旅の歯車


070 : 天使の翼

 日が明けたばかりの森の中を、少年は草を踏み分け歩いていた。はるか昔に打ち捨てられた街道には、もちろん人もなく、森の吐いた冷ややかな息だけが少年の体内に入り込み、彼を動かしめている。
 彼は腰に帯びた剣に触れ、そこに明け方の森と同等の静けさを思うと、一度深い溜め息をついた。吐き出された息は、仄かに白く色付いている。
 ――何もかもが夢のようだ。
 少年はそう考えて、だがしかし、すぐに首を横に振った。
 ――何もかも、現実だ。夢のように思うのは、ただ頭の整理がついていないからだというだけだろう。
 かつての師から事の顛末を聞いた、翌日。少年の心は未だ、選択を決心しかねていた。
「ねえ。あなたはこれから、どこへ向かうの?」
 黙って後を追っていたヒバリが、不意にそう尋ねてくる。少年は答えず、ただヒバリを自分の肩へ乗せると、摘んだばかりの木の実をやった。それから、
「……僕には、ここで旅をやめてしまう事もできる」
 しばらく行って、呟いた。
「いくつも道がある。全て試す訳にはいかない。一度踏み入ってしまったら、後悔しても後戻りはできないだろう。自分自身で決めて、自分自身がその業を得る」
 選ぶ事がひどく辛い。全てが自分を圧しているかのように、身動きがままならない。しかし選択さえする事が出来れば、他の誰でもない自分自身が決めた道を歩く事ができるはずだ。
 好きなように生きる事が出来る。だが全ては自分にかかっている。そうか、これが「自由」か。
 どんな束縛よりもその人間に重く伸し掛かり、しかしそれを持たぬ者には、何よりも美しく、また、魅力的だと考えられる。これが自由。
「故郷にいた頃、僕は生まれながらに酋長の息子、部族の長を継ぐ者だった」
 呟きは、白い息に紛れて消えた。
「でもその「不自由」も、簡単に消え去った。僕は次に、時計の守り人になった。実際がどうあったにしろ、あの時はそれより他に道なんてないと思ってた」
 草を踏み分ける音だけが、冷たくなった耳に響く。
「今は何もない。自由だ」
 自由。
 少年が道を進んでいくと、やがて、分かれ道が見えて来た。道は三方に伸びている。一つは、近隣の町へと至る道。少年が今まで、あてもなく歩んで来た土地へと続く道であった。
 その隣にあるのは、西へと続く道。師の話から察するに、そちらへ向かえば一人目の破壊者、つまりまじない娘であった女が住んでいたという谷へ着くはずだ。
 そして最後の一つは、少年がたった今歩んで来た道。もと来た方へ、引き返す道。
 少年が分岐の前で立ち止まると、ヒバリは飛び上がり、美しい声で鳴いた。
「苦しんでいるのがわかる。だけど、私には何もする事が出来ない。それがひどく悲しい」
 聞いて、少年は微笑んだ。何年も忘れたままになっていた微笑みだった。
「僕は、君の気遣いが嬉しいよ」
 優しさゆえに仲間にあぶれ、臆病ゆえに道を戸惑っていた小さなヒバリ。この小鳥の軽やかな歌に、舞いに、どれだけ慰められて来たことだろう。
「ありがとう」
 少年が素直な気持ちで言うと、ヒバリは少しはにかむような仕草をしてみせた。そして、言う。
「ありがとう」
「それは、たった今僕が言った台詞だよ」
「ええ。知っています。だからありがとう。……私は、あなたのそんな笑みが大好きなんです」
 少年は少し驚いて、それから、再び微笑んだ。
 ――草むらの中から二つの獰猛な目が、少年達を見つめているとは露とも知らなかった。
「――…っ、避けて!」
 ヒバリが言った。草をかき分ける音と同時に、何かの重くすばしこい足音が聞こえる。
 少年は振り返った。その先に、涎を垂らし、狂気に猛り狂った獣の姿を見た。
 腰に帯びた剣へと手を伸ばす。間に合わない。そう思うが早いか、獣は少年の脇をすり抜け、ある一点へと向かって駆けた。
 
 ――守り人に選ばれた者と近しいものは
 
「やめろっ……」
 少年は反射的に事態を理解して、唸った。
 
 ――殺される それが掟だ
 
「やめてくれ…――!」
 
 またいつか、立派なヒバリになって帰るって約束したんです。だから、くれぐれも焼き鳥にはしないでくださいね。
 なんで答えてくれないんですか? 私はあなたとお喋りがしたくてしょうがないのに。
 ――それでも、私はご一緒しますよ。
 
 少年は少しの間、うずくまっていた。その隣には剣の刺さった獣の骸が。その手の上には、小鳥の屍があった。
「……ヒバリ」
 微かな声で、それでもしっかりと、少年は唇を動かした。
 ――涙って、温かいですよ。
「ヒバリ、聞こえるかい?」
 ――涙は嫌なことを流してくれるし、それに頑ななものを溶かしてくれます。
「僕は道を決めたよ」
 掌の上の暖かさが、段々と薄れていく。
「君は、僕と一緒にいてくれると言ったね」
 赤く色づいた手の上に、塩っぽい雨が降る。
「だから道を決められる」
 少年は次々に溢れる涙をぬぐいもせずに、ただにこりと、笑った。
 ――私は、あなたのそんな笑みが大好きなんです。
「ありがとう。……やっぱりそれは、僕の台詞だ」
 少年は立ち上がった。それから剣を引き抜いて、確かに道を歩き出す。
 その道を進む彼の足下では、傷ついてなお美しい小鳥の翼が彼を見守っていた。

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