旅の歯車


075 : 王子と姫

 キン、と、金属の合わさる乾いた音がその空間に響き渡った。既に錆び付いた腕の戒めが、目の前の鉄格子にあたった音だった。
「むかし、むかし、星の数よりまだむかし。天に住む王子は、地上の娘に恋をした。天の王子は全てのものより娘を選び、娘もまた、王子の為に全てを捨てた」
 暗闇の中から、低い声がする。
「王子には果ての小さな世界が与えられたが、二人の幸せは、そう長く続くものではなかった」
 かび臭い、湿った空気の中。声は一度大きく息を吐いて、それからしばらくの間、止んだ。
「……果てに位置する不完全な世界は、二人の苦労の甲斐もなく、一向に完成することがない。失敗するたび文化を壊し、その度に新たな理想郷を模索する。それにはあまりに長い時間が必要だった。――次第に二人の心は離れ、王子はやがて、別の女を愛するようになる……」
 闇の中で、先はつゆほども見えない。最早視力が残っているのかすら定かでない中で、声は笑っていた。
 声の主は男だった。うす気味悪い嗄れ声で、笑いながら話し続ける。
「姫は怒り、かつては愛した男を手にかける。そうして自らの子とも呼べる世界を破壊し、自分も消えてしまおうと躍起になった……そして……」
 笑いながら、男の濁った瞳にはうっすら光るものがあった。それが涙であると男が気づく前に、どこかからこつこつと足音がするのを聞いて目を閉じる。流れた涙は、脂にまみれた頬に消えた。
「……くだらない痴話話だ」
 足音がだんだんと近づいてくる。光は失われたものと思われた目に、ぼんやりと何か光るものが見える。
「――お久しぶりね。少しお話しをしに来たわ」

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