旅の歯車


057 : 凍った森

 人の声の届かぬような森の奥で、一人の男――先代時計の守り人――が佇んでいた。
「時のない森……」
 呟いたその人の腕は、深い色の血に濡らされている。
「――大時計の無くなった後の世界」
 時から開放された森、風の吹き込まない森、葉のさざめく音の聞こえない、何も進まない森。――けれど何をも殺さない森。
「私はここで生き延びたの。貴方のために」
 言ったのは、一人の女だった。
「ここで待った。ここで力を得た。不思議ね。ここにいるといつの間にか、過去の文化のことが、誰かに聞いたかのように解ってくるの」
 守り人はそれを聞いて、かつての恋人の事を振り返った。
「私は貴方と一緒にいたかった。貴方と一緒に生きていきたい。ねえ、もう気づいているんでしょう? あの時計さえ壊せば、私と貴方は」
 守り人はかぶりを振った。そうして自嘲的な笑みを浮かべて、自分の血ぬれた腕を見下ろす。
「しかし、このざまだ。そんな事はまさか、出来るまい」
 それを聞いて女は笑う。
「私にまかせてくれればいいわ」
「どうするつもりだ?」
「見ていてちょうだい。――私が上手くやってみせる」

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