076 : 聖域
「これが、あなたの望んだことなの?」
女の声が静かにそう尋ねた。声の主の口元はうっすら笑みの形をとっており、声自体もどこか弾んだような雰囲気を醸し出している。
「全く、あなたには驚かされるわ。だけど、こんな回りくどい方法をとる必要はあったのかしら?」
女は監獄の前に立っていた。空気は淀み、薄暗い廊下には女のほかにどんな生き物の姿もなく、ただ、一つだけ扉の閉じられた牢の中から、重い鎖の動く音がする。
「囚人としての長い時間に、声すら奪われてしまったの?
哀れなこと……。あなたのような人間でも、やはり地に住む者は弱いのね」
やはり返事はない。女は牢を一瞥し、それに背を向ける。途端に低くくぐもった笑い声が、まるで地を這うかのように聞こえてきた。
「一体何を笑うの」
声はなおも笑い続けた。女は手にもったカギ束を鳴らし、牢の方へ――牢の中にうずくまった男の方へと視線を戻す。その瞳に既に笑みはなく、ただ冷ややかな何かが男の元を見下していた。
「よく考えてみな、お姫様」
低い笑い声の後に、しわがれ声がする。女が持っていた明かりを牢の方へと向けると、長いこと日の光に当たることのなかった男は一瞬まぶしそうに目を細めたが、それはただうすぼんやりと見られる光に反応しての事だったらしい。男の瞳は既に白く濁り、伸び放題になった髪の間から微かに覗いているだけだった。
「守り人は成長する種を手にいれた。破壊者は過去の遺物の力を集めた。遺物の力とはすなわち――」
男は途中で話を切って、再び低く笑い出す。
「その両方が合わされば、一体どうなると思う?」
「馬鹿な。ありえないわ。どちらも同等の力を持ったものが扱うのならともかく」
「ありえるさ」
男の声は、静かな自信に満ちていた。つい先程まで死人同様であった盲いの前に、女は怪訝そうに顔を歪めた。
「少しでも考えたことはなかったか?
全く普通の人間が、十五年も過去の遺産に触れ、正気を保っていることなどできるのかと」
「――適当なことを言うな!」
女は声をあらげてそう言って、手の中で弄んでいた鍵束を床へと叩きつける。
「口惜しいこと、一体どんな謀りごとをしたというの……!
ありえないわ、ありえない!
私が今まで……どんなに……!」
男のくぐもった声が聞こえる。押し殺し、忍んでもまだ溢れると言わんばかりの笑い方に、女は身震いさえしてその場を立ち去った。
「あの男は私を焦らせて遊んでいるだけよ。何を動揺することがある?
あの男にはもう……何の力も……」
闇の中で、一人つぶやく。しかし女の胸中は、あの男に限って適当なことや、実の無い脅しを口にしないことを重々承知していた。まさか、まさかそんなことはないはずであったのに。
「どうして、何故」
どうしてこうもうまくいかないのだろう。
「何故私の邪魔をするの」
女は一人、つぶやいた。
「私の味方だと思っていたのに」
声が震える。寒気までする。
「二人とも、私を愛してくれていると思っていたのに」
「――そう、そしてそのおごり故に、君は二度失敗した」
その言葉に、女は身を凍らせる。
あまりにも冷ややかな、そして若々しく生命力に満ちた声だった。女が恐怖に気圧されて壁に身を寄せる間も、その声は彼女に語り続ける。
「随分とお久しぶりだねえ。見ないうちに、君も随分変わったものだ。美しい姿に違いはない。だけど、その目はなんだい?
醜くつりあがって。その手だってもう、何度血の味をすったものか」
「だまりなさい……」
「聞こえないな。心なしか、声までしわがれてしまったように聞こえる。僕が愛した君とは似ても似つかないな」
「何故こんなところにいるの」
女の声は、もはや悲鳴にも似たものになっていた。
「何故今更出てくるの、あなたは……私が殺したはずなのに!」
女は叫んで手に持った松明を振り回したが、声の主の姿はどこにも見られない。声はしばらく何も言わずにいたが、その後ポツリと「世界の要が壊れたようだね」と呟いた。
「君の望んだ通りに。だけどそれも、ここまでだ」
声はどこか残念そうにそう言って、再びしばらく沈黙する。
「……あなたは一体……どこに隠れているの?
姿を見せて」
「今はまだできない。だけど僕は確実にここへ向かっている。もうすぐさ」
女がぺたりと座り込んだところで、どこかから優しい風が一筋、吹いた。