旅の歯車


047 : 踊る妖精

 少年は、真っ白な野原に一人、佇んでいた。
 地面が真っ白だからといって、別に雪が降り積もっているわけではない。いや、どちらかと言えば、真っ白という表現の仕方に問題があるのだろう。少年には自分が野原に立っているのだ、という自覚はあったのだが、如何せん足下の野原だと思われる地面は雲のように危うげな霧に包まれていて、見えないのである。
 白い霧に覆われた地面。だから真っ白な野原。けれどそれ以上のことはわからない。いつの間にやら、迷い込んでしまったのだ。
 少年の周りには、ヒバリも、詩人もいない。少年は目的地もなくしばらく歩き回って、それからふと、遠くで動いている何かを見つけた。
 その『何か』は、玩具の人間のような姿をしていた。雰囲気だけで言うなら、皆子供である。声を聞くと、聞き覚えのあるものが混ざっていた。
 塔の中で聞こえた二つの笑い声。恐らく彼らは、あの塔にいた妖精なのだ。
 見慣れない場所に困り果てていた少年は、妖精達に話しかけてみることにした。
「ごめん、聞きたいことがあるんだけど」
 少年の声を聞くと、そこで四、五人はね回っていた妖精達はぴたりと動きを止め、飛び上がってあちらこちらへと散ってしまった。少年が困ったように額を掻いていると、いつの間にやら二人の妖精が、野生の獣でも見るかのように少年の足下までやってきていた。
「あなた、もしかして洞窟に入ってきた守り人?」
「そう。君は塔にいた妖精だよね?」
 言って、少年が友好の証のつもりで手を差し出すと、妖精は再び驚いて退いた。
「私の姿が、み、見えるの?」
「うん。君の友達も見えるよ?」
 少しずつ寄ってきていた他の妖精達が、一斉に身を凍らせたのがわかる。これには逆に、少年の方が驚いてしまった。
「駄目! 見えちゃ嫌よ! あたし達、誰かに見えちゃいけないの!」
「今までは、塔の守り人様だって私たちのこと、見えたことはなかったのに!」
「もしかすると、あの詩人に話しかけたのがまずかったんじゃない?」
「あたし達、今度こそ消されちゃうの? 殺されちゃうの? あの時みたいに!」
 少年は呆気にとられて様子を見ていたが、脅えながらこちらを見上げる妖精達の視線には、ほとほと困り果ててしまった。出来る限り脅えさせないように、落ち着いて話さなくては。少年は呼吸を整えて、そっと言った。
「驚かせたなら、ごめん。でも僕、何も知らないんだ。話を聞かせてくれない……」
「いや! 来ないでーっ!」
「鬼! 悪魔! 化けて出てやるんだからー!」
 少年は思わず手を引っ込めて、目を瞬かせた。しかし理由もわからないのにここまで嫌われてしまったのでは、少年の側ももう意地である。何が何でも言い分を聞かせようじゃないかと意気込むと、少年は逃げる妖精を片っ端から捕獲しはじめた。結局五人全員を少年の前に座らせるまでに、そう時間はかからなかった。
「その剣であたし達を殺すのね……。いいわ、一度は死んだ命だもの。でも絶対に後悔させてやるわ。覚悟なさいよ」
「殺すって……。だから、僕はそんなことしないよ」
 少年は溜息混じりにそういって、腰に帯びた剣を鞘ごと引き抜くと、それを地面に放り投げた。妖精達は驚いてそれぞれに何かを口走ったが、五人も集まると、流石に何を言ったのかはわからない。妖精達はそれでもしばらくの間は少年の事をじろじろと見回していたが、どうやら、他にこれといった武器を持っているわけではなさそうだと判断したようだ。ようやくおとなしくなって、少年の周りで遊び始める。
「まったく、驚かさないでよ。だけどあたし達を殺しに来たんじゃないなら、どうしてこんなところに?」
 言われて、少年は首を横に振る。さっぱり見当がつかないのだから、そうするより他にないだろう。
「どうしてここにいるのかは、僕にもよくわからないんだ。それより、君たちこそ殺すとか、殺されるとか、一体何のこと?」
「守り人なのに知らないの?」
「うん。僕はどうも、他の守り人に比べると若いらしい」
 「へえ、そうなんだ」と、妖精達がそれほど興味も無さそうに相槌を打つ。少年が引っ張られたマントを元に戻していると、今度は膝の裏からタックルをかけられた。少年がよろけるのを見て妖精達は笑っていたが、ふと真面目になって、こう尋ねた。
「そういえば聞いていないわ。あなた、守り人は守り人でも、一体何の守り人なの? 眠らずの森? 石牢の聖杯? それとも、永劫の王冠かしら?」
「そんなに沢山、あるんだ」
「本当はもっとある。だって、世界の記憶だもの。私たち、塔の守り人様にそう教わったわ」
 それを聞いて少年は、思わず考え込んでしまった。あの大時計のこと、『世界の心』のこと、他の多くの遺物のこと。自分の師は、何も教えてくれはしなかった。
 時計のことは知っていると思っていた、あの頃が懐かしい。時計の整備で、初めて何も文句をつけられなかった時は誇らしかった。力を継いだ時には悲しさこそあったものの、自分の持った責任に、わくわくとさえしたものだったのに。
「僕は、時計の守り人。……こんなふうに名乗る資格があるのかと聞かれたら、それはわからないけど」
 聞いて、妖精達はぱっと顔を見合わせる。その表情は先ほどとは違い、どちらかというと歓喜のそれに見えたので、少年は少しばかり安心した。
「時計の守り人!」
「時計の守り人がついに来たんだわ! 私達、約束を果たせる!」
「ねえ、でもどうしてそんなふうに言うの? 資格も何も、時計の守り人はあなた一人でしょう?」
 少年はしばし逡巡したが、困ったように笑って答えた。
「どうしてって……僕は、時計を守れなかったから」
 今度は不思議そうに、妖精達が再度顔を見合わせる。
「時計が壊れたのは知ってたわ。でも……」
「でも、あなた自身が壊したのだと思ってた」
 聞いて、少年は驚いた。驚いたが、不意に洞窟の中で見た幻影のことを思い出し、それを振り払うかのように体を震わせた。
「守り人が遺物を壊すなんて、そんな馬鹿なこと、あるもんか!」
「ごめんなさい、ごめんなさい! だって私たち、あの人ならそうするだろうって思ったんだもの!」
「あの人ならそう教えていてもおかしくないって、そう思ったんだもの!」
 突然の怒鳴り声に妖精達は縮み上がって、それぞれに体を寄せあっている。その必死な弁解に、少年は思わず奥歯を噛みしめた。いつの間にやら自分の身を包んでいた怒りを押しやって、少年は大きく息を吸う。
「……あの人、っていうのは?」
「もう、怒っていない? 私達のこと、殺さない?」
「怒ってないよ。だから、言って」
 妖精達が顔を見合わせて、どう答えるべきかと悩んでいるらしい様子が見て取れた。少年は歯がゆさを覚えたが、妖精達の答えを聞いて、自分の耳を疑った。
「あのね、あなたの前の、時計の守り人のことよ! あの人ならって、私達そう思ったの!」
 少年ははっとして、息を呑む。先代の守り人が? 一体、どういう経緯で。
「先生……? 君たち、先生にあったことがあるの?」
「あるわ。私たち、頼まれたの」
「頼まれたの。……そうよ! きっと、だから私たちのことが見えるんだわ!」
「あの人には見えなかったのに?」
「だって、他に理由がないでしょう?」
 少年は頭を抱え込みたい心境に陥った。この島へ来てからは、何から何まで唐突だ。それでいて、過去に何があったのかを自分は全く知らないのだ。
「あたし達、あなたの『先生』に頼まれたの! 秘密なのよ。誰にも秘密なの。塔の守り人様にも内緒だから、絶対に言っちゃ駄目。あの人がそう言っていたもの」
「そう。いつか時計が壊れて、次の時計の守り人がここへやってきたら、物を渡してほしいって! でも、絶対に他の人には内緒なのよ!」
(よりにもよってあの先生が、何だか知らないけど、人に頼み事をした? しかもそれを貰うのが、僕だって?)
 正直なところ、少年の知る限りではあり得ない話だ。少年は余計に驚いて口をつぐんだが、妖精達はお構いなしだ。先ほどまでの脅えようは、一体どこへ行ってしまったのか、今では活き活きした表情で、何かを相談し合っている。
「少し待ってね。今、呼ぶわ」
「呼ぶの。私たちが呼ぶのよ。そうしたらあれは、すぐにここまでやってくる」
 言って妖精達は互いに手をつなぎ、円を作る。取り残された少年は、やっとの事でこう尋ねた。
「君たちは、一体何者なの?」
「あたし達は……」
 彼らはにこりと笑った。
「前の、前の、もっと前の文化が発達したとき、この世界に住んでいたのよ」
「塔の守り人様と同じ。でも私たちは守り人じゃないから、本当はもっと前、文化が壊されたときにいなくなるはずだったの」
「でも、あなたの『先生』が助けてくれた。命をくれた」
 少年は余計に耳を疑った。
「だから私達、あなたを助けるわ」
 妖精達は踊り出した。それは美しい踊りで、少年がそれに見とれていると、不意に暖かい光が辺りを包んだ。

:: Thor All Rights Reserved. ::