旅の歯車


029 : ペルソナ

 破壊者の少年がまず習ったことといえば、仮面を被ることだった。
「おはようございます、若君」
「きょうもいいお日和ですね。湖の方にきれいなお花が咲いていましたよ」
 表情もなくそんなような事を言うメイド達に、それでも彼は微笑んで返す。
「それは……母さんに摘んであげたら、喜ぶでしょうね」
 この屋敷には表情というものがない。彼が「母」と呼んだ女にはごくたまに、本当に少ないことだが、笑みが浮かぶことはある。微笑み、というものではない。恐ろしいまでに色の良い唇の端を、少しだけ上げてみた笑み。そういう類の微笑みだけだが。
 だから、彼にもわざわざ愛想を振りまく必要などはなかったのだが、彼はそれでも微笑んだ。楽しかったわけでも嬉しかったわけでもない。……恐ろしかったのだ。そうしなければ、すぐに表情へ恐れがにじみ出てしまいそうで、ぞっとした。
 ――押しつぶされてはならない。この空気に負けてはならない。この空気にとけ込むんだ、この空気を、自分の物にするんだ。
 彼は大きく息を吸った。廊下でのことだ。
 この屋敷の廊下は片側の側面が部屋に、もう片側が庭へと面している。庭へと面した方には壁がなく、そのまま外の景色とつながっていた。とはいえ、この谷の町には元々陽光などは差し込まない。いつも薄暗い景色の中で、顔のないものと暮らす。
 ……あの非道な叔父夫婦の家にいた間は、周りのことなど見ている暇もなかった。あの時の空も、こんな色をしていたのだろうか。それとももっと青い、絵に描かれるような青空が……
 
 これしか、生きる道はないと思った。あの時は必死だった。けれど。
 けれど本当に、これしかなかったのだろうか?

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