旅の歯車


044 : 優しい人形

――ねえ見て、守り人よ。
――どうする? 歓迎するべきかしら。
 
 暗闇の中から、声がする。
 
――それは、私たちの一存では決められないわよ。やっぱりおうかがいをたてなくちゃ。
――そうね。でも大丈夫よ。彼、きっと優しいわ。
――私たちの声が聞こえるみたい。さっきからきょろきょろしてる。
――それはそうよ、彼も守り人だもの。あ、こっちを見たわ……
 
 岩壁に手をつき、洞窟の中を少しずつ下りながら、少年は暗がりを左右に見渡した。それから後に続く詩人に対し、こう尋ねる。
「ねえ、今声がしなかった?」
「やめてくれよ。こんなところで幽霊まで出たんじゃ、もうどうなる事やら……」
「違うよ、幽霊とかじゃなくて」
 扉の先には、無限に続くのではとさえ思えるような階段が続いていた。明らかに人の手が加えられているが、それでもやはり、その場所がもう長い間忘れ去られ、誰にも使われることのなかった空間であることはわかる。どこかに地上へ通じる穴が幾らかあるようで、真っ暗ではないものの、松明の火が尽きれば身動きをとるのは難しいだろう。それでも少年は淡々と歩き続け、時たま、詩人を振り返る。
「……なんて言えばいいんだろう、もっと違う声だよ。優しい……ちょっと不思議な感じの」
 言った途端、今度は高い笑い声が聞こえた。少年は訝しんでもう一度辺りを見回したが、誰かがいる気配はない。詩人やヒバリにも聞こえていないようなので、少年はふと思いついて、松明を握る手に力を込める。
 人にも、鳥にも聞こえない声。――恐らくは、自分のような特異の者にしか聞こえない声なのだ。
 
――つまらないわ、つまらない。せっかくのお客様だもの。早く話を聞きたいわ。
――けれどやっぱり、おうかがいが先よ。
――いやよ。ねえ、歌を歌ってちょうだい。さっき歌っていたでしょう?
 
 少年達がいくらも進まないうちに、下の方で何かの崩れる音がした。どうやら、階段の一部が崩れた音らしい。埃が派手に舞っている。
 
――何やってるの、駄目じゃない。
――だって、守り人ではない方の子にも話を聞いてもらいたかったのよ。そうしたら、力の使い方を間違って……
 
「……気をつけて進んだ方が良さそうだな」
 いまだに舞っている埃を見下ろしながら、詩人が言った。
「まあ、当然か。この先は随分と長い間、誰も入ってないはずだから。踏み固められてないんだな」
 少年は頷きながら、じっと耳を澄まして辺りに気を配っていた。先ほどから度々聞こえる、あの声。恐らくは自分と近いところにいる存在の、時間を持たない何かの声だ。それが何故、こんなところにいるのだろう。
 少年はその理由を、本能的に察していた。
(過去の遺物の守り人――。きっと、ここにもいるんだ)
 心の中で改めて確信して、少年はふと、眼下に続く階段を見下ろした。長く、どこまでも続いていくような階段。少年は自分の心臓が、強く脈打つのを感じていた。
 とても長い階段を、昔、登ったことがある。ただしあの階段は薄明かりが射す清廉なもので、こんな風に埃が舞うこともなければ、湿った空気を嗅ぐこともなかったが。
 その景色を思い出すと同時に、頭の中で何かが割れる音が響いた。――いや、何か、ではない。聖杯だ。
 少年はその時、長く続く階段の先に過去を見ていた。針の欠片を探し始めて間もない頃、初めて出会った自分以外の守り人。しかし彼女は、少年の目の前で割れた聖杯と共に消え去ってしまった。
 今でもよく覚えている。あの男が、聖杯を壊したのだ。
 そう、あの時少年の目の前に立ちつくしていた男は……
「おい、どうした?」
 少年がはっとして声の方へ視線を向けると、隣に並んだ詩人が、不思議そうな顔をしてこちらを覗き込んでいた。どうやら少年は、足を止めてうつろに階段を眺めていたらしい。
「ううん、何でもないんだ。ちょっとぼうっとして……」
 ヒバリが少年の肩にちょこんと鎮座して、やはり心配そうに見ている。少年は微笑んだ。
「心配ないよ」
 しかし更に階段を下る間も、少年は先ほど脳裏によぎったイメージのことを考え続けていた。そうしてその度に、ちらりとヒバリのことを、詩人のことを見る。
 もしかすると、彼らをとんでもないところへ連れてきてしまったのではないだろうか。そんな考えが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。この先にいるのは恐らく、何かの守り人だろう。少年は会わなくてはいけない。けれど、少なくともヒバリや詩人には関係のないことなのだ。
 もしもここで、何かあったら。
 少年がそう考えるのも、不思議なことではなかった。次にいつ会うともしれない破壊者のことも一つの不安材料になっていたし、何より、先ほどよぎった映像があまりに妙だったのだ。
 何故って、あの時目の前に立っていたのは――
 再び、何かが崩れる音がした。
「上だ!」
 詩人が叫ぶ。少年が言われたとおりに上を見上げると、すぐ頭上の岩場が崩れ、その瓦礫がまっすぐに落ちてくる。
「どうしてこんなに度々……うわっ!」
 少年は慌ててよけたが、埃が視界を遮って何も見えない。
 詩人の叫び声がして、次に今まで少年達が立っていた足場の崩れる音がした。埃の向こうに、詩人のシルエットだけが写る。
 危ない!
 少年はそう叫んで手を伸ばした。いや、伸ばしたつもりだったのだ。
 少年はその場に立ちつくしたままだった。その顔に表情はなく、伸ばそうとした手も動かない。それはけっして恐怖に動けなくなったわけではなく、少年は思わず自問した。
 僕は一体何をしてるんだ?
 凍ったような表情、微動だにしない体、これではまるで……
(まるで、あいつみたいじゃないか……)
 再び頭の中で、聖杯の割れる音がする。
 嫌ナ音ガ聞コエテ、少年ハマタ元ノ部屋ヘ戻ッテイタ。目ノ前ニハ美シイ金ノ杯ガ割レテ、散ラバッテイル。部屋ノ温度ハイツノ間ニカ戻ッテイテ、ガラス越シニ向コウノ部屋ヲ覗イテミルト、三ツノ真ッ赤ナ死体ガ横タワッテイタ。少年ハ思ワズ、目ヲ背ケル。
「――そいつらにはお前を足止めするように言ってあったんだが、やりすぎたな。あのお姫様がいなければ、どうなったことか」
 少年ガ顔ヲ青クシテ振リ返ルト、相変ワラズノ不敵ナ笑ミヲ浮カベ、破壊者ガソコニ立ッテイル。
「その、杯……。その杯も、お前が、その手で……!」
 破壊者ハ何モ答エズニ、クスリト笑ウ。ソノ時、ソコニイタノハ。
 ソコニイタノハ、今ノ自分トソックリナ顔ヲシタ一人ノ少年。
 
 ――何かが崩れるのとは違う音が鳴って、塔の天井が急に光に包まれる。
 少年はそれを見て、身震いした。しかしだからと言って、抗う気は微塵もない。むしろ好都合だと思ったほどだった。少年には、自分の脳裏に浮かんだおかしな実感を、受け止める勇気がなかったからだ。
 
 少年がぼうっとする意識の中で目を開けたのは、それからすぐのことだった。
 静かで、とても暖かい部屋。この洞窟に住む守り人は、恐らく近くにいるだろう。少年はふらつく頭を手で押さえながら、やっとの事で立ち上がる。
「突然の訪問を、許してください。誰かいませんか?」
「誰かいませんか、だなんて」
 くすりと、上品に笑う声がする。少年は辺りを見回して、壁のない部屋に巡らされたヴェールの向こうに、動く人の姿があることに気づいた。
「不思議なことをおっしゃるのね。誰がいるのかなど、もうとっくにご存じのことと思いましたのに」
 ヴェールの向こうからやって来たのは、淡い色のドレスを纏った貴婦人だった。彼女はヴェールと同質の布をふわりと肩からかぶり、穏やかな笑みを浮かべて少年を見下ろしている。
「初めまして。今日は妖精達がご迷惑をおかけしてしまったみたいで、ごめんなさいね。あなたのお友達は……」
「そうだ、瓦礫が降ってきて――!」
「大丈夫。きちんと手当てをして、洞窟の外へお送りしましたわ。今頃は、草むら辺りで眠っているはずです」
 少年は安堵の息を吐いて、それから用意された椅子へ腰掛けた。かといって、気を緩ませるわけにはいかない。少年はぴんと背筋を伸ばし、足を揃え、貴婦人に向かって緊張気味に話しかける。
「僕がここへ来たのは、偶然です。あなたがここにいること……いいえ、つい最近までは、他にも過去の遺物の守り人が居ることすら知らなくて。――僕は、守り人のことを何も知りません。旅をしているとよく思います。でも、僕は知らなきゃならない。それだけはわかるんです。だから教えてください。守り人のこと、それに……時計や、聖杯や、あなたの守っている遺物が、一体どういうものなのかを」
 婦人は気品を持って頷いた。どうやら少年の問いを、前もって察していたようでもあった。
「良いでしょう。お話しします。――わたくしたちの生きるこの世界には昔、更に多くの生き物が住み、発達した文化がありました。その文化が興る前には更に古い文化が、その昔には、その分古い文化が。けれど一つの文化が生まれ、それが急激に変化し始めたところでいつも、その文化は終わります。ある大きな力によって殺されてしまうのです」
 貴婦人はそこで一旦言葉を句切り、静かに優しく目を伏せる。
「その力とは、『世界の心』。世界は変化を好みません。だから一度進化してしまった世界を壊して、はじめから作り直すのです」
 少年はよく分からなくなって、少し顔を赤らめた。婦人はその様子を見てふんわりと微笑むと、「ごめんなさいね」と謝罪した。
「こんなことを説明したことがなかったものだから、難しくて。……例えば今の世界では、人間という生き物が主導権を持って文化を発達させているでしょう? 川の水を操って畑に流し込んだり、牛に車を引かせて、それを耕したり。人は工夫をする。その工夫が今言ったようなものや、……そうね、パンを焼いたりする程度なら、『世界の心』は沈黙のままに見守るのです。だけど工夫は文化を変え、文化は世界を変えてしまう。行き過ぎた工夫は必ず世界を変えるのです。良い方にも、悪い方にも。けれど世界は、変化を好まない。だから『世界の心』は、生まれた文化が世界を変えるほどの力を持ってしまったときに、その文化を消し去ってしまうの。世界が変わってしまう前にね。けれど世界にも……思い出があるのです」
「……思い出?」
「そう、思い出。『世界の心』にとって発展しすぎた文化は不要な産物だけれど、どの文化もこの世界で生まれたもの。この世界の子供のようなものなのです。だから世界は一つの文化を消し去ってしまうときに、その中で一つだけを思い出にと残しておくのです。……初めて世界が消し去られたときには、大きな古い時計だけが残ったわ」
 少年はそれを聞いて、思わず息を呑んだ。鼓動が唐突に、強く鳴り始めるのがわかる。
「時計……」
 少年が呟くと、貴婦人は優雅に微笑んでみせた。
「そう、あなたの守っていた時計。はじめの文化が時計を作り出す前には、この世界に時間というものはなかったの。はじめの文化を殺すとき、『世界の心』は、その文化が生み出した時間の概念を思い出として残した。この世界の主軸となる時間を刻むためにね。それからもいろんな文化が興って、消えていった。そのたびに世界は何かを残す。ある時は信仰を示す杯を、ある時は戦争を示す古き矢を、ある時は、善悪を示す天秤を。そうして……その残された思い出を守るのが、過去の遺物を守るのが、わたくしたち守り人なのです」
 貴婦人が話を終えてしばらくの間、少年は言葉を発することが出来なかった。喉に何かが詰まったかのように、声を出すことが出来なかったのだ。
 それでもどうにか息を吸って、少年はじっと貴婦人の目を見つめた。まだ、尋ねなければならないことがある。ここで歩みを止めることは、出来ない。
 一度大きく深呼吸をすると、いくらか気持ちが落ち着いた。少年は相手の目を見据えたまま、一言一言確実に、言葉をつくっていく。
「この世界も、消されてしまうんですか? ――過去の遺物が壊れるという、変化が起きたから」
 二人の間に、緊張が走る。貴婦人が少年の問いを見透かしていたように、少年にも、貴婦人の答えがわかっていた。
「……ええ、その通りです」
 貴婦人は静かに頷いた。少年はそれをきいても、微動だにしなかった。
「この世界は、既に狂い始めてしまいましたもの……。けれど悲しまないでくださいね、時計の守り人。世界の変化は大変なことだけれど、文化の変化は些細なことなのですから。世界さえ変わらなければ、命は消えてもまた生まれ変わる。あなたはまだ若いようだけれど、そうね、一度文化の変化を見てみれば、きっと私の言ったことがわかるようになるわ」
 婦人はそう言って微笑んだ。それは優しくて、包み込むようで、
 まるで作られた人形かのような微笑みだった。

:: Thor All Rights Reserved. ::