旅の歯車


016 : 長い夜

 それは、長い長い夜のことだった。
 少年はその日、いつもと同じように町に宿を取って泊まっていた。しかし人々の寝静まった静かな夜にどうも寝付くことができず、たまには、と、夜の散歩に出かけることにする。……考えたいことがたくさんあった。だが、考えてもさっぱりわからないこともたくさんあった。そういう時には夜の涼しい空気の中で頭を冷やすのが一番だ、と、昔師が言っていた。
 この町には酒場もなく、夜の景色は閑散としている。少年が少し歩くと、二つの黄色い瞳がこちらを見ていることに気づいた。細身の黒猫だ。
 少年が近寄ろうとすると、それは音もなく逃げてしまう。そして、数歩歩いた頃にまた、その猫がじっとこちらをうかがっているのを見つける。何度かそれを繰り返した。
 少年は暫く猫を意識しないよう心がけたが、相変わらず猫の黄色い相貌がちらちらと視界の端に移る。しまいに少年は、その猫を尾けてみることにした。
 猫を尾けるのは簡単だった。少年が猫の後を追い始めると、猫はそれを察したように少年にも通れる人間の道を行き、歩調を合わせるように何度か少年の方を振り返った。そうしていくうちに、少年は町でいくつかの発見をしていた。
 猫は、町をわける小さな川にかかる橋を通った。川の水が月や星の光を受けて、静かに流れていた。
 猫は、町の小高い丘に登った。丘から見下ろす町の景色は玩具のようで、しかし、肩を寄せあうように並んだ家々は暖かさを感じさせた。
 猫は、ガラス張りのショウウィンドウのある店の前を通った。自分たちの姿がガラスに映る。……少年は、猫の後ろについて歩く自分の姿が滑稽に見えて、少し笑った。
 そうして最後に猫は、町の中心にやってきた。そこには、大きな時計塔が棒立ちに立っていた。文字盤や鐘は薄明かりに照らされて静かに佇んでいて、しかしこんなにも静かな空気の中に、時計の内部に隠されているはずの歯車の音は聞こえなかったし、それが見えるはずもなかった。ただ時計塔は静かに佇んでいて、しかし見る者にはその大きな存在感を感じさせている。
 時計が動くためには、たくさんの歯車が要る。時間を知るためには文字盤と、それから三本の針が必要だ。
 自分という存在は歯車だ。少年は思った。そして今までに見た太陽の光、星の瞬き、人々の歓声、木々のざわめき、一つ一つがまた、あの時計の歯車だ。
 そして、自分の守ってきた時計には文字盤が。そして二本の針がある。
 最後の一本はまだ自分の腕の中でその力を失っているとしても、あの時計はまだ壊れてなどいない。信じよう、信じて進もう。
 長い夜に、少年はそう、心に誓った。

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