわれることはあったが、それでもニケは全ての集中力を研ぎ澄ませ、黙々と歩みを進めていた。
 じっと前方を見据える間も、耳が周囲の音を見ている。そのうち自らの草を掻き分ける音と、それ以外の獣の遠吠えとが遠く隔てられ、ニケの世界は静寂に満ちた。息を潜め、先を急ぎながらも、一歩をけっして軽んじない。土を踏み、木の肌に触れ、鼻で絶えず匂いを嗅いだ。
 ふと、地に着く足が音を聞く。振り返る前にその耳が、こちらに向かってくる獣の動きを捕らえていた。音が小さい。相手の姿が視界に入る。兎のような魔物が、しかし牙を剥き、ニケへ向かって飛びかかる。それを手にしたナイフで切り伏せると、ニケはまた、斜面を下へとくだり始める。
――坊ちゃんになら、きっとできるよ。
(俺がなりたい騎士の姿は、思い描いてた騎士の姿は、)
 段々と、波の音が近づいてくる。もしかするとこの斜面を降りきると、そこに海があるのかも知れない。穏やかな音から察するに、岩場ではなく砂浜だろう。
――平和な海なんて、つまんないだろ。もっと活躍の場が欲しいのに!
 草木を掻き分け進んでいくと、また唐突に視界が開けた。坂道を転がり落ちたときのことが思い出されて、思わず足に力が入る。しかし目の前に広がるその景色に、
 ニケは言葉を失った。
 海が近いという予測は当たっていた。木々の生い茂る斜面の先には赤々と夕日に染まる海岸が一面に広がっており、足元には小さな蟹が、列をなして歩いている。一つの足跡も残らない浜の砂は柔らかく、足が沈むかのようであったが、それでもニケは、ゆるりと駆けだした。砂浜には一艘の船が、――見覚えのある船が乗り上げている。
(王国旗が描かれた横帆、海神の船首、船首の左右に描かれた赤い目玉、……間違いない!)
 目的の商船だ。クルガン達の乗っていた、まさにその船である。
「先生、……クルガン先生!」
 船に駆け寄り、声を張り上げる。他にも乗船していたはずの知人の名をいくつか呼んでみるものの、そのどれにも答えはない。そうして船に近づいて、ニケは思わず息を呑む。
 船体の半分以上を浜に乗り上げたその船は大きく傾き、座礁している。前方のマストはへし折れて、開かれたままになった帆は、ところどころが破かれていた。人の手によるものではない。もしかするとこの船も、島へ訪れる前に、クラーケンのような海の魔物に襲われたのだろうか――。その上、その船腹には、獣の爪痕が深く鋭く残っている。
――もしかしたら、ねえ、もしかしたら、父さん。
 絶望にも似た暗闇が、一瞬脳裏を過ぎっていく。それでもニケは首を振ると、はやる気持ちを必死に押さえ、ぐるりと船を回り込む。
「クルガン先生、みんな……、俺だよ、ニケだ! 出てこいってば。レンスの港へ帰ろう。騎士団総出で、みんなを探してたんだ。この坂を登った向こう側に、俺達のキャラックが停泊してる。だから、早く、」
 ニケの声だけが砂浜に、むなしく響きわたっていた。
 傾いだ側から上手くよじ登れば、船内の様子を確認できるだろうか。きっと乗組員達は、この島の魔物に恐れをなして、船室にじっと閉じこもっているのだろう。ニケの声が聞こえていないのだ。きっと、それだけだ。
 心が焦れる。そうして船を回り込み、よじ登れそうな箇所はないかと視線を巡らせた。船が座礁したときにでも、甲板から投げ出されたのだろう。長い麻縄が垂れているのを見て、ニケは即座にそれを掴んだ。
 引っ張ってみると、確かな感触がある。ニケの乗ってきたキャラックと同様に、この船も帆柱に麻縄を結っていたようだ。ならばこの縄を引いて登れば、簡単に船室へ入れるはずだ。
 しかし。
(もしこの中で、……みんなが)
 最悪の光景が脳裏を過ぎる。手に、足に暗い震えが走る。それでもニケがぎゅっと麻縄を握りしめた、――その時。
 近くで聞こえた唸り声に、ニケは青ざめ、咄嗟に麻縄を手放した。振り返ろうとしたニケの右腕に、鋭い何かが突き刺さる。その一瞬は混乱のあまり、痛みを感じることもできなかった。右手に持ったナイフを取り落とし、左手に持ったナイフで辛うじて、第二撃を受け止める。重い。押しつぶされそうな感覚に、どうにか剣先を滑らせた。半身になって距離を取り、そこでようやく、相手の姿を認識する。
(熊の、魔物――!)
 先程ガランと遭遇した、あの魔物と同じ種だ。それが牙を剥き、鋭い爪を光らせて、ニケに向かって突進する。すれすれの距離で避け、威嚇のために左手のナイフを目の高さに構えると、ニケは荒い息を吐いた。
 じわりじわりと、魔物の爪で割かれた右腕の傷が、痛みを伴い血を滴らせる。
(まさか船腹の傷も、こいつが)
 腕の痛みに、肩が小刻みに震えていた。膝が些か笑っている。それでも、左腕のナイフは下ろさない。
(ここで気持ちを挫けさせたら、負けだ)
 ごくりと小さく息を呑む。毛に覆われた魔物の目が、獲物を前に嘲笑って見えた。
(踏ん張れ。歩け。戦え。――戦え!)
 自分自身を叱咤する。
 斬りかかる。ニケのナイフが魔物の爪に弾かれて、ぎぃんと鈍い音がした。それでもすぐさま持ち直し、体勢を下げて足元から、獣のあごへと切り上げる。踏み込みが浅い。ニケのナイフは確かに魔物を捕らえたが、仕留めるには至らない。直後、魔物に腹を打たれ、ニケはその場に膝をつく。
――船乗りってのは、海の上で死にたがる生き物だ。
――正しく騎士としての行動を取れよ、ニケ。
(嫌だ)
 身を捩って咳き込んだ。
(嫌だ。……嫌だ! 死ねない、こんなところで、――!)
 魔物が爪を振り上げる。ニケは奥歯を噛みしめて、魔物をぎっと睨み付けた。
 地を蹴りつけて立ち上がる。傷の痛みで上がらない、右腕にナイフを持ち替える。左手が、船から垂れた麻縄を握りしめた。
 次の瞬間。
「――ニケ!」
 名を呼ぶ声。同時に、発火筒に火の着く音がした。しかしニケは振り返らず、火の音に瞬時気を取られた魔物の隣をすり抜けて麻布を握りこむと、――地を蹴り身軽に船を駆け上がる。
「死ねない」
 呟いた。そうして血の滴る右手に握らせたナイフの刃に、ムーラのこよりを巻き付ける。
――わかりました。じゃあ私、坊ちゃんのために『世界でたった一つのお守り』、作ります。
(死ねない。こんなところで死んだら、)
――坊ちゃんがどんな任務に行っても、無事に帰ってこられるように、一生懸命作ります。
「こんなところで死んだら、また、ムーラに叱られるだろうが!」
 ナイフを握り、船の縁から軽やかに身を躍らせる。剣先は違わず魔物の脳天を突き、同時に千切れたこよりから、解放された海風(サジ)が溢れ出る。
 
 * * *
 
「海風が良いなぁ」
 ニケがそう耳打ちすると、ムーラは一瞬きょとんとして、それから嬉しそうに笑ってみせた。
「そんなもので、いいの?」
「いいさ。なによりのお守りだろ?」
 多くの騎士が願いを込めた、ラーミナの葉の代わりなら。
 無事を祈り、再会を誓う葉の代わりにするのなら。
 思いつきで言ったことではあったが、海で育ったニケには、この幼なじみの掴まえる海風こそがそれにふさわしいのだと、そう思えてならなかった。
「じゃあ私、坊ちゃんのために『世界でたった一つのお守り』、作ります。坊ちゃんがどんな任務に行っても、無事に帰ってこられるように、一生懸命作ります」
 
 * * *
 
「ニケ。……おい、しっかりしろ、ニケ!」
 柔く頬を叩かれて、薄ぼんやりと目を開ける。そうして自らを覗き込むその人の姿を確認すると、ニケは力無く笑ってみせた。
「なんだ、ガラン。無事だったのか」
 束の間、気を失っていたらしい。ニケが笑えばガランは怒ったように眉根を寄せ、しかし思わず、と言った様子で、すぐさま頬を緩ませる。「お前は、一人でよくやったよ」ガランの言葉が、ニケの胸の内にじわりと、染みた。
 ようやく体を起こしたニケは、ガランの隣に倒れた魔物の亡骸を見、いまだにナイフを握りしめていた血まみれの右腕を見おろした。真っ赤に染まったナイフには、千切れたこよりが絡みついている。
(ムーラの海風、……)
 いくらニケが全体重をかけたとはいえ、それだけで魔物の頭蓋を砕くことは出来ないだろうとわかっていたが、しかし腕からの出血もある中で、あれ以上、魔物との戦闘を長引かせることは避けたかった。それで思い出したのが、以前ムーラにもらってから、肌身離さず持っていた、例の『お守り』である。風売り(サジバンナ)の少女はニケのために、普段するように縄で海風を捕らえるのではなく、細い紙紐でこよりを編んだ。世界でたった一つの、ニケのためだけの『お守り』にするために。
(千切っちゃったけど、……これは、うん、きっと許してくれるよな)
 心の中で結論づけて、それからそっと、目の前に横たわる船を振り仰ぐ。「なあ」と声をかければ、ニケの肩を手当てし始めていたガランも、表情のないまま、船を仰ぎ見る。
「ガラン。船の中、確認したか?」
「まだだ。……、お前もか」
 ガランのその表情を見れば、彼が何を考えているのか、ニケにもすぐに理解が出来た。ふと見れば、ガランのすぐ隣に空になった発火筒が落ちている。先程の音は、ガランが送った信号だったのだ。
 恐らくは今頃、他の隊員達も発火筒の信号を元に、こちらへ向かっていることだろう。しかし彼らが来る前に、……この船の中だけは、船を見つけたニケ自身が確認をしなくては。そう思った。
 立ち上がる。視界がぐらりと妙に揺れた。右腕の怪我のせいで、血を多く失ったせいだろう。しかしガランに応急処置をされた自らの腕を見て、ニケはふと、首を傾げた。
(そういえば)
 思い当たったその事実に、希望が不意に、湧いて出る。
(俺が来たとき、この船の周りには、……血の臭いがちっともなかった)
 はっと表情を輝かせると、ガランが不可解そうに眉根を寄せる。しかしその直後、
「ガラン! ……それに、ニケ? ニケなのか!」
 浜の向こうから、明るい声。その声を視界で追って、声の主の姿を見ると、ニケは思わずガランへ目配せした。ガランもまた喜びを噛みしめた表情で、同じようにニケを見る。
「……クルガン先生!」
 叫ぶように言って、走り出す。腕の傷は痛んだが、それすら取るに足らぬ事のように思われた。周囲の様子をうかがうように、おずおずとこちらへ向かってくる一団が、件の商船に乗っていた乗組員達であるとわかったからだ。
「やっぱり、ニケか! さっきの発火筒の音を聞いて、まさかとは思ったが……」
「ラーミナ騎士団が、こんなところへまで救援に来てくれるなんて」
「あの発火筒の音を聞くまでは、もう何もかも、諦めるしかないと思ってた」
「ありがとう。本当に、ありがとう」
 涙ながらに語る人々の言葉をあわせると、どうやらこういうことであるようだった。
 グラン海峡を越えた後、偶然群島地帯の海域に迷い込んでしまった彼らは、海の魔物に襲われ、海風を失い、潮に流され漂流し、この島へ打ち上げられたのだという。それからしばらくの間は傾いだ船の中でじっと息を潜めていたが、夜な夜な何頭もの魔物に船を攻撃され、その不安から魔物の目を盗んで島へ降り、偶然見つけたせまい洞へ、全員で身を寄せ合って隠れていたのだそうだ。
 日暮れを前に、既に騎士団のキャラックへ集合していた他の隊員達も、ガランの発した発火筒の信号に気づいたハマーン隊長指揮の下、すぐさまニケ達の居るところまで駆けつけてくれた。そうして負傷していた商船の乗組員達の怪我を手当てし、全員で騎士団のキャラックへ乗り込む頃には、既に陽はすっかり暮れ、暗い空には創天の臍(ノヴリ)が輝く時分になっていた。
 
「クルガン先生。ほんと、港に着くまでに覚悟しておいた方が良いよ」
 夜闇を進む船の甲板で、穏やかな波に揺られながら、ニケがぽつりと呟いた。群島地帯の海域を抜けて二日目の晩。もうそろそろ、レンスの灯台が見えようかという頃のことである。船は往路と同じく何度か魔物の襲撃に遭っていたが、騎士の隊員達と商船の乗組員達が手を取り合って協力をし、ようやくここまで帰ってくることが出来た。包帯でぐるぐる巻きにされてしまった右腕を首から吊ったニケは、穏やかに風を孕む帆を振り仰ぎ、にやにやしながらこう続ける。
「ムーラ、絶対怒ってるぜ。『娘にこんなに心配かけて!』とか言って、再会するなり殴りかかってくるかも」
 甲板に立つクルガンは、思わずといった様子で苦笑して、「それもそうだなぁ」と頷いた。
「強い娘に育ってくれた」
「一人娘に、あんまり心配かけるなよ」
「お前にそれを言われるとはな。お前のその怪我だって、ムーラが見たらきっと怒るだろうよ。『坊ちゃんったら、また無茶なことをしたんでしょう!』ってな」
 クルガンが言って、にやりと笑う。ニケも顔を見合わせて、思わず幾らか、笑ってしまった。
 海を見る。遠い地平線にうっすらと、明け方の陽が昇り始めていた。
「……ところでニケ、お前はこの二日間、やけに大人しいじゃないか。群島地帯では大活躍だったってのに、どうした。傷が痛むのか? ……それともお前の方こそ、ムーラに叱られるんじゃないかとひやひやしているんじゃないか」
 クルガンの言葉に、小さく溜息を吐く。「活躍なんてしてないよ、ちっとも」そう答えた自分の言葉が、やけにいじけて聞こえていた。
「今回俺がしたことと言えば、ムーラを不安がらせたことと、群島地帯で坂から落ちて仲間とはぐれたことと、魔物から逃げ切れなくて、自分のためにやむを得ず戦ったことくらいだよ。それだって、あの時ガランが来てくれなかったら、危うく死んでたかも知れない。活躍なんて、全くだ」
「だがお前があの浜に来てくれなかったら、俺達は折角の救援隊に気づかず、気づかれず、今もあのおっかない島にいたかもしれない」
「俺があの浜に辿り着いたのは、偶然だったけど」
「運も実力のうちさ」
「そう。運も実力のうち」
 クルガンの言った言葉を受けて、そう続けたのは、いつの間にやら甲板へ上がってきていた隊長のハマーンであった。咄嗟に敬礼しようとし、しかし右手が上がらずもたついたニケを見て快活に笑うと、彼は続けてこんなことを言う。
「お前は偶然あの浜に辿り着き、良い頃合いでガランの助けを得て魔物を倒し、その結果、捜索していた商船の乗組員達を、全員無事に保護することに成功した。ニケ。確かに今回のことは、お前の望むような洒落た展開じゃあなかったかもしれない。だがお前は騎士として出来る限りのことをして、望まれた最高の結果を勝ち取ったんだ。その事をもっと誇りに思え」
 そう言ってハマーンが、ニケの背中をぽんと叩いた。
「これでお前も、一人前の騎士の仲間入りだな」
 答えることは出来なかった。しかし口元をぐっと結んでただ頷いたニケを見ると、ハマーンとクルガンは連れだって、船室へと去っていく。
 甲板に取り残されたニケは口元を結んだまま、船首から海へと身を乗り出した。目許からぽろぽろと零れ視界を歪ませる、涙を隠したかったのだ。明け方の陽はじりじりと水平線を染め、目覚め始めた海をてらてらと輝かせている。その向こうに見えたレンス港の灯台を見て、ニケはようやく、ほんの少しだけ口元を綻ばせた。
 
 * * *
 
「なあムーラ。これはちょっと、大きすぎやしないか?」
 呆れた口調で言うニケに、ムーラは心外そうにこう言った。
「あの真っ直ぐに立った灯台が、葉の部分。横にかかったラーミナ騎士団の隊旗が、穂の部分。ほら、形は、なんとなくラーミナの葉に似てるでしょ?」
 
 * * *
 
「ムーラの誓いのラーミナは、やっぱり欲張りすぎだよな」
 吹き出しながら呟いた声が、明け方の海風に戯れた。
 この数年後、蒼海は再びアヴニール王国、ヘルバンド王国両国にとっての戦場へと逆戻りすることになる。制海権を巡って争う両国の思惑を受け、今はまだ無名の少年が、風を伴い海を駆け、戦いの中に身を投じることになるのは、これより少し先の話である。
――『空吹きの凪』里見透

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