旅の歯車


060 : 結界

 二人が町を少し離れた森をあるいていると、姫神子が心配そうに振り返った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。ただ…君があんまり獣道に慣れているようなんで、少し驚いて…」
 実際、今歩いている道などもはや獣道ですらない。確かに姫神子は動きやすそうな細身のズボンに長袖の簡素なシャツといったものを身に付けてはいるが、ここまで草木の茂った道を歩くのは普通、困難だろう。
「私、これでも旅の経験がありますし。それに……この森は、私の家族のようなものですから」
 姫神子が曖昧に笑った。その笑顔を見た瞬間、少年は過去、彼女のきりりとした顔に刻まれてきたのだろう様々な表情を垣間見た気がした。
「ところで君は……どうして過去の遺物のことを?」
 姫神子は静かに首を横に振る。
「先ほどはあんな事を言いましたが、私もそんなに詳しいわけではありません。むしろ、ほとんど何も知らないと言った方がいいでしょう。けれど……、ここを進むと、いずれ川に突き当たります。私がそこで『遺産』を見つけたのはつい先日の事です。あれを見ていたらいつの間にか頭の中に言葉が満ちて来た。……言葉という表現がだめなら、記憶、と言い換えても間違いはありません。遺産の記憶……その遺産が栄えた時代の事、滅びた時の事、それが何かを訴えているように思えて何度も何度もその記憶を見るうちに、私は唐突に理解しました。この世界でこうして話し、火を起こし田を耕す生き物は私たちが初めてではない、今までに何度も何度もそうして栄えては滅び、栄えては消えていった文化があったのだと……。そして今は……あなたの後ろに、運命の針が見える」
 姫神子がそういって少年を一瞥するのを、少年は目を伏せてやり過ごした。とてもではないが、今はあの強い瞳を直視することなどできない。
「あんな塔のてっぺんで生きてきたせいなのか、それともこんな力を持っているからあの塔に住まなくてはならない運命に陥ったのかはわからないけれど、私にはものの内面的な何かが見えるのです。あなたは運命を背負っている。それがあなた自身のものなのか、この世界のものなのかはまだわからない」
 神子は、世界、とはっきり告げた。
 ――そのうち、姫神子が言ったように二人は川に突き当たった。澄んだ綺麗な川で、上流のものであるらしく川幅はそう深くない。あたりには大きな岩がごろごろと置かれている。姫神子は川の中を覗きこんで、少年を手招きした。
「これです。この、水の中で光っている小さなナイフ」
 少年もそれを覗きこむ。ゆたった水の中に沈んでいたのは、鞘も柄もが黒光りする短剣だった。
 少年が驚いてそれを見ていると、様子に気付いた姫神子がふと笑って、「あなたの物のようですね」という。そうして恐る恐るそれを川からすくい上げると、少年に手渡した。
 少年がそれを受けとると、短剣は一度淡く光って空にとけた。無くなってしまったのではなく、少年の剣に合わさったのだ。
「この剣も、遺産……」
 今更ながら改めて実感した事実に、少年は呟いた。この剣は大時計の秒針。けれど、その時計も世界の始まりからあった物ではない。
 恐らくは、この世界にとって初めての文化の遺産。
 その時ふと、少年は聖杯とその守り人の事、海賊の島の洞窟とその守り人の事をそれぞれ思い出していた。守り守られる存在。そうだ、自分とこの時計も同じ事なのだ。
「ですがその遺産は……頑なに心を閉ざしてしまったようですね」
 姫神子が言う。
「短剣であった頃は、見ているだけで色々なことを教えてくれたのに……その剣に同化した瞬間、急に静かになってしまった」
「……僕の、せいだよ」
「何故?」
「何故かはわからないけど、そんな気がしてならないんだ」
 聞いて、神子はほほ笑んだ。
「もしそう思うのなら、まずは自分から心を開いてご覧なさい。そうすればきっと、遺産の側も。その子は優しい子です。きっとあなたに答えてくれる。それに、あなたは誰よりその時計の近くにいるもの」
 少年ははっとして奥歯をかみ締めた。
「まだ間に合うだろうか」
「間に合います」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって昔のあなたにそっくりだもの」
 笑いを含みながらそう答えたのは、今まで少年の近くでおとなしくしていたヒバリだった。
「頑なで、意固地で、無口なの。そっくりだわ。でもあなたは、ここまで変わったもの」
 姫神子は始めこそ不思議な顔をしていたが、そのうちふとヒバリに笑いかけた。少年を守るように飛び、慰めるように鳴くのを聞いて、少年とヒバリの関係を察したのだろう。
「その剣の発しているのは、今はまだ壁のようかもしれません。他を寄せ付けない鉄壁の結界。だけどきっと、あなたがいずれ、その剣の真の力を発揮させられるようになる時が来る。私は先ほど、あなたの後ろに運命の針が見えると言いましたね。あれは間違いではありません。だけど……その針は、決してあなたを傷つけるためのものではないでしょう」
 姫神子は笑い、それから岩場を選んで川の向こう岸に立ち、少年達に手を振った。
「世界の変動の事が聞きたいと言ったけど、あれはやっぱりやめておきます。あなたはまだ多くを知らないようだし。だけどいつか全てがわかったら、もういちどこの町へいらしてください。そうして色々と、教えてくださいね」
 少年は躊躇いながらも、首を縦に振る。姫神子はその答えに満足したようだ。
「ところで、その先には一体何が?」
「私の兄の墓です。兄の遺産……そして私がこうして守っている遺産はとても温かいの。だから私は、こうして何度も通っていくんですよ」
 姫神子はそう言い残して去っていく。取り残された少年は、剣の柄に手をかけながら、大時計の前で暮らしていた頃の事を思い出していた。
「僕の方から、心を開く……」
 聖杯の守り人は聖杯の事を、塔の守り人は塔の事をよく知っている様子だった。それなのに自分が時計の事を知らないのは、何も教わらなかったからだとずっと思っていた。
 ――まずは自分から、心を開いてご覧なさい――
 少年は柄をぐっと握りしめて、肩を震わせた。震えの理由は、本人にもわからなかった。
「今、本当に必要なのは………」
 少年がつぶやくのを見て、ヒバリは優しくその肩に降り立った。

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