旅の歯車


086 : 賢者の石

 目の前でぱんっと空気が弾けて、少年は思わず瞬いた。同時に妙な匂いが漂ってきて、それを紛らわすように、赤黒い鳥が羽をばたつかせる。それを見て、怪しげな液体を手に持っていた相手がくすくすと笑う。
「悪い悪い。今のはちょっと拙かったかな」
 あれから少年がしたことは、この世界に残った他の遺物の守り人を探すことだった。
 針のかけらを探すのは勿論だが、同時に『世界の心』の元へ戻る方法も考えなくてはならない。ならば目的無く辺りを彷徨うより、同時に手掛かりも探していった方が良いというのが、少年の肩にとまった賢い鳥の考えだったからだ。
 少年は破壊者の言っていたことを思い出し、意識を集中して遺物の感覚を、つまり自分と似た感じのする方へとやってきた。途中で忙しなく動く誰かを感じたが、少年はあえてそれとは逆の方向へ向かった。恐らくそれは破壊者だっただろう。今出会っては、勝ち目が無い。破壊者の方も、以前と同じように少年を泳がせておいた上でかけらを掠めようとしているのか、追ってはこなかった。
 かくして、少年は町を二つ越えたところにある森へとやってきた。うっそうと茂った気味の悪い森のそばに、どろどろとして人を引き寄せそうにも無い沼がある。少年がたどり着くと、あろうことか、その守り人はその畔でお茶を楽しんでいた。
「余所の守り人さんが訪ねてくるなんて、珍しい」
 彼はそう言って、少年にも茶をふるまった。それから、
「時計の守り人は、どうも変わり者が多いようだ」
 と他人事のように言う。お茶の道具の隣においてあった不思議な色の液体を持ち上げると、それを掻き混ぜ、ふっと息を吹きかけた。不思議な音と共に空気が弾けて、少年は顔をしかめる。
「事情は今話した通りです。『世界』のことについてなにか知っているのであれば、ぜひ、お聞きしたいのですが」
 相手は不思議そうに少年の顔を眺め、それから椅子のそばへ適当に置かれていた何かを持ち上げ、何事でも無いように、
「俺はこれの守り人だがね」
 言って、それの埃を手で払う。それは翡翠の王冠だった。
 少年は唖然としてそれを見ていたが、王冠の守り人は全く興味を示さない。
「これはこの世界に初めて権力者というやつが出た時の遺産だがね。俺はもう、この場所で文明が生まれ、壊されて行くのを幾度となく見てきた。いまさら世界自体が滅んだって、だから何だ? 文明が死んで、守り人のあり方も少しだけ変わるかもしれない。それだけの話だろう。俺にはおまえがなぜそう頑張るのか、わからないな」
 そう言って、王冠の守り人はしたり顔で笑う。
「今のこの文化を守りたい……それだけじゃないだろう。言ってみな。生き物は皆、自分の為だけのつまらん主張や理想で動いてるんだ。恥じることじゃ無い。それが本能だ」
「悔しいからです。だったら何だって言うんです」
 王冠の守り人が言い終わるか否かというところで、少年は平然と言った。
「生き物は皆、自分の力で生きていく。悩んで、悲しんで、やっとのことで道を進む。なのにそれを、『世界の心』の気分で壊されちゃたまりません。破壊者だって要するに、『世界の心』の片割れが『自分の思うとおりにならない世界は嫌だ』と言うのを満たそうとしているだけでしょう。だから彼にも世界は譲れない。僕は刃向かうまでだ」
「そんな理由で『世界の心』を相手にするのか」
「いけませんか? これが僕の主張で、そのために動いています。それが本能らしいから」
 言われて、王冠の守り人は面白そうにくっくと笑った。窒息するのではないかと見ている少年が不安になるほど笑って、笑いの止まないまま少年の左腕を取り、掌を上に向けさせる。
「頭の回転の早い奴だ。どこまで本心かは知らないが、確かにそう言われてしまえば、俺は反論のしようが無い」
 王冠の守り人はそこまで言い切ってようやく笑い止むと、少年の左手の上に、先程の怪しげな液体を垂らした。少年は驚いたが、液体は少年の手のひらの上で固形になる。冷たさも熱さも無く、柔らかくも堅くも無い物体。液体ではないが、固体でも無い。
「第五物質、エレキサ。俗に『賢者の石』と言われる代物だ」
 王冠の守り人が言った。
「賢者の……石?」
「ところで時計の守り人君、今のおまえは絶対に破壊者に勝てない。何故だかわかるか?」
「それは……」
 突然の質問に、少年は口ごもる。しかし観念したように、
「今の僕には針の剣もこんな長さしかないし……右腕だって」
「んっんー……おまえは重要な見落としをしているな。これだよ、これ」
 言って、王冠の守り人は自ら守るべき王冠を指さした。
「破壊者は、今までに壊してきた他の遺産の力も持ってる」
「けど、僕にも『成長する種』がある」
 聞いて、王冠の守り人はニヤリと笑う。『賢者の石』を少年の手からグラスの中に戻すと、言った。
「しかしそれは、未だ種のままだ。発芽しちゃいない。まあ、あいつの作ったものだからな。製作者に似て勿体振るのが好きなんだろう」
「先生の知り合いですか」
「あんなやつとは赤の他人だ。だが顔を見たこともあり、話したこともあり、一所に酒を飲んだこともある。最後に会った時はやつめ、その『成長する種』を持ってわざわざ自慢しにきた。最後まであいつはそうだった」
「……先生らしい」
「結局は喧嘩別れだったが、俺はその『種』を見た時ピンときたね。そいつはそのままじゃ未完成。あいつは俺を越えられなかった。やっぱり俺が手伝ってやらなきゃ駄目なんだってな」
 王冠の守り人はいつのまにやら立ち上がり、少年の腕を両手でつかんでいる。完全に退路を塞がれて、少年は仕方なしに彼の話が終わるのを待った。
「そこで俺は考えた。あいつにその『種』の不完全さを教えてやるのは癪に障る。だが将来そのせいで、次代のおまえが苦労するのは目に見えている。ということで、作ったのがこのエレキサだ」
「……つまりさっきの質問は、ただの意地悪だったってことですね」
「意思の確認と言ってほしいな。つまり、そういうわけだ。おまえの返答はなかなか気に入ったしな。これをくれてやるから、有効活用したまえよ」
「ありがとうございます。で、これをどうしたらいいんですか」
「使おうと思えばわかる」
(……先生とこの人、かなり仲が良かったに違いない)
 ようやく手を放されて、少年は思わず安堵のため息を漏らす。これでまた先に進めると思ったところで、少年は目の前の沼が光るのを垣間見た。苔むしたような色の中に、時たま輝く翡翠の輝き。あれは……
「王冠を見せてください」
「ん? いいじゃないか、そんなの」
「それじゃ、やっぱりそうなんですね?」
 少年が睨め付けると、王冠の守り人は観念したというように目を閉じて、少年に王冠を手渡した。翡翠の王冠は粗末な扱いを受けていたのにもかかわらず美しく輝き、しかしその内部は歪に掘り削られている。
「限界に挑戦したって感じでしょ?」
 王冠の守り人はそう言って、苦笑した。
「それを削って、色々試して、失敗作はあの沼へ捨てた。時計と違って、これはちょっといじったくらいで機能を停止するものじゃないし、多少削った位じゃ俺も死なずに済んだわけだ。しかし、空っぽの王冠なんて傑作だろ? もとより、権力なんてそんなもんだ。掘り返されて、更に権力の象徴としての格を上げたんじゃないかと思うよ、俺は」
 困ったように頬を掻きながら、王冠の守り人が言い訳を連ねる。少年はそれを聞き流しながらしばしの間佇んで、呟くように聞いた。
「こうまでして、あなた達は僕に賭けたんですか」
「そう。おまえがこの世界を変えると信じて」
「エレキサを作り始めたころは、僕がどんな人間かもわからなかったろうに」
 聞いて、王冠の守り人は少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。少年は予想していなかった事態に驚いたが、王冠の守り人は気が済むまで少年の髪をかき混ぜた後、今度はぽんぽんと叩いた。
「思ったことはないか? 守り人って、なんて退屈な仕事だろうって。ちょっとくらい無茶なこともしてみたくなるもんさ」
 少年は苦笑して、頷いた。
 
 その日のうちに、少年は出発することにした。ここには沼と、埃をかぶった王冠と、いくらかのティーセットしかない。留まる理由はなかったし、王冠の守り人も「さっさと行って仕事をしろ」と少年を急かした。
「俺はこれで一仕事終えたから、あとはゆったり朗報を待つよ。果報は寝て待て、だな」
 少年は薄く笑って、礼を述べる。王冠の守り人は少年の頭をまた撫でかけて、やめた。
「どうも見かけに惑わされる」
「守り人の中では、まだかなり若い方ですよ。本当の子供だった頃も、先生には撫でられた事なんて無かったけど」
「へえ。じゃ、いいか」
 王冠の守り人はそう言って、少年の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。見送る際には、こう言った。
「『悔しいから』。結構な理由じゃないか。下手に正義ぶった言葉より、俺は好きだね」

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