旅の歯車


069 : 精霊

「待ってください、先生」
 今までじっと聞き役にまわっていた少年が、不意に口を開いた。
「質問がたくさんあるんです。先生がどうやって守り人になったのかは大体わかりました。でもその女の人って一体? 年をとっていなかったっていう事は、その人は今でも生きているんですか?」
 少年は乱暴に首の傷へ手を伸ばすと、かつての師の幻影をじっと見据える。
「それにこの傷。先生は、こうして先代の血を受けとる事で守り人の力を得るんだって言っていましたね。だけど先生の話には、そんな場面は出てこなかった。――ずっと、僕に何かを隠していたんですね? そしてそれは今回の出来事に、時計が壊れた事に関係する、とても大事な事で……」
少年はそこまで言い終えると、肩の力を落としてうなだれた。
「いつも……僕の知らないところで大切な話が進んで行くんだ」
 その時少年の脳裏に甦っていたのは、今は亡き彼の父のことだった。
 少年には何も言わぬまま、遠くへ行ってしまった孤独な酋長。自分に後を継がせると言っていたのに、彼は何の相談もなしに戦いに出て死んでしまった。子供に何か言ったところで、なんの役にも立たないと思ったのだろうか。
 師がいつもと変わらぬ表情でこちらを見ていることに気付いた少年は、奥歯を噛み締めて言った。
「……お願いします。全て話して下さい。僕は知りたい。知らぬままでいて、後に一人取り残されるのは、もう、たくさんなんだ」
 ほんの少しの、間があった。
 師はじっと、少年を見ていた。少年も、師の幻影をじっと見据えていた。
 師が視線を逸らして、自嘲気味に笑う。その瞳は、丘の下でいまだ行われている祭り騒ぎを眺めていた。
「この瞬間に変わったぜ。……今は俺が話して聞かせてるんじゃない。お前が、お前の意志で俺に尋ねたんだ」
 
 さて、それじゃあ早速本題に入ろうか。……何、前フリが長すぎたか。多少は我慢しろよ、仕方ないだろ。説明下手の俺が、それでも苦労しながら喋ってやってる状態なんだからさ。
 まず、そう。お前には散々あの扉、大時計のある空間と、俺たちが人間だった頃暮らしていた世界との間の扉は、余程のことがなければ開かないと口うるさく言っていたが……悪い、こればかりは謝ろう。俺は時計の前を抜け出して、外の世界を遊び回る常習犯だった。あそこから出るための鍵は、必要だと思う時でなければ出てこない。つまり、裏を返せば出たいと思えばいつでも出られるっていうわけだな。
 それなのにお前に嘘をついたのには訳がある。この先は怒り狂ってくれても構わない。請け合おう。だが俺がいいと言うまでは黙って聞いていてくれ。
 
 俺は当然、その姿は一体どうしたんだと彼女に尋ねた。すると彼女は自分だけ年を食うわけにはいかないと言って笑ってから、ある森へと俺を連れて行ったんだ。彼女曰くその森には不思議な力があるとかで、時間の束縛を受けないのだと言う。確かにその森は、大時計の前にも似た不思議な感じがした。
「あなたの守っている大時計は、ここで作られたの。あの時計が作られるまで、世界に時間という観念はなかった。きっと、この森はその頃のままになっているのね」
「どうしてそんな事がわかるんだ?」
「わかるわ。この森はなんでも教えてくれるもの」
 彼女と森の関係は、守り人と遺物の関係に似ていた。守り守られる存在。彼女はその森に溶け込んでいるかのようだった。
「この森をずっと行くと、小さな谷間につくの。そこにはちっぽけな町があってね、今はそこに住んでいるわ」
「……町に?」
「老いない体を見たせいか、町の人々は私の事を神のように言うのよ。おかしいわよね、これが私たちの昔住んでいた町だったら、とっくに異端扱いで追い出されていたでしょうに」
 そうして彼女は唐突に、とんでもないことを話し出す。
「ねえ、もう守り人なんてやめてしまったら」
 俺は思わず呆気にとられた。
「……簡単に言う。そんな事ができるなら、今ごろ俺は…」
「わかってる。でも簡単だわ。時計を壊してしまえばいいじゃない。守る対象を失えば、守り人も何もないわ」
「あの時計を壊せるとでも?」
「壊せるわ。守る力と壊す力は同じだもの」
 彼女はいとも簡単そうにそう話したが、無論、そんなことは容易に出来うるはずのないことも、俺は自覚していたはずだった。
「無理さ」
「やってみたことはあるの?」
「ないよ」
「なら、どうして」
 俺は笑った。
「一度だけ、君に見せよう」
「一体何を」
「俺と君を遠ざけている、大きな化け物を」
 その時、俺の手には古びた鍵が握られていた。大時計の前へ戻るための鍵だ。無論、あの空間へ守り人以外の物を連れ込むことが禁忌であることくらい、俺はとうに知っていた。しかし、だから何だ。俺はその後ももう一人だけ、大時計に関係のない者をそこへ通したことがあった。でもだからと言って、特に大したことは起こらなかったぜ。……まあ、そっちの話は後でしよう。
 俺は大時計の前へ彼女を連れて行った。無論、くだらない発想を諦めさせようとしてのことだったのだが、そのほかにももう一つ、理由があった。
 彼女に一度、見せてやりたかった。俺の守っているものが一体何なのか、俺を縛っているものが一体何者であるのかを。
 俺は鍵を持って、そこにはない扉を開けた。俺たち二人は大時計の前に、身を寄せ合って立ちつくしていた。
「これが時計……」
 彼女が吸い込まれるように時計の方へ歩いていくのを、俺は止めなかった。
「こんなところで、三十年も?」
 俺は黙って頷いて、さっと時計の前に立った。
「俺はこの時計の守り人であり、この時計は俺自身だ」
「どういうことなの?」
 彼女が聞いたので、俺は苦笑するとナイフを手に取り、大時計の長身にうっすらと傷を入れた。そう、あくまでうっすらと。そんなことはそれまでやったことがなかったが、その結果は既にわかっていたからだ。
 まるで傷つけられた大時計が泣いているかのように、俺の腕に切り傷が出来、なま暖かい血が流れ落ちた。それを見た彼女が息をのんだので、俺は時計の前で布を手に入れることを望むと、どこかからわき出るように出現したそれで、手早く傷を隠した。
「こういうことさ。俺が傷つけば時計も傷つく。この時計が老いないから、俺も老いない。だからもしこの時計を壊そうとなんてしたら、その前に俺が死んでしまう」
 女は打ち拉がれたように時計を見上げて、歯を食いしばる。その横顔は相変わらず凛として、いとおしい程美しかった。
「あなたが死んでしまうのでは、意味がないわ」
「そうでなくても、この時計が壊れてしまえば、世界は変わってしまう」
「変わるって、一体どう変わるの」
「時間の無かった時代に戻るのさ。俺は何年もこの時計の前で過ごす間、時計の無かった時代のことを考えてみた。時間の無かった時代は自由だった。いつ、という概念がないのだから、生き物はその瞬間ごとを確実に生き、いつの間にか自然に消えていった。それはある意味理想の世界かも知れないな。だが、時のない世界という物は、それ以上に発展しないんだ」
「もしも今、時というものがなくなったら、この世界は壊れてしまうかしら」
「わからない。変容はするだろう」
「それは罪かしら」
「まだ言っていたのか。諦めさせるために、ここへ連れてきたのに」
「残念ね、それなら逆効果だったわよ。私、良いことを思いついてしまったもの」
 彼女の顔は笑っていた。俺が驚いてたじろいでいると、彼女はつかつかと歩み寄って、俺の腕を掴んだ。
「――森へ戻りましょう」
 
 時のない森――すなわち、大時計の無くなった後の世界。
 時から開放された森、風の吹き込まない森、葉のさざめく音の聞こえない、何も進まない森。けれど何をも殺さない森。
 森へ戻った後、彼女はクスクスと、まるで悪戯を見つけた少女のように明るい声で笑った。
「時計なんて、要らない。私は貴方と一緒にいたかった。貴方と一緒に生きていきたい。あの時計さえ壊せば、私と貴方は」
 聞いて、俺はかぶりを振った。そうして自嘲的な笑みを浮かべて、自分の血ぬれた腕を見下ろす。
「しかし、壊そうとすればこのざまだ」
 それを聞いて彼女は笑う。
「私にまかせてくれればいいわ」
「どうするつもりだ?」
「見ていてちょうだい。――私が上手くやってみせる」
 そうして彼女は、とんでもないことを話し始めた。時計を壊すためにはどうしたらいいのか。どうやったら時計の影に潜む大きな力……世界の目をかいくぐることが出来るのか。
「何千年単位の、大仕事よ」
 彼女は言った。
「始めるのはあなたが守り人の任期を終える少し前。まずあなたは、何食わぬ顔で間違った次代の守り人を選ぶのよ」
「待ってくれ、何がなんだか……」
「あなたの任期が終わる頃、必ず世界には次の守り人になるべき人間がいるはず。だけど、あなたは敢えてその人間を選ばずに、別の人間を選んで守り人を継がせるの。そうして、本来ならば守り人に選ばれるべきだった人間を、私が見つけて破壊者として育て上げる」
 それから、と、彼女は続けた。
「いずれ時が来たら、破壊者に時計を壊させるの」
「破壊者は守り人としての仕事を正式に継いでいないから傷つかないし、それなりに力もある。守り人は実際その地位につくべき物ではないのだから、やはり傷つかない。と、そういうことか?」
「ええ、そうよ」
「馬鹿な。そうすれば時計は壊れるかもしれない。だが、だからといってどうなる。そのころには、俺たちは二人とも死んでいるだろう。もう関係のない世界の話じゃないか」
「それでも時計を壊してしまいたい」
「それなら、今俺と一緒に殺してしまえばどうだ」
「時計に誰かを殺させてやるのは嫌」
「我が儘な。それに殺しはしなくとも、その二人の人生は、俺たちが壊すことになるんだぞ」
「あら、あなたの口から、他人をいたわる言葉が出るなんてね。……我が儘を言わせてちょうだい。時計を壊して、その上で、死後の世界で暮らしましょうよ」
 彼女が言い出したら聞かないことを、俺はよく知っているつもりだった。だが、彼女の個人的な感情のためだけに、世界を崩していいものか。
 空には真っ白な月が出ていた。
「――あの日と同じ、歌を歌ってくれないか」
 俺は言った。
「町の集会所で、囚われのお前が歌っていた歌を」
 彼女は微笑んで、俺のためにその歌を歌った。月は相変わらず、蒼白の顔でこちらを見下ろしている。あれは二人で西の町へ向かう時、俺たちの行く手に影を落としたのと同じ、あの月だろうか。
 見上げた月は空っぽだった。あの白い光は命を奪われてしまったのだな、と、俺は疲れた頭で考えていた。月には精霊が住んでいると聞いたことがある。だが、精霊達はとっくに、あんなに真っ白で、さも誠実そうな顔をした丸顔には愛想を尽かしてしまったのだろう。
 俺は視線を、彼女に移した。
 暗闇の中で歌う彼女の声は、以前に劣らず美しかった。あの頃の挑発的な、しかし無垢な表情は消えてしまっていたけれど。
 俺はそっと、彼女を抱きしめた。
 彼女をこんなにしてしまったのは誰だった? 償いは出来ないのか?
 そのころ、俺はもう心を決めていた。
 彼女の望むとおりに、してやろうと。
 
 少年は、話し終えた師をじっと見つめていた。
 怒るでもない、悲しむでもない、静かな表情で。
「数千年が経った時、ついにその日がやってきた。俺が、お前を見つけたのさ」
 師は言った。
「すぐにわかった。お前は守り人になるべき人間ではない。けれど、その素質は身につけている。争いに肉親を奪われ、絶望に打ち拉がれる子供。まさにうってつけだった。そしてその数年後、もう何千年も連絡を取っていなかった彼女から、本物の守り人となるべき人間を見つけたという知らせも来ていた」
 その後、しばらく沈黙が続いた。師は少年の様子をうかがっているようだったが、少年には最早、なにを話そうという気も起こらなかったのだ。
 時計が壊れてしまってから、それを直さなければという一心だけでここまで辿りついた。それが師に望まれてはいないことだったとわかったから、こうして黙っているのではない。ただ、多くのことを知って、不思議と心は穏やかだった。ああ、そうか。と、心のわだかまりが幾分ほどかれたような気がした。
「怒り狂わないんだな」
 師が意外そうに言った。
「話が終わると同時に、殴りかかってくるかと思った」
 聞いて、少年は長い溜息をついた。それから師の方を見上げて、言う。
「いくつか質問があります。……まず、今の破壊者は、このことを知っているんですか?」
 尋ねられると、師は唸った。
「わからないな。俺は過去の記憶だから、俺の本体がここに残していった分の記憶しか語ることは出来ない」
「なら、破壊者が時計の壊れた欠片を探していることについては?」
 それを聞いて、師は逆に驚いた様子だった。
「集める? 何故。時計は壊れたんだろう?」
「わかりません。そもそも……一つ気になっていることがあって。あの時計は、本当に壊れているんでしょうか、先生」
「どういうことだ」
「破壊者は確かに、時計の秒針を砕いて去った。だけど、秒針だけなんです。そして僕の集めた秒針の欠片は……」
 少年は腰に提げていた剣を引き抜き、師に手渡した。
「剣になったんです。破壊者も同じような剣を持っていたから、あれもおそらく秒針の欠片で出来ているのだと思う」
 その剣を受け取って、師はしばらく、考え込むようにそれをじっと見つめていた。そうしてぽつりと、一言。
「時計は壊れていない……」
 静かな声だった。
「恐らくそいつは、何らかの理由で時計を壊し損なった。あるいは、壊すことが出来なかった。だからこうして秒針の剣を作って、時計自身の力で時計を壊そうとしているんじゃないか?」
「だけど、剣は作ったんじゃありません。勝手にそうなったんです」
「はじめから?」
 頷きかけて、少年ははっとした。
 そうだ、初めから剣の形をしていたんじゃない。あの日偶然出会った幼い兄弟の行方を捜していて、そこで破壊者に遭遇し――
「破壊者に対する敵意で、針の欠片は剣になった……」
 
「最近のことについては、大して力になれなかったな」
 師には似合わぬ言葉だった。少年はそれを聞いて、くすくすと笑う。
 少年の背には、扉があった。現世へ戻るための扉だ。ここを抜ければ、もう師の幻影にも会うこともないだろう。
「だけど先生、どうして昔……生きている間に、教えてくれなかったんですか?」
 聞くと、師は苦笑する。
「殴られるのが嫌だったからさ」
「真面目に答えてください」
 少年は睨め付けた。師は口の端を釣り上げると、気障に少年へ自分の背を向ける。
「正直、お前がここまでやるとは思わなかったのさ」
 彼は言った。
「時計が壊れれば、時計を守る使命からは解放される。時が無くなった世界でなら、お前のように老いない存在だって不思議ではなくなるだろう。そうなれば、何も知らないお前はまた、外の世界で生きていくことが出来る」
「――だけど、もし僕が時計のことを知りたがったら、その時は真実を告げようと考えた」
「その通り。そしてもし戦う気があるのなら、と、俺は成長する種をもお前に残した」
 そう言って師は振り返り、少年の腕に身につけられた腕輪へ視線をやった。
「成長する、種……。そうだ、これは一体」
「それでおまえは、これからどうするつもりだ?」
 少年の言葉を遮って、師はそう尋ねる。その瞳はまっすぐに少年へと向けられていた。
「僕は……」
 これから一体どうするか。それは少年にとって、何より大きな問題だ。もしも師の意志を継ぐのなら、これ以上時計の針を探す旅などしなくて良い。いずれ破壊者がやってくるのを待って、こちらの剣を渡してやればいいのだ。そうすれば、彼は剣を完成させて、今度こそ時計を壊しに向かうだろう。
 それとも、初めの考え通りに時計を直し、今まで通りに生きていくか。
 この二通りだろうか? 自分がこれから、進んでいける道というのは。
 そう考えた時、ふと、少年の脳裏を師の言葉が過ぎった。
 ――もし戦う気があるのなら。
 戦う? 一体誰と。
 少年ははっとした。師の方を見ると、彼は満足そうに笑う。しかしその姿は、だんだんと薄れつつある。
「先生、成長する種っていうのは、もしかして……!」
 少年は言った。だが、視界には光が溢れて師の姿を見つけることが出来ない。
 扉の開く音がして、世界が真っ白になった。
 
 ほう、ほう、と、どこかで鳥の鳴く声が聞こえる。
 外はもう夜になっていた。――真っ暗で、遠い昔に崩れ去った町の姿を、今夜も月が照らし出している。

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