旅の歯車


078 : 醜い鳥

 闇の奥から、誰かの声がする。
 その声を聞かなくてはいけない。それなのに、意識は闇の中で拡散し、なかなか声のもとへ向かうことができない。
――もっと大きな声で言ってくれ。聞こえないんだ。
 闇の中で少年が叫んだ。声は尚も語りかける。それなのに、言葉は依然、届かない。
――もっと近くで話してくれ。こっちからは行けないんだ。
 闇の向こうで、何かが瞬いた。手を伸ばせば届きそうな距離だ。少年は無意識のうちにその明かりへ近寄ろうとして、それから、ふと気づく。
――だめだ。
 沈んだ、悲しい気分がつぅっと雨の滴のように、心の中を下って行くのがわかった。
――もう、あの明かりに手を伸ばすことすらできない……
 
 少年が真っ先に目にしたものは、毛先の縮れた赤黒い羽だった。
 視点の定まらないまま、少年はしばしそれを見ながらぼうっとしていた。今までここで眠っていたらしい。頭がぼうっとする。やけに静かなところだ。一体何をしていたのだったろう。
 緑の香りはする。だが、屋外ではない。どうやらテントの中にいるようだ。
 少年が視線を横にそらすと、突然大きな嘴が見えた。少年はびくっとして体を起こしかけたが、すぐに何か得体の知れない痛みを感じ、体に走った緊張を解く。嘴は少年の頬を軽くつつき、赤黒く病んだ羽をゆすった。
「右腕の感覚が……ない……」
 少年は自分でも驚くほどの落ち着いた声で、ぽつりと呟いた。痛みに耐えながら頭を起こし、右腕のあるべき場所へ視線をやる。破壊者の剣を受けた右腕は、肘から下がなくなっていた。
「もう、あの明かりに手を伸ばすことすらできない……。なるほど、あの夢はそういうことだったのか」
 少年は思わず苦笑した。夢の中で先に悲しんでしまったからだろうか、今はどんな悲しみも、虚脱感も、少しも感じはしなかった。
 枕元の低い止まり木に止まっていた鳥が、短く鳴いた。なんとも形容し難い、あまりに醜い声だった。
「……その羽、随分病んでいるね」
 少年は一息ついて、静かに話しかけてみた。鳥はきょろきょろとよく動く目で少年を見て、また一声鳴く。何を言っているのかはわからない。しかし同時に、すぐ近くから重たい布の擦れる音がした。テントの入り口が開いて、顔に髭を生やした男が顔を覗かせる。
「お目覚めかい?」
 男は人当たりの良い笑みを浮かべて、テントの中へ入ってきた。手には水瓶を持ち、「ちょいと染みるよ」と断ってから手ぬぐいで少年の傷口を拭き始める。
「あなたが……助けてくださったんですね」
「ああ。偶然あの野原を通ってな。随分酷い怪我だったもんだから、始めは死んでるだろうと思ったよ」
 傷に染みて少年がうめき声をあげると、髭の男はなんでもないかのようにかっかと笑った。よく見ると男の体も古傷だらけで、見える部分だけでも左足は義足のようだし、右目は傷痕と共にとじられていた。
「死なんでよかったな。儲けもんだ。何、腕の一本や二本、なくてもどうにか生きられるさ」
「ひとつお聞きしたいのですが」
「ん、なんだい」
「僕の右腕に……」
「……ああ、すまんな。気の毒だとは思ったが、切らせてもらったよ。あのままじゃ腐るより他になかったんでな」
「いえ、僕の腕に刺さっていた剣の方です。あれは、今どこにありますか?」
 少年の問いに、髭の男は面食らったように目を瞬かせた。それから驚きの醒めぬ様子で「ああ……」と言って、続ける。
「あれならまだ表にあるが……あれだろう? 黒い……」
「……ありがとうございます」
 少年は言って、深い安堵の溜め息をついた。
「本当に感謝します」
「自分の腕より大切なものなのか」
「ええ。……大切なものです」
 「そうか」と言って男は笑う。少年の傷を一通り拭くとテントから出ようとし、見透かしたかのようにこんな事を言った。
「おまえさんの荷物は表にすべて置いてある。あとで、その剣も置いておくよ。……でもな、おまえさんは重症なんだ。しばらくはそこで安静にしていろ。いいか? 安静に、だぞ」
 聞いて少年は微笑した。男の好意に報いるため、一度だけ短く頷く。
「……それから、その鳥にも礼を言ってやれよ。大体、野原で俺を呼んだのもそいつだったんだ。その後もおまえさんのことを心配そうに、ずっと見守って……」
「……この鳥は、あなたのじゃないんですか?」
「いや。おまえさんのじゃないのかい? ま、どっちでもいいさ。命の恩人だ、可愛がってやんな」
 男がテントを出てしばらくしてから、少年はなんとか身を起こすことに成功した。右腕は疼くが、他にはこれといって酷い傷は無さそうだ。
 バランスの取れないまま立ち上がって、テントの柱へもたれながら外へ出る。少年の失った右腕の重みを補うかのように、大きな醜い鳥が少年の右肩へ乗った。意外に傷は疼かない。
「君には感謝するよ」
 少年は、肩に乗った鳥へ話しかけた。
「本当に感謝してる。君や、さっきの人がいなければ、あそこでのたれ死ぬところだった」
 醜い赤い鳥が、少年の肩を掴んだ爪に少し、力を入れた。傷口が引きつって、ピンと痛む。少年は穏やかな口調のまま続ける。
「君の気持ちは嬉しいよ。だけど僕はきっと……」
 鳥は更に力を入れた。傷が痛む。それはあまりに優しく、悲しい痛みだった。
――続きを言わないで。
 鳥はそう伝えているようだったが、声はない。少年が左手をまわして羽を撫でてやると、鳥は擦り寄るように少年の髪へと頬をうずめた。
「きっと僕は、また君を殺してしまう」
 鳥は身動ぎもせずに、少年に撫でられるがままになっていた。静かに、息を潜めて、時が過ぎるのを待っているようだった。
――これが、あなたの望んでいた結果でないことはわかっています。
 それがどこか遠く、はるか遠方の山から聞こえる声なのか、それとも心の中に響いている声なのか、少年にはわからなかった。
――それでも、こんな姿になっても、帰れるのならあなたのそばにいたかった。
 少年はゆっくりと空を仰ぎ見た。空は依然として昼夜の混じりあった混沌とした様子を呈したまま、様変わりした大地の上に横たわっている。
「――おかえり、ひばり……」
 少年は呟いて、自分の背後に建てられた、既に苔むしているテントを振り返る。
 その隣では顔いっぱいに髭を伸ばした一人の男が、虚ろな目をして何事かを呟いていた。
――世界は変わってしまった。
 少年は奥歯をかみしめて、時計の剣のかけらをしっかりと荷に詰めた。
「――僕は引き下がらない。待ってろよ、破壊者。それに……『世界の心』」

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