旅の歯車


098 : 蜘蛛の糸

「破壊者に対する敵意で、針の欠片は剣になった」
 少年が呟いた。荒野には、何かの笑い声が響いている。
「もう、僕の側に戦う気はないよ。出てきたらどうなんだ、『世界の心』」
 言って、少年は手にした何かをとん、と地面につく。それは少年の記憶にあるままの、大時計の秒針だった。
 身につけた羽織の裾が、風に遊ばれ強くはためく。夕日に染められた横雲が、見る間に流されていくのがわかった。ヒバリが少年の肩にしがみついている。少年はヒバリを守るように体の向きを変えて、『世界の心』の出方をうかがった。
 いつまでたっても、『世界の心』の姿はない。怪訝に思った少年が、眉を顰めた瞬間のことだ。
――君は頑張った。余程、この世界のことが好きだったんだね。
 耳元で、囁くような声。少年が驚いて振り返るのよりも早く、風がするりと耳に入る感触がする。耳を塞いでももう遅い。何かが視界の前でちかちかと瞬き、同時に頭の中で声がする。
――君の見た、『世界』を見せて。
 鈍い音がした。
 それが鼓動の音だと気づくまでに、それほど間はかからない。
 
  破壊者が大時計の前に現れた、あの日のことだ。
  少年は、大時計を見て自嘲した。
 ――本当にこれしかなかったのか?
  記憶の中で、少年はそう自問する。
 
 「……へえ、時計の守り人でも言葉は話せるのか」
 「忘れるものか。忘れて、たまるか! おまえのせいだ。おまえがあの時計を壊したから!」
 「ああ、こんなにも脆いものだったんだ」
 「……なんで、僕を殺さないんだ……どうして僕を生かしておくんだ……!」
 「愛しの生徒のためには頑張りましょうとも」
 「――僕の、誇りの傷だ」
 
 目眩が起こる。吐きそうだ。うずくまった少年を見て、ヒバリが心配そうに声をかける。
――大人しくして。僕は世界が見たいんだ。
 『世界の心』の声がした。
 
 「退屈そうな顔をしてたから。花はお嫌い?」
 「カラスさん、もう喋らないで。――ああ、でも、おいていかないで……」
 「そいつが、「ああ、人生楽しまなきゃ」と思ったら任務完了だ」
 「最後になって、こんな友達ができたのは残念だったな」
 「涙は嫌なことを流してくれるし、それに頑ななものを溶かしてくれます」
 「今日だから行くんです。……僕自身のお祭りは、これからだから」
 「祈るだけでは駄目なこともある。けれど祈らずにはいられない」
 「俺がやったことは結局、裏切り以外のなにものでもないわけだし」
 「勿論! 僕はそのために来たんだ。さあ、降参するなら今のうちだ。魔王め、覚悟!」
 「誰かが一生懸命にやる手助けをするのは自分も楽しい。そうだろ?」
 「気をつけなされ。いつか人生を振り返るとき、こんな虚無にとらわれてしまわないように」
 「ああ。娘への土産でね。商売柄滅多に会えないもんだから」
 「我らが『偉大な騎士』達が、ついに野蛮人どもの町を打ち取ったぞ!」
 「殴られるのが嫌だったからさ」
 「私はいずれ、この国の王になる男だ。みんな私が護ってみせる」
 「あなたとなら踊っても良いわ。あなた片腕だけど、踊れる?」
 「『悔しいから』。結構な理由じゃないか。下手に正義ぶった言葉より、俺は好きだね」
 「君なら大丈夫。絶対に」
 「命が有る限り、徹底的におまえの行く手を阻んでやるからなッ!」
 「それは、痛いさ。だが苦しくはない」
 
「出て行ってくれ」
 少年が低く唸る。『世界の心』はお構いなしだ。
 
 「世界の変化は大変なことだけれど、文化の変化は些細なことなのですから」
 「俺の仕事はここまでさ。後は自分で考えな」
 「自分から心を開いてご覧なさい。あなたは誰よりその時計の近くにいるもの」
 
「もう、わかったろう」
 
 「苦しんでいるのがわかる。だけど、私には何もする事が出来ない。それがひどく悲しい」
 「俺とお前が本当に似ていると思うのか。――もしそうだとしても、俺たちは絶対にそれを認めちゃならないんだ」
 「故郷は護れなかった。だけど今度こそは護る」
 「お帰りなさい、『旅人さん』」
 
「僕の中から、……出て行け!」
 叫ぶ。体の中に、自分の声の反響するのがわかった。同時に少年は、自分の中に入り込んだ者の二つの目が、じっと少年を見据えていることに気づく。
――追い払えるものなら、やってご覧。
 声がして、何かが更なる内面へと駆けていく。少年の意識がそれを追った。どうしたことだろう。『世界の心』はそれほど早く走っているわけでもないのに、一向に追いつく気配がない。それどころか、ともすれば見失ってしまいそうだ。そうなる前に、なんとしてでも捕まえなければ。
「こっちです! 私の尾に掴まって!」
 聞き慣れた声がして、少年は左手で空を探る。すぐに手応えがあって、少年はその幻影をしっかり掴んだ。
「ヒバリ、君まで入ってきたのか!」
「そんな声を出さないでください。もう随分前から言っているでしょう、私はご一緒しますって」
 しばらく進むと、やがて一人と一羽は大きながらんどうまで辿りついた。少年は自分の中にこんなものがあるのかと驚いたが、その中に佇む影を見つけ、奥歯を噛みしめる。『世界の心』ががらんどうの中心で、少年に背を向け立っていた。
「こんな所まで逃げ込んで、何のつもりだ」
 少年が言う。『世界の心』はすぐには答えずに、静かに静かに振り返る。振り返ったその姿は、見知ったものだった。旅に出たばかりの頃の、少年自身の姿形そのままだ。
「君にも、満たされないものはあるんだね」
 がらんどうを見回しながら、やはり聞き覚えのある声でそう言った。
「だったら何だって言うんだ」
「別に、何という気はないよ。ただ、安心しただけだ」
「――安心?」
 少年が訝しげに言ったのを聞いて、『世界の心』は「そう」と笑う。
「僕の知っている『世界』は、全てがこんながらんどうなのさ。君はもう気づいたんだろう? 確かに僕は、今までにいくつもの文明をこの手で壊してきた。僕には、どんな文明にも、必ず破滅へと向かう未来が見えてしまったから……。どうせ滅び行くものなのなら、僕自身が手をかけ、せめてその世界それぞれの思い出だけは遺していきたいと思っていた。――それが、こんなおかしな事になってしまうなんてね。かつて愛した女のために、世界は根本的なところから狂ってしまった。その女は地上に生まれた男に殺され、その男は君に滅ぼされた」
「そのことを怒っているのか」
「いや。例え彼女を直接手にかけたのが君だったとしても、そんなことはしないよ。ただ、――君の『世界』を見て、悔しくなってしまってね」
 声のトーンが落ちる。少年は一瞬目を細めた。『種』が脈打つ。大丈夫だ、と、少年は自分に言い聞かせた。大丈夫、やるべき事は、わかっているから。
「何故こんなに違うんだろう。僕が授かった世界なのに。僕が育んできた世界なのに。どうしたこんなに、僕ばかりが報われないんだ!」
 少年はそっと目を閉じた。右の肩にとまったヒバリが、少年にその身を寄せる。
 唐突に、がらんどうの中のどこかから明るい声がした。
「――ったら、こんなところにいたの?」
 言ったのは、一人の少女だった。部族の服を纏い、見覚えのある花を髪に飾っている。『世界の心』は少女の登場に驚いたようで、目を瞬かせた。少女は笑顔のまま少年の前を通り過ぎ、『世界の心』の手を握ってみせる。
「ずっと探していたのよ。今までどこにいたの?」
「どこって――何を言っているんだ。君は、彼の記憶の中の人間だろう」
 答えを求めるように、『世界の心』が少年へと視線をやる。少年は苦笑して、やっとの事でかぶりを振った。
「生身の人間ではないけれど。先生には記憶に命を与えることが出来ていたから、僕にも出来るかもしれないと思ったんだ」
「それにしたって、この娘が僕を探す理由がない」
「何を言ってるのさ。自分の姿をよく見てご覧よ」
 その時になって、『世界の心』はようやく気づいたようだった。戸惑うような表情を少年に向けて、それから、
「これが世界」
 呟く。
「さあ、早くここから出ましょ。……ねえ、そこの旅人さん。あなたはここの出口をご存じ?」
「ああ、知ってる。まっすぐに歩けば、すぐに出られるよ」
 少年は言った。ヒバリがそっと、少年の頬を撫でる。
「ありがとう。旅人さん、よかったら出口までご一緒しません? ここで会ったのも、きっと何かの縁だもの」
 少年はもう一度、かぶりを振った。
「僕は、君たちとは違うところに用があるから」
 
 外の世界へと歩いていく、二つの人影がある。少年はそれを見送って、大きく息を吸った。
「僕たちも行かなきゃね」
「ええ」
 ヒバリが短くそう答える。その心遣いが、少年には心底ありがたいものだった。
 
 外の世界、現実の世界。
 追い出された『世界の心』はつむじ風となって、少年の周りを大きく渦巻いている。
――これが世界。これが、世界……
 その声は歓喜に満ちている。少年は体の調子を整えるかのように咳をして、風の一団を目で追った。風が大きく移動して、強風が吹き荒れる。流れる方向の定まらぬ、あまりに不可思議な風だ。少年はヒバリを呼ぶと、自分の肩にしっかり捕まるようにと言う。もはや『世界の心』は、目で追えるような代物ではなくなっていた。
 空を見上げる。
 空中に、声といくつもの影とが降り注いでいた。少年の見た『世界』を、『世界の心』が降らせているのだ。
――これが、世界!
 声が言って、風がはじけた。空中に張り巡らされた少年の『世界』が、白く細い糸となって少年の上へと降り積もる。
 記憶の糸が、蜘蛛の巣のように絡まり合って、そして、少年に纏う真っ白なローブとなる。
「約束通り、世界は僕が譲り受けたよ。……生まれ変わって、どうか、自分自身の『世界』を見つけて」
 
 風は随分と長い間、渦を巻いていた。
 
 その風がおさまるのを待たずに、少年は最後の旅へと旅立った。

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