旅の歯車


096 : 異人の踊り手

 歌が聞こえる。
――ああ、どちらだ。
 舞が、見える。
――わかっているのに。
 ああ、見えているのに、聞こえているのに、なぜわからないのだろう。
 今の彼女は、どちらだ。
 
「……来たんだな」
 目を瞑り、男が低く呟いた。少年は静かに頷く。
「ほんの少しで良い。待ってくれ」
 少年は再び、静かに頷いた。男にもそれは見えたようで、彼はうっすら微笑むと、伸び放題になった髪を払いのけた。すっかり濁ってしまった眼球に、それでも何か光るものがある。
「せっかく与えられた、最後のチャンスだ。そのチャンスを与えた奴のことが気に食わないが……」
 ふわふわとした夢のような、実体の無い世界だった。辺りにはいまだ、暖かい光が舞っている。これはあの『樹』の光なのだろうか。それとも少年自身が言ったような、いつでも、そしてどこにでもある『何か』が、今もこうして偶然、その光をちらつかせているだけなのだろうか。
「他のことは、全てお前一人に選ばせてしまったんだ。俺だけ、最後まで何もかもを流れに委ねるままなんて事は、できないな――」
 自嘲めいたその笑みの中に、希望があった。
 少年にとって、それは彼が見せる初めての『彼自身の笑顔』だ。少年は気づいていた。笑んだ本人、先代時計の守り人も、それは十分承知しているようだった。
「すぐに終わる」
「……大丈夫です。先生には待たされ慣れていますから」
 師は笑った。やはり、今までのものとは違った笑みだった。
 少年は微笑み返そうとして、自分の顔が強ばっていることに気づく。師の『希望』が、どういう系統のものであるかを理解していたからだ。
 
 舞が、見える。
 ああ、そうだ。わかっている。
「おまえは俺が疲れて帰ると、よく歌を歌ってくれた。たまには簡単な舞いもつけて。音がないと踊りにくいのだとおまえが言うから、俺は笛を習い始めて、なのにすぐに才能が無いと気づいてやめた。覚えているか?」
 男が静かにそう尋ねた。話す言葉の中身とは裏腹に、その声は堅い。
 現実味の無いおかしなその世界に、ふと、不思議な風が流れた。男の問いかけに応えたのだとすぐにわかる。風に流され一人の女が、その目を虚ろにして現れたからだ。
「――覚えているか?」
 男が再度、そう聞いた。女は表情の無い顔を男に向けて、口の端だけでうっすらと笑う。
「あなたはいつも私の願いを叶えるふりをして、結局いつも途中で諦めてしまう。そういえば、昔からのことだったわね」
 女の瞳から、つと涙がこぼれた。瞬きは無い。瞳は悲しみの色に染まるでも無く、笑むでも無く、ただ口の端だけが笑った、不自然な表情だ。
「あなたの育てた子、偽物の守り人――。ここにいるということは、私は三人目にも裏切られたのね」
「……彼は、自分の道を歩き始めただけだ」
「あの子ならできると思ったのに。世界は確かに壊れ始めた。けれど私の思うとおりにはならなかった……」
 がりっと、何かが生々しい音を立てた。男があまりに強く奥歯をかみしめたせいで、何年も使われていなかった歯が悲鳴をあげたのだ。
「何もかも、おまえの思うとおりになどなるものか」
 男は、女を抱き締めた。力強く、まるで、もうどこにも逃がさないと訴えるかのように。
「なぜそんなに恐ろしい顔をするの。なぜこんなにも、壊れそうに抱き締めるの。あなたは私を愛してくれたのに」
 腕が食い込むのではないかというほど強く抱き締められているにもかかわらず、女は平然とそう言った。口は笑んでいる。瞳は死んでいる。
「私だって、あなたを愛していたわ」
「俺が、なんでもおまえの思うように動くと思ったから?」
「違う。あなたは優しかったもの」
「おまえにとって、優しいとはどういう事だったんだ。お前の願いを叶えようとすることか。全てそれだけだったのか? おまえはいつまでおまえだったんだ。いつから……『世界の心の片割れ』でしかなかったんだ――」
「放して。私にはまだやるべき事があるの」
「放すものか」
「放して。もう私に、あなたは必要ないのよ」
「放さない。どんなになっても、お前は俺の妻だ」
 女の口元が、更に不可解な歪みを形作る。笑ったのだ。目は見開いたまま、口元だけが笑って、そしてその直後に女が口を開き、息を吸うのがわかった。
「――っ!」
 男の肩口から、血が滴り落ちる。痛みに思わず腕の力を緩めたのを見て、すかさず女は、その胸のうちから逃げおおせた。女は狂気の表情のまま、口の中にあった何かを吐き出し、口元を拭う。男は削がれた肩口に手をやって、ぎっと女を睨み付けた。
「私があなたの妻だったのは、生まれ変わった私があなたに出会い、あなたが守り人として町を出て行くまでのほんの少しの間だけ」
 女が静かに首を回す。少年はその視線の先で、微動だにしないまま二人の様子を見守っていた。
「『時計の秒針』、『成長する種』……そして今では、あの子が集めた『過去の遺物の力』さえを持った守り人……。それだけの力があれば、この先は私一人で十分ね……」
 瞬きのない、一かけの曇りもない瞳が、少年をじっと見据えている。
 女の足が地を蹴る。
 実態のない世界の中で、『何か』が少年に向かって駆けていた。
 随分おかしな風景だ。
 目を血走らせた人間が走っている。
 ふわふわとした世界の中で、『何か』が夢中で走っている。
 『何か』がこの不安定さに、踊らされている。
 ああ、そうだ。まるで舞いのようだ。
 しかし音がないと踊りにくいのだというのは、成る程こういうことらしい。
 確かに、これは滑稽だ。
――最後の一振りは、まだとっておきたかったのに。
 少年は剣に手をかけようとして、やめた。女の体が少年の目の前で止まり、同時に目の前が真っ赤な血で染められたからだ。
「――どうして…!」
 信じられないというような声を発して、直後に女が事切れ、俯せに倒れた。女の背には、美しい装飾の為された短剣が突き刺さっている。
「……よかったんですか」
 少年は、そう尋ねた。いつの間にか喉が枯れてしまっていて、上手く声が出てこない。
「一体、何が」
 師が短くそう答える。肩からは未だ血が流れ出ていたが、その顔に後悔の色は見られなかった。少年は女の背に突き刺さったままのナイフを引き抜き、持ち主へと手渡す。そのナイフには見覚えがあった。
「先生は僕に守り人を継がせる時、そのナイフで僕に血をやり、亡くなりましたね」
「そうだ。魂だけになってからもずっと、いつか来るかも知れないこの日のために持っていた」
「――長いこと守り人として生きた人間が、何かを『奪う』のは、苦しくありませんでしたか」
 師は答えなかった。ただ黙って、自分の手に握られた短剣を見下ろしている。
 その間にも、流れ出る血はぽつり、ぽつりと地に落ちていった。その血は、倒れた女の体をなぞるように地面に落ちてゆくのだった。
「魂だけの存在になっても、その傷は痛みますか」
「それは、痛いさ。だが苦しくはない」
「………」
 会話が途絶えた。
 実態のない世界の中に、風が吹いた。まるで急かされているようだなと、少年は考えて苦笑する。そうしてしばらく経った後、どちらが先ということもなく、
「最後の一振り」
 二つの声が重なった。
「言うと思ったから、覚悟はしていました」
「お前のような弟子をもてて、嬉しいよ」
 師が淡々と返す。「心にもないことを」毒づきながら、少年は目を伏せた。一度大きく息を吸って、秒針の剣をすらりと引き抜く。
「聖杯の守り人が言ってくれました。今の僕は守り人というより『道拓く人』とでも言った方が似合うって」
「そうか。確かにそれは、その通りかもしれないな」
「守り人だった頃は、何かを奪うのが苦しかった。――だから、今はその名が嬉しくてたまりません」
「聖杯の守り人は、昔から気だてのいい女だったから」
 師が笑った。それは少年がまぶしいとさえ思えるほどの、さっぱりとした笑顔だった。
 師が軽く目を閉じる。少年は剣を振り上げる。
「最後まで迷惑をかけ通しだ。――すまないな。心からそう思うよ」
 師は最期にそう言った。

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