旅の歯車


085 : 故郷

 心に懐かしい、太鼓の音が聞こえる。同時に、もう随分昔に忘れていたこの地独特の草木の香りがした。
 少年は少しの間それを懐かしんでいたが、一度目をつぶって、大きく深呼吸をすると目の前の草木をかき分けて太鼓の音のする方へと向かう。最後に大きな木の枝をくぐると、背の高い草はなくなり、急に視界が開けた。
 そこには遊牧民の集落があった。様々な模様の描かれたテントがいくつか並び、馬や羊、そして人々が楽しそうに、太鼓の音に合わせて生活を営んでいる。
 少年は幾分目を細めてその様子を見やり、肩の鳥に声をかけた。
「ここが僕の故郷だよ」
 空は異様な色を呈し、風はなま暖かく薄気味悪い。この集落に生きる人々は笑い、さざめき、その命は偽りでも、心は真実であるのだと訴えるように、太鼓の音がよく響く。
「旅の人?」
 幼い子供が、少年にそう尋ねた。少年が笑顔で頷くと、子供は嬉しそうに、そして誇らしそうに、自分の胸の上に、左の拳を置く。
「私達はあなたを歓迎します。笑顔の旅人は、私達にも笑顔をもたらすからです」
 高らかな宣言と同時に、辺りが沸いた。少年が左の拳を胸に置き、感謝の意を伝えると、人々は大きな声を出してさらなる歓迎を約束した。少年の前には様々な果物が並べられ、男達は誰が一番の獲物を出せるかなどと軽口混じりに話しながら、狩りへと出かけていく。その様子を見て、鳥が言った。
――素敵な人たちですね。
 少年は何も答えなかった。ただ寂しげに、口の端を笑わせただけだった。
 今や世界に、昼も夜もなかった。だから歓迎の宴は、彼らの気の済むまで……否、少年がそこを去るまで続くことを、少年は知っていた。
 秒針が見つからないのであれば、早々にここを立ち去ろう。少年は、そう考えていた。最早この地に自分の居場所などはなく、ここにいる誰も、かつて少年が知っていた人々とは違うことなど、百も承知だったからだ。同じように、ここの住人達は少年のことを知らない。いつまでいても、虚しさに変わりはないはずだ。
「好きなだけ滞在すると良い。私達はあなたを歓迎する」
 酋長が言った。少年はただ笑顔で、「わかりました」と告げた。
「ありがとう」
 酋長はそうも言った。少年にはその意図がわからなかったが、ともかく、少年がそれを尋ねる前に、どこかから甲高い、しかし懐かしい声がした。
「全く、こんな時に一体どこにいるのよ、――ったら世話が焼けるんだから!」
 少年は思わず身じろぎして、声のした方へ視線をやる。酋長はにこりともせずに、「会ってくると良い」と言った。
「ねえ、――! ――ってば! 一体どこにいるのよ? 折角のお祭りなんだから、私と一緒に踊りましょうよ」
 声の主は一人の少女だった。少女は誰かを呼びながら、人を探しているようだ。少年はあるテントの影に少女の姿を見つけ、その場に声無く立ちつくす。
 少年の視線に気づいたらしい。少女が振り返って、同時に二人の目があった。
 少女が驚いたように目を丸くして、少年を見る。少年はその様子に何かを期待した自分を感じ、自分自身を思いきり殴りつけたいような、そんな気分に襲われた。
(この子だって、僕のことがわかるはずないのに)
 少年の考えを肯定するかのように、少女が無邪気な声で、尋ねる。
「あなたが旅人さん? 随分若いのね」
 少年は笑顔で頷いた。そして同時に安堵していた。ここの人々には、笑顔以外を見せたくないと思っていた。
 肩の鳥が羽ばたいて、テントの向こうの空へ消える。少年はその心遣いに感謝して、それから、少女に声をかけた。
「君は踊らないの?」
 少女は目を瞬かせ、それから微笑み、頭飾りを整える。子供ながらにはにかんだ瞳で少年をじっと見据えた。それから、
「人を探していたの」
 短く答える。
「でも、あなたとなら踊っても良いわ。あなた片腕だけど、踊れる?」
 少年は左の拳を胸に置いて、少女に向かって立て膝の姿勢を取った。少女が軽やかな足取りで周りを一周して、その間に摘んだ花を少年に渡す。少年はそれを受け取って立ち上がると、その花を少女の髪に添えた。
 音楽に合わせて踊りながら、少女が言った。
「さっき、人を探していると言ったでしょう。その子はね、この酋長の息子なの。ずっと探しているんだけど、見あたらなくて」
「……そう」
「やがてこの部族を束ねていく人なの。剣を持てば強いのに、戦うのが大嫌い。踊りも踊れば上手いのに、お祭りが嫌いでいつもどこかへ隠れてしまうの」
「だからそれを、いつも君が見つけ出す」
「そうなの」
「大変だね」
「本当にね」
 会話がとぎれた。少年はほんの少し悩んでから、自分でも弁解じみていると思うことを口にした。
「きっと戦って、誰かを傷つけるのが恐いんだよ。踊りも、本当は声をかけたい人がいるのだけど、他にもその人と踊りたいと思っている人がいるのを知っているんだ。自分が出て行ったら誰もが酋長の息子の踊りを見ようとするから、その人は他の人と踊れなくなってしまう。それが嫌なんじゃないかな」
 少女は少年が言うことを、黙って聞いていた。それからくすくすと声をたてて笑って、自慢げに胸を張る。
「あなたが今言ったこと、もっと簡単に言い換えられるわ」
 少年が驚いて踊りをやめると、少女はその左手を優しく取って、自分の顔の前で握った。
「優しい人なの。とても、優しいの」
 少年は、自分の肩の力が抜けるのを感じた。お構いなしに、少女は続ける。
「あたし達この部族の者はみんな、彼のことが大好きなの。酋長の息子だからじゃなくてね、彼だからよ。……でも、本人は気づいていないみたい。だから彼が気づくまで、あたしは何度でも探しに行ってあげるつもり」
 少年が右手を失ってしまったことを、これほど悔いたことはなかった。もしまだ右腕があったなら、自分の手を握る彼女の手を、握りかえせただろうに。
 少女はそっと手を放して、澄んだ声でこう言った。
「お帰りなさい、『旅人さん』」
 少女の表情は晴れている。少女は少年の髪を撫でて、それから急にはっとしたように息を呑み、早口にこう言った。
「私ったら、何してるのかしら……。ごめんなさい、旅人さん。私もう行かないと。――を探してあげなきゃ。そうだ、これ、あなたにあげる。私達の踊りの思い出に」
 少女はそう言って、先ほど髪に添えた花を少年に手渡した。それから憤然とした表情で、言う。
「あの子またきっとどこかに一人でいるに違いないわ。私、行かなくちゃ」
 少年は「そうだね」と答えて、早足に去っていく少女の後ろ姿を見送った。
 一人取り残されて、少年は静かに、静かに、呟いた。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。……ただ、嬉しくて……それにほんの少し、少しだけ、心のどこかが寂しいだけだ」
 取り残された少年の周りには、既にテントも、馬も、人々もなかった。自分の一つしかない手の中には、いつの間にか、花ではなく黒光りする針の欠片が握られている。
 赤黒い鳥が少年の肩に戻ってきて、それからもう一度言った。
――素敵な人たちですね。
 少年は笑顔だった。この数十年の中で、一番の笑顔だと自分でも驚いていた。
 しかしその瞳には、大粒の涙が光っていた。

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