旅の歯車


068 : はるかな地

 彼女も始めはきちがい男の言った事、あるいはきっと彼の故郷での迷信なのだと笑っていたが、それから数か月が経つまでにはやはり今回のことには何か、空恐ろしい事実が見え隠れしていることに気付いたようだった。
 まず始めに、俺は何かを食べようという意思を失った。これは気の病かとも思ったが、本当に食べる必要が無くなったのだと気付くまでに時間はかからなかった。そのことがわかってからはただただ自覚の下り階段だったな。俺が触る砂時計は塞いだように止まる、負った傷は一日で治る。――なんの自覚かだって? 勿論、自分はとんでもないものに憑かれてしまったんだ、っていう得体の知れない事実に対しての自覚さ。
 
 しかし俺は、そのことを町の者の誰一人にも打ち明けなかった。言えば俺も彼女も、さっさと町から追い出されただろう。まあ実際、町の奴らの事を考えるならそうするべきだったんだろうけど。そのことも、後で話すとしよう。
 それはそうと……ある日俺が遅れて家に帰ると、彼女が玄関に蹲って待っていた。
「お帰りなさい」
「どうした、そんなところで……一体何があった?」
 彼女はただ震えて俺の手を掴んだだけで、何も答えなかった。
「落ち着くんだ。時間なら沢山あるんだから……」
「本当にあるのかしら?」
「どうしてそんなことを聞くんだ」
「だって……」
 彼女の泣きぬれた顔は、今でも思い出す事ができる。
「不安なの、毎日毎日。朝あなたを送り出したら、その後もう二度と帰ってこないんじゃないかって。あなたはあの気違い男の霊に連れて行かれてしまって、そして……」
「俺は帰って来るよ」
「だけど今日は遅れたわ。私は他国の出だからあの集会所に入る事ができない。この一連を全て打ち明けられるような、心許せる知人もいない――私、私はどうしたらいいの」
 ……俺には何も言えなかった。
 
 代表騎士の任期が終わった。俺の上の空な治政は人気があったらしい。翌年も俺に続けるように言う者もいたが、俺はそれを断った。
「帰ったよ」
 家に帰ると、そこには誰もいなかった。今日でお役目が終わると聞いてあんなに喜んでいた彼女は一体どうしたのだろう。俺が部屋に入ると、聞き慣れない声がした。
 ――遅いと思ったら、まだこんなところで人間の真似ごとを続けている……
 ぞっと何かが体の中を突き抜けていくかのような声だった。言葉はわかるが、人の声ではない。俺は辺りを見回したが、そこには誰もいなかった。
 ――行くべき所へ行きなさい。
 声は言う。
「お前は、一体……」
 ――おまえは守り人を殺してしまった。おまえの仕事は自ら学ばねばならぬ。愚か者よ、しかしおまえは行かねばならぬ。おまえは選ばれた。古き時計を守ること、世界の時を司ること。
 そこまで聞いて、俺は拳を握りしめた。恐れはもはやなく、ただただ怒りがこみ上げてきたのだ。行かねばならないだって? 何故俺が。守り人だかなんだかいう男を殺したからといって何故、こんな得体の知れない者に指図されなくてはならないのだ。戦で人を殺すなど、何もおかしな事ではない。どうして……
 ――人を殺めたことでお前が守り人になるのではない。私が他でもないおまえを選んだのだ。おまえは次代の守り人になるべき星の下に生まれたから、あの者を殺すことが出来た。物事の順番さえ理解すれば、ただそれだけの話さ。
 心を読んだかのような声に、俺は心臓を鷲づかみにされたかのようになった。
「だけど俺は、俺はこの町で幸せなんだ。なのにどうして……」
 言いはしたが流石に俺も、そのころには逃れられない何かについて悟り始めていたように思う。そう、もう逃れられないのだ。……何から? そう、なんだろうか。世界? 運命? それとも時計?
 ――おまえは行かなくてはならない。おまえのいるべき場所へ。
 その声は洪水のように俺の頭へ流れ込んできた。
 
 女が帰ってきたとき俺は椅子に腰掛けて、呆けたようにどこか遠くの一転をにらみつけていた。
「美味しいお肉をいただいたの。今日の夕飯はそれにしましょう、ごちそうよ。ねえ。どうしたの? ……嬉しいでしょう?」
 終わりの方の声はわずかにかすれて、どちらかと言えばもう懇願のようにも聞こえた。女の勘はいつだって鋭い。それはまるで俺の表情から、今あったことを全て察してしまったかのような話しぶりだった。
 俺は無理矢理に笑みを作って、やっとの事でこう告げる。
「丘へ行かないか? この時期は風に吹かれると気持ちがいいから」
 
「ねえ、私たちずっと一緒にいられるのかしら?」
 丘に登るなり、彼女はそう訪ねた。俺は薄く笑って、丘の向こうに沈む夕日を眺めたが、何とも言い返せなかった。
「どうしていつものように、抱きしめてくれないの?」
 それでも、女の方へは振り返らない。
「ねえ、一体何があったの?」
 俺はようやく振り返り、女の髪を撫でると、呟いた。その声は予想以上のかすれ声で、俺はまるで、自分の体が自分のものではないかのような錯覚を感じたものだった。
「……俺は、選ばれた」
 聞いて彼女は顔をさっと青くして、震えるように俺の手を取った。
「時計の、守り人……」
「そう、だから……もうおまえとは、いられない」
 女はぐっと奥歯をかみしめて、俺を睨むと、言った。
「逃げましょう、今すぐに」
「だめだ、どうせ追いつかれる」
「でも……どうしろと言うの? あなたが連れて行かれるのを、黙って見ていろとでも?」
「いや。守り人に選ばれた者に近しい人間は、この世界を取り巻く大きな力に殺される。おまえは逃げるんだ。それも、今すぐに」
 女は弾かれたように俺の手を振り払って、涙のにじんだ瞳を向けた。
「そんなことがどうして出来ると思う? あなたはどうして、そんなことが言えるの?」
「でも行かなくちゃならない。俺もそう。俺たちのこれからは、全て俺たちの手の届かないところで決まってしまったんだ……」
 
 夜になった。
 俺は馬に女を乗せ、荷をくくるともう一度丘へ登った。
「本当にお別れなのね」
 俺はやはり答えなかった。
「ねえ、でもきっと私達、また会えるわ」
 丘を越え、月を背に歩く。目の前には自分たち自身の影が黒々と伸び広がっていた。
「西の町へ行くのね。……いいわ、いつだって私の旅の出発点はあの町だもの」
 そうこうしているうちに、俺たち二人は瓦礫に埋もれた町へとたどり着いた。俺は馬を下りて手綱を女に渡すと、自分はわずかな水だけを持って、自分の町を発ってから初めて口を開いた。
「今日の夕飯も美味かった。……今までに食べたこともないようなごちそうだったよ」
 言った俺は、彼女の顔を正視できなかった。彼女が声なく泣いていることには気づいているのに、自分には何も出来ない。目のやり場に困った俺は、そっと彼女を抱きしめた。彼女の体温が解る、泣いているのが解る、だけど、すすり泣く顔は見えない。それは俺にとって大きな救いだった。
 ひとしきり泣いて、その後彼女はこういった。
「あなたが『守り人』になるなら、私は『破壊者』になるわ」
「何、馬鹿なことを」
「私は本気よ。世界に文化を殺す権利があるというのなら、文化に世界を殺す権利だってあるはずだもの」
 その瞳は本物だった。
「馬鹿なことを言うな。幸せにと父親にも言われたろう」
「あなたが一人時計の前に座っているときに、私だけが幸せになれると思うの? 大間違いだわ」
 目を真っ赤にした一人の女はひらりと馬にまたがって、駆け出すとある程度行ったところで振り返った。
「私達、また会うわよ。西の町のまじない娘は予言する。私達、必ずまた会うわ!」
 
 それから、もう何年も後の事だ。
 自力で守り人の仕事をマスターした俺は、ある日自分の暮らしていた町に赴いた。別に何か用事があったわけではなくて、ただその辺りを歩き回っているうちに、近くを通ったから、というだけだった。
 町へ帰った俺は、変わり果てた町の様子に驚き立ちつくしたものだった。俺が町を出てから三十年程の年月が経っていた。だけど、ちょっと信じられるか? 建物の屋根はひしゃげ、人は骸を晒し、俺がいた頃と同じ青空の下でその町は既に滅んでいたなんて。
 俺が唖然として立っていると、不意にどこかから声がした。
「あなたの近しい人、を探すのに手間取って、町自体を滅ぼしてしまったようよ」
 それもまら、信じられない事だった。何って、その声に聞き覚えがあったのだ。
「あなたが去ってすぐの事だったみたい。私が二十年以上前に来た時も、すでにこんな様子だったもの。もっと生々しかったけれどね」
 俺は恐る恐る振り返る。何かを本気で恐れることなど、かつてその町を去って以来だったのではなかろうか。
 信じられなかった。振り返った俺の前に立っていたのは、紛れもなくあの時と変わらぬ彼女の姿だった。――そう、ただの人間であるはずの彼女が、三十年前から変わらぬ姿で現れたのだ。

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