旅の歯車


083 : 審判の日

 部屋に入るなり、焦りのこもった声を上げたのは破壊者だった。
「おまえの指示どおり、守り人は連れて来た。母に会わせてもらおうか」
 歌声の主の姿は始め、そこにはなかった。少年が探るように部屋を見回していると、再びどこかから声がする。
「そう焦らないで。ここへきて、意地悪なんてしないよ」
 部屋の中央へ、唐突に人影が現れた。しかしそれはしっかりとした実態という感じではなく、雲のようにあやふやな何かだ。
「破壊者、君のお母さんは、もう死んだはずじゃ……」
 少年が言うのに耳は貸さずに、破壊者は一歩前に踏み出した。決意のある、重みを持った足取りだ。
 ――もし相手が取引に応じなければ、殺してでも自分の要求を受けさせる。それはそういった印象を与える動作だった。
「だったら、さっさと……」
 破壊者が苦々しげに、その人影を睨む。人影はそれを気にするふうもなく、少年の方へ顔を向けた、ように、見えた。
「初めまして。偽物の守り人さん。僕のことは……こういえばわかってもらえるかな」
 親しげな声だった。その声が続ける。
「僕は、この世界の『心』」
 少年はじっとその顔にあたるだろう部分を見て、それから大きく息をついた。
「もう、余程のことでない限り驚けなくなったみたいだ」
「おや、驚いてもらえなかったのか。それは残念」
 影はそう言って、くっくと笑う。
「だけど、これなら驚いてもらえるかな?」
 ぱちん、と何かが部屋に鳴り響いた。途端、中央の影の脇に二つ、新たな影が出現する。
「母さん!」
 破壊者が叫び、片方の影へと駆け寄った。
 二つの影は共に人間の形をしており、もう片方の影を見た瞬間、少年の背筋は凍りついた。
「……先生……?」
 呼ばれた相手も、突然のことに驚きを隠せない様子だ。伸び放題の髪の間から、見開いた二つの瞳が窺える。
「これは、遺跡で見たのと同じ『記憶』? それとも……」
「正真正銘本人さ」
 中央の影が楽しそうに言った。
「僕のこの世界をごちゃごちゃと複雑にしてくれたのでね、囚人として魂に留どまっていてもらったんだ。といっても、こんなになるまで幽閉していたのは僕じゃなく、彼女の方だけど」
 言って、中央の影は破壊者の母の方を窺うようなそぶりを見せる。女の方はそれにも気づいていないかのようにぼうっとして、破壊者が何やら話しかけるのをじっと聞いていた。
「その女はなかなか多才でね。昔は僕の妻だったのだが、この世界を愛しく思うあまり、自らこの世界の生き物として生まれ変わり、こんなに世界をぼろぼろにしてしまった。僕たちのかわいい子供であった、この世界をさ」
 影はさも悲劇だと言わん限りに熱っぽく語ったが、その言葉に悲しみの色は見受けられない。道化じみた物言いに少年は戸惑ったが、まず破壊者とその母の方に視線を移し、それから一度、自分のかつての師へ声をかけた。
「――先生もなかなかしぶといですね」
「歓迎の声もなしか。昔いじめ過ぎたかな」
 そういって、先代時計の守り人は低く笑う。少年も微笑んだ。そこには言葉では伝わらない何かがあった。
「それで……」
 笑い終えた少年が、つと視線を影へ向ける。
「ここで僕らに、何をさせるつもりなの?」
 人影の唇が、にぃっと伸びて意地の悪い笑みをかたどった。そうしてその同じ唇が、静かに、こう告げる。
「君たち二人のどちらかに、この世界をあげよう」
 あっさりとした、何の飾り気もない言葉だった。まるで拾った林檎を手渡すかのような簡単な言葉に、少年は思わず顔をしかめる。これがこの世界を育て、壊し、見守ってきた『世界の心』の言葉だというのか。最早怒りも、呆れも起こらない。少年は自分に残った最後の針の欠片を握りしめて、あごを引いた。その動作を、彼の以前の師だけが見ていた。
「……世界を?」
 ようやく視線を影の方へと向けた、破壊者が聞き返す。声は守り人と破壊者とを見比べながら、楽しそうに続けた。
「もう僕は、疲れてしまってね。この世界をこれからどうするべきなのか、その選択をするのさえ嫌になってしまった。……だから、僕はこの世界の行く末を、君たち二人に委ねようと思う。生かそうとする守り人、壊そうとする破壊者、僕はこの世界を君たちのどちらか、僕がこれから言うゲームに勝った方が願うとおりにしよう。どうだい?」
 破壊者が少年へ視線をやり、少年も破壊者へ顔を向けた。
 一瞬だけ、目が合う。互いに、その目は決めた道を進むことを、とうに覚悟した眼であると知っていた。
「あんたにとってはゲームにすぎないってのが気にくわないが」
「何にしたって構うもんか。僕は世界を残したいだけだ」
 『世界の心』は満足そうに笑った。そうして、唄うように、囁くように、聞きようによっては、あるいは踊るような声で、泣き出しそうな言い方で、呟く。
「簡単なゲームだ。君たちは今まで通りに秒針の欠片を集め、それを完成させる。君たちが持っているその剣をあわせても、まだいくらか足りないからね。そうして完成した針を携えて、この世界と出会えた方が勝者さ」

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