旅の歯車


099 : 「光あれ」

 トン、と、涼やかな音が鳴る。少年が時計の秒針を、床についた音だった。
「ただいま」
 少年は誰に言うでもなくそう言って、目の前にある大きな、大きな時計を見上げる。過去の遺物、大時計。
「ここを旅立ってから、一体どれくらい経ったんだろう。今になっては、それすらわからないや」
「私と出会ってからだって、もう随分経ちましたからね」
 ヒバリが言う。少年は頷いて、秒針を持ち直した。
「確かなのは、僕が今ではこの時計の守り人ではなく、世界の心だって事くらいだね。大昇進だ」
「なに、暢気なことを言っているんです。大変なのはこれからでしょう?」
 呆れたような声で言った後、ヒバリはくすくすと笑った。大時計の前のこの空間に、笑い声が響いている。少年はそれを聞いて、自分の中の何かがまた少し満たされるのを感じていた。
「これから、どうするんです?」
 それは今までずっと、少年が自分自身に問いかけ続けてきた質問だった。少年は一言一言をかみしめるように、その問いに答える。
「まずは、世界を修復しないと。破壊者の『種』を解放した時に、過去の遺物もある程度は元に戻ったはずだけど……この大時計を修理して、その後は一つずつ直して行くよ」
「――その後は?」
 少年は年相応の笑みで、にやりとした。ヒバリが、既に答えを想定して質問したのだとすぐに気づいたからだ。
「僕は世界に何も望まない。――ただ願うなら、どうかこの美しい世界が、暖かい光りに満ちあふれるようにと……。それだけさ。直した後の世界は、誰にも管理されない。それが良いことなのかどうか、僕にはわからないけどね」
 言って、少年は大時計を見据えた。始まりの文化の大時計。これからは、新しい世界に時を刻んでいくはずの。
「行こう。手伝ってくれるかい?」
 少年が言った。ヒバリが頷く。
 少年は左手に持った針を、時計に寄せる。もう片方の先をヒバリが支えて、針が時計に触れるか触れないかの瞬間、少年はこう言った。
「こんなにわくわくするのは、久しぶりだ。どうしてだろう。以前ここから旅立つ時は、不安で仕方がなかったのに」
「私も。もしかしたらこの針が戻った瞬間、あなたとお別れなのかもしれないのに」
 
――そこにあるものに触れてみたい。
 少年はふと、そう思った。行く先にある何かが、今この目の前にある。そんな錯覚がしたのだ。
――それは暖かいのか。それとも、冷たいのだろうか。
 ちら、とヒバリの方を向く。いつでも、どんな時にでも、そばで支え続けてくれた小鳥。今まで何度もその存在に救われてきたからこそ、別れはちっとも怖くない。互いの目で互いを見ることはできなくなっても、記憶は、心はいつまでも一緒にいられることを知っているからだ。
――だけど君もまだ、この目の前にある『何か』がなんなのかなんて知らないだろう。僕だって知らない。何故って、今まで誰もそんなことに、関心を持とうとしなかったんだから。
 
 秒針が、音もなく時計に吸いついた。少年は静かに息を吸って、双眸を閉じる。
 恐れや不安が、無いわけではない。
 だがそれが例え、三度この地へ帰るための道なのだとしても、少年に迷いはなかった。

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