旅の歯車


094 : 運命の神

「あなたは運命を背負っている。それがあなた自身のものなのか、この世界のものなのかはまだわからない」
 神子があの時、世界、とはっきり告げたことを、少年は思い出していた。
 
 何かを切り裂く鈍い音。とはいえ少年の剣は、破壊者の服の一部を掠めただけだ。少年は軽いステップを踏んで、リーチの長い破壊者の剣を避ける。
 一度大きく切り結び、後ろへ退くと、息を整えながら破壊者が言った。
「随分と自信がありそうだったから、どんな切り札があるのかと思ったら。……わかっただろう。俺とお前じゃ、勝負にならないってことが」
 少年は答えなかった。何も言わないまま体勢を立て直し、左腕につけた『成長する種』に意識を集中させる。そこには確かな手応えがあった。
「僕の友達が、言っていた。明らかに不可能だって思ったって、それを言い訳にして自分の心に嘘をつくのはただの逃げだって」
「名言だな」
 破壊者が皮肉っぽく笑う。その瞬間に、
 本当の勝負は決まっていた。
 破壊者の繰り出した剣を辛うじて避けるも、直後に追ってきた鞘に、鳩尾を殴られる。思わず体勢を崩した少年が咳き込むのを見て、破壊者が叫ぶ。それは歓喜とも苦痛ともとれる、喉から声を振り絞ったかのような叫びだった。
「『成長する種』を使え、守り人。さもないと、闇に呑みこまれるぞ!」
 嘲るような笑い声。同時に破壊者を取り巻いていた黒い闇が、触手を伸ばして向かってくる。少年は『種』を使おうとして、一瞬躊躇った。知った声がしたように思ったのだ。
 ――いけない!
 聞いたことのある声。もう随分昔のことのように思う。いつだったか、少年が絶望の真っ只中にいた時に、その背中を押した声。
 ――「私も、信じるわ。信じて待っています。だから、行って!」
 思い出して、少年は身構える。闇は確実に迫り来て、あっと言う間に少年を飲み込んでいた。聞こえる。遠くに、近くに、確かな何かが。
「君なのか、聖杯の守り人……!」
 
 視界が完全に暗転する。その中で尚、聞こえる声があった。
 ――お久しぶりですね、時計の守り人。いいえ、今は守り人というより……道拓く人とでも呼んだ方が、よりあなたには似合うように思うけれど。
 優しい声だった。
「そうか。破壊者の作った黒い『種』は……あなた達の守っていた、過去の遺物から作ったものだから……」
 ――そう。完全に取り込まれてしまう前に、もう一度会えてうれしいわ。
 暗闇の中で、聖杯の守り人の表情は見えない。それなのに、少年にはその笑顔が見えるようだった。逆に少年は目を伏せて、その場に立ちすくむ。闇に融けていく遺跡の様子が、守り人達の気配が、そうしてこのままにしていれば、自分も融けていくのだろう現実が、嫌というほど感じられた。
 得体の知れない罪悪感で、胸がいっぱいになる。
「僕は、あなた達にまで刃を向けていたんですね。……」
 ――あなたが気に病むことではないわ。けれどあなたのその力は、刃として私達に向けるべきものではないはず。そして本来なら、彼――あなたの影にも。
 少年は静かに頷いた。頷いて、それから、呟く。
「僕に、彼も救うだけの力はあるだろうか」
 返事はなかった。ただ、暗闇に不釣り合いな明るい笑い声が聞こえる。
 ――あなたを信じて、待った甲斐があった。
 闇が蠢き、道をあける。光が射すことはなかったが、少年には進むべき場所がしっかりと見えていた。
 ――わかってくれたのなら、もう、行って。そしてどうか、元気で。
 少年は頷いた。頷いて、暗闇をじっと見据える。
「どうか、安らかに」
 腕の『種』が熱い。静かに脈打っているのがわかる。
 どくん、どくんと、小さく、そして確かに。
 
 唐突に視界が戻って来て、少年は思わず目を瞬かせた。目の前では、徐々にその姿を風と化していく自分の『種』を見ながら、破壊者が息を呑んでいる。
「一体、何をした!」
「あるべき姿に還しただけだ。――やっぱり、こんな戦いはもうやめよう」
 破壊者が、消えゆく『種』を投げ捨て、剣を振り下ろす。焦りの籠もった切っ先。避けるのは容易いことだった。
「君は、僕に勝てないよ」
「馬鹿が、勝負はまだついていない」
「君は僕に勝てない。なぜなら、君には自分の意志が無いからだ。……いや、自分の心に従っていない。そうだろう?」
 破壊者の動きが、ほんの一瞬止まる。少年は切っ先を下げ、なおも言い募った。
「君は何のために戦うんだ? ――僕は、君に世界を壊させないために戦う。必要なら、世界の心とだって対峙するつもりだ。今はもう、守り人だったことも、先生のことも関係ない」
「黙れ。俺には知ったことじゃない」
「僕自身に大した力は無い。僕の持っている剣だって、種だって、譲り受けただけのもの。特に種に至っては、全てお膳立てされていた訳だし。だけど、それでも――」
 少年の言葉をかき消そうとするかのように、破壊者が低く吼える。斬りかかって来たのを受け止めると、重い、鈍い衝撃があった。片腕で跳ね返せるような生易しいものではない。少年は敢えて体勢を落とすと、渾身の力で剣を薙ぎながら右へと避けた。
 破壊者が一瞬体勢を崩す。
 少年は小太刀を逆手に握り返し、破壊者へと突き付ける。あてはしない。しかし左の手首を動かせば、確実に勝負のつく体勢で、言う。
「君にはできなかった……いや、先生や世界の心すら、しようとしなかったことが僕にはできた」
 破壊者はしばらく少年を睨みつけてから、ふと腕の力を抜いた。どこか自嘲めいた笑みを浮かべ、ポツリと、
「その結果がこれだって言うのか。……教えてくれ。お前には一体何ができたって言うんだ?」
 呟いた。
 ――浮島への道には、二人の少年と、その上空を不安げに飛ぶ鳥の姿以外に何も見られない。一人の少年には右腕がなく、どこか不安定で、もう一人の少年は片膝をつき、軽く項垂れている。道の先には、どこか難攻不落の城のような印象を与える島が浮き、二人の少年を威圧するかのように構えていた。
 少年は小さく息を吸う。冷たい風が、口の中へじんわりと滲んだ。その味を噛みしめながら、彼は短くこう話す。
「――選ぶことだ」
「選ぶこと?」
「そう。いくつもある道の中から、自分の道を選ぶこと。そして、それを貫き通すこと」
 低い声を立てて、破壊者が笑う。
「おまえは、世界に出会えたんだな」
「ああ。――君は、会えなかったのか」
「あちこちを……それこそ世界中を駆けずり回って、探したさ。探したが、見つからなかった。世界も、俺の意志も」
 唐突に、破壊者の右腕に力が入る。隙をついた攻撃を間一髪のところで避け、少年は渾身の力を込めて破壊者の剣をはじいた。キン、と鋭く深い音がして、秒針の剣が破壊者の手を離れる。破壊者の口から、今まで聞いたことも無かった荒げた言葉が飛び出した。
「秒針はくれてやる。だが、進むならここで止めをさしてからにしろ! 俺は命が有る限り、徹底的におまえの行く手を阻んでやるからなッ!」
 少年は取り合わなかった。破壊者の剣を拾い上げると、激しい戦いの後で尚、傷ひとつ無い漆黒の針を見つめていた。
「君が行く手を阻むというのなら、その度に戦うまで。僕は構わないよ。――それが君の意志なのなら」
「ぬけぬけと、巫山戯たことを! 俺にこの先も、お前の影として生き続けろと言うのか? 冗談じゃない! 俺が欲しいのは、俺が望んだものは――!」
 少年は静かに目を閉じた。何故だか、目の奥に涙が溢れてきたからだ。
 
 これが、光と影の逆転する瞬間あればと、少年は思っていた。
 
「君は始めから、影なんかじゃないよ。その証拠に――そう、世界を見せよう」

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