旅の歯車


089 : 割れた卵

 少年は広がる野原を眼前に据え、小さくそっと深呼吸した。そうして一歩前へ踏み出すと、懐から取り出した小瓶の蓋を口で器用に外し、野原へ無造作に吐き捨てた。左手に持った小瓶の中には、王冠の守り人から預かった『賢者の石』が入っている。
――「お前の直感で先へ進め。ここ、と思う場所に必ず巡り会う」
 別れ際に、王冠の守り人が言った言葉だ。
――「その場所を見つけたら、それがこの『賢者の石』が最も力を発する場所だ。お前はそこで、『賢者の石』と『成長する種』を融合させろ。何、そう難しい事じゃない。『成長する種』に、『賢者の石』を振りかければ済む話さ。その後どうなるかは……試してからのお楽しみ」
 少年は先に野原に置いておいた『成長する種』の隣にしゃがみ込み、小瓶を持った左手を見る。広い野原でこんな事をしている自分が滑稽に思えたが、右腕がない以上、こうしてするより他にない。
(……何が起きても驚くまい)
 なんと言っても、あの二人の共同制作だ。少年は苦虫を噛み殺したような表情で神妙に小瓶を構え、ゆっくりとそれを傾ける。何よりも「お楽しみ」というのが恐ろしい。
――様子を少し見てきました。この辺りは不思議なほど、獣も死者もいませんね。
 突然耳元で羽音がして、少年は思わず肩をびくつかせる。旅の相方が戻ってきたのだとすぐに知れたが、少年は今の振動で既に『賢者の石』が『成長する種』に零れてしまった事に気づき、慌てて残りも振りかけた。
 瓶を置いて立ち上がると、いつでも退避出来るように左足を小さくひく。その動作が終わるか終わらないかのうちに、どくん、と何かの脈打つ音が聞こえた。
「鼓、動……?」
 それは一瞬の出来事だった。
 『成長する種』が突然暖かな光をまとい、その光がまるで植物の根かのように伸びる。赤い鳥はそれを交わしたが、少年はその根に足をすくわれ、中央にできた光の柱に向かって強く引き寄せられた。鳥が鳴くのを手で制し、少年は一度その光を見据えると、引かれるまま光に向かっていく。
 あっという間に、光の柱が鼻先に迫る。
 一度大きな音がして、すぐに何も聞こえなくなった。少年がそっと目を開くと、目の前にちらちらと光るものが浮かんでいる。少年自身も、どこか暖かい渦の中を漂っていた。
 辺りを見回すと、そのちらちらと光る何かに触れられるような気になって、少年はそっと手を伸ばす。もう少しで届くというところで、
 ――唐突に光が舞い上がる。
 渦の中心に少年がいた。強く、艶やかな光の舞い。少年は目を開けていることすら既に精一杯だったが、それでもその光が何であるのかを見極めようと、踏ん張った。
――「世界と出会えた方の勝ち」
 懸命に光を視線で追う。
「会いにおいで」
 聞き覚えのある声が、そう言った。確かに聞いたことのある声なのだが、どうしてもそれがいつのことだったかは思い出せない。
「ほら、すぐそばなのに」
「……手を伸ばせば、届くかい?」
「勿論さ。さあ、早く」
 少年は声の聞こえる方へ左手を差し出して、渾身の力を込めて光の渦を進み出す。少しでも、前へ。声の主に手が届くくらい前へ。
 掌の中で、何かが動いた。今なら届く、そう思った瞬間に、少年は光から唐突に投げ出され、地面に叩きつけられて思わず咳き込んだ。心配そうな、病んだ鳥の声が聞こえる。少年は無事だけ伝えると、すぐに『成長する種』を野原に探した。
 案外容易に見つかった。光は最早完全に拡散し、野原には元通り、少年と、その供と、白銀の腕輪だけだったからだ。
「もう少しで、何かがつかめそうだったのに……」
 赤い野原が、いつの間にかかつてそうであった空のような、澄んだ青色に変わっていた。
 少年はしゃがみ込んで腕輪を拾うと、もとあったように自分の左腕へそれを身につける。病んだ鳥が不思議そうに、しかしどこか安心した様子で、少年の右肩にとまる。同時に、何か間抜けな音がした。
「驚いた」
――今の音は?
「僕は今、しくじったのだとばかり思っていた」
――今の音が……成功の証だったんですか?
 不思議そうに尋ねる声に、少年は首を横に振る。もう一度「驚いた」と呟いて、続けた。
「これが成功なのかどうかはわからないけど、僕は今、とてもお腹が空いている。今のは僕のお腹の音だ。つまりそれは……守り人の力を継いでから止まっていた、僕の中の時間というものが、再び動き出したということなんだ」

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