旅の歯車


023 : 絶対者

 彼がこの谷へ来てまず思ったことは、どうやら、この目の前にいる女が谷の町の中でも絶対の権力を持っているらしいということだった。
 女に手を引かれてこの谷へやってきたのが一月前。そこで彼に宛われたのは十分すぎるほどの部屋と衣服で、食事は毎回人並み以上のものが出されたし、大体彼女の屋敷自体が町の中では異彩を放つほどに立派に構えている。彼女がどんな仕事に就いているのか、などということは知らされていなかったが、それが真っ当なものでないだろう事くらいは想像がついた。
 ……だがしかし。彼にとっては、そのどれもが取るに足らないどうでもいいことのように思われた。
 彼女は自分を人間として見てくれる。息子のように接してくれる。それだけで十分だ。他に、何も要らない。
 夕飯の席はいつも二人だった。食器を下げにメイドが来ることもあったが、その程度だ。彼は唐突に尋ねた。
「どうして俺に……こんなに親切にしてくれるんだ? それに、破壊者っていうのは一体……」
「坊や、それはあなたが私にとって無二の人だから。親が息子を大切に思う。それと同じよ。……破壊者のことは……そうね、いずれ話していかなくてはね」
 彼女はいつも、彼のことを「坊や」と呼んだ。名前で呼んでくれ、と一度言いかけたことがあったが、よく考えればその名前も、あの叔父夫婦が皮肉を込めて彼に課したものだ。それならば、まだ「坊や」の方が良い。
「ただ一つ言えるのは……あなたが力を持ったとき、あなたはこの世界の絶対者になれる。どんな人間にも、時間にだってあなたを揺り動かすことは出来ない。あなたが世界の全て。あなたの全てが、この世界で絶対になる」
 女がその話をするときは、いつも浮き足立って見えた。子供のようにはしゃいで、それを語るのだ。だからこそ、彼はなんとしてでもこの「母親」の夢を叶えてやりたいと、強く心に思っていた。
「けど、その時あなたはどうなるんだ?」
 彼が尋ねると、女は笑った。
「あなたが思うとおりになるわ。まだ、他に聞きたいことがある?」

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