旅の歯車


037 : 世界

「先生! どこにも火を起こすところがないんですけど、料理はどこでするんですか?」
 尋ねられて、男はゆっくりと声のした方へ向いた。
(そうだ、今はこの時計の前に、俺以外にも一人人間がいるんだったか)
 改めてそれを確認して、彼は短く溜息をついた。
 大時計の館、過去の遺物を守るために作られた、大きく狭い社。ここにいるのは一人の男と、まだ右も左も知ることのない一人の少年だけである。この少年のことは、彼が選んで連れ帰ってきたのだ。少年が、まだ何も知らない無垢な子供であったから。目の前で親を、友人を殺されて、自暴自棄になった「可哀想ナ幼イ子供」であったから。
 初めてここへ来た頃には浮かない顔で部屋に閉じこもっていた少年も、最近ではわずかながら笑顔を見せるようになった。
 男は扱いの難しい子供を嫌っていたから、少年の立ち直りが比較的早かったのは、実のところ幸運であった。後三日、沈んだままの生活を送っていたなら、男は本気で少年のことを見知らぬ場所へ置き去りにする気でいたのだ。
「馬鹿か? 何も食べる必要がないんだから、料理なんて必要ないだろう」
「ええ! じゃあ、ホントになにも食べないの?」
 男が気怠そうに答えると、少年は心底驚いたかのように、そう答えた。男は少年の頭を拳で軽くこづいて、念押しする。
「『たべないの』じゃなく、『食べないんですか』だ」
「あ、で、でも……」
「そんなに何か食べたいんなら、庭に成ってる実でも食べてろ」
 男がそう言い捨てると、少年は早速庭を覗きに走っていった。
(初めて会った時とは、うって変わった表情だな)
 初めて会った時の少年の顔は蒼白で、しかし瞳は静かな怒りに染まっていた。強い意志の光。そして、臆病者の瞳の色。だから一目でわかったのだ。この少年こそが、次代の守り人にふさわしい人間なのだと。
「先生! 赤い実と青い実が成ってましたけど、どっちなら食べられるんですか?」
「どちらでもどうぞお好きな方を」
 言われて、少年は再び駆けていく。その後ろ姿を見送りながら、男は悲笑した。
 こうして世界は続いていくのか。こうして続く世界に何の意味があるのか。
 今はまだ、わからない。そして答えを出す必要もまた、ない。

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