旅の歯車


014 : 聖杯

 その土地で代々崇められてきた聖杯に、ある日真っ黒な石のようなものが飛び込み、それからは何人たりともその聖杯に触れられなくなってしまった。そんな話をある日、少年は風の便りに耳にした。
 普通なら、何の話なのかわからずに聞き流してしまうような噂話だ。しかし少年はそれを聞いてふと、自分の身につけた一太刀の真っ黒な剣に手を伸ばす。
 この剣は、あの日壊れた時計の秒針の欠片でできている。見つけた欠片がこの剣に一体化していくので、剣も始めの頃よりは徐々に成長を続けてきた。
 少年が秒針の欠片を捜し始めてから、もう季節が半周するほどの時間が経っていた。
 これまでに見つけた欠片は、未だ針全体の三分の一にも満ちていないだろう。しかしそれでも、少年は欠片を探し続けなくてはならなかった。少年の責任感が、彼をそう駆り立てるのだ。
 聖杯について詳しいことを尋ねてみると、その話がどうやら時計の秒針が折れた頃からのことであるらしいと知れた。
(秒針のことと、何か関係があるかも知れない)
 少年は、聖杯のある地を訪ねてみることにした。
 
 その町へ着いて、少年はまず驚いた。宗教観の濃い土地だとは聞いていたが、いわば町そのものが宗教といった感じだ。人々の服装はただ白い布を巻き付けただけのものだったが、装飾品には目を見張るものがある。様々な形の宗教味を帯びた飾り。そのほとんどが本物かまでは知れないものの、金色に光っていた。
 少年は暫くのんびりと町の大通りを歩いていたが、そのうち紺色のマントを身につけた自分が町の中で異彩を放っていることに気づいて、人に道を聞くと神殿へ急いだ。
 神殿に入ると、中は人々がごった返している。少年が追い返されることを覚悟で話しかけてみると、意外にも一人の神官が時間を空けてくれた。
「それでは、あの黒い物はあなたの所有物だと?」
 少年が時計のことには触れないようなんとか説明を終えると、神官はそう訪ねた。少年は慌てて首を振って訂正する。
「そうかもしれない、というだけの話です。けれどもしそうなら、是非僕の手に戻したいと思っています。突然やってきて、勝手な話だと思われるかも知れませんが……」
 この町での聖杯の扱いは、神に対するそれと同等、いや、それ以上だという話を少年は耳にしていた。渋い顔をされるか、あるいは耳も貸さずに放り出されるかと覚悟していたので、神官が笑顔で頷いたのには心底驚いてしまった。
「こちらにしても、私たちの聖杯をあのままにしておくわけにはいきませんからね。何事もまず、試してみるにこしたことはないでしょう。……いえ、失礼。お気を悪くされたようでしたら申し訳ありません。ただ、聖杯のことはどうか、よろしくお願いいたします」
 事があまりにすんなり進んでいくので、逆に少年が驚いてしまった。
 その日は例の神官に宿まで宛われ、少年は何か釈然としないまま翌日再び神殿へと赴いた。神職に就いている人間が、施しをくれたというだけの話だ。感謝こそすれ、疑問を抱くようなものではないかもしれない。
 しかし少年には、この町へ来るまでに聞いた噂話がひっかかっていたのだ。
 この町の者は、神のためなら……神から授かった聖杯のためならばなんでもする、というのがもっぱらの定評だ。ここを訪ねると言って、一体何人の旅人に反対されたことだろう。
(親切な人ばかりじゃないか)
 少年が神殿の広間へ赴くと、三人の神官が立っていた。昨日会った神官は、いない。
「あなたですか。……思っていたよりもずっとお若いようだ。だがしかし、それで見くびろうとは思いませぬ。どうか聖杯を頼みますよ」
 少年は頷くと、彼らの後についていった。広間を真っ直ぐに横切ると、まず大きくて立派な扉がある。その中は、天井の高く広々とした祈りの間だ。週に一度の祈りの日には、この町中の人々が集まって神に祈りを捧げるのだという。
 更にしばらく歩いていくと、やや小さな扉に行き当たった。扉の向こうは階段で、この部屋の天井部分に造られた聖杯の間へと繋がっているらしい。
「本来ならば、この先に一般の民を通すことはありません。このことはけっして他言しないでいただきたい」
 言われて、少年は頷いた。
 階段はいつまでも続くようだった。一段一段の高さも並ではないのに、その長さときたら頭痛がしてくるほどである。あの部屋の天井部、と聞いた時点である程度覚悟はしていたが、登り切った頃には四人の中でも肉体的には一番若いはずだった少年だけが、肩で息をする始末だった。
「それでは、ここからはお一人でお進み下さい。既にご存じかも知れませんが、あの黒い石の出現以来、私どもはこの先へ進むことが出来なくなってしまいましたから。しかしあなたがあの石の所有者ならば、この先へも進めましょう」
 頷いて、少年は一歩先へ踏み出した。思ったほどではない。聖杯まではまるで水の中を歩いているかのような不思議な感覚がしたが、難なく辿りつくことが出来た。しかしその直後、背後でした音に驚き振り返る。
 扉が閉じられている。閉じこめられたのだ。
「どうして――」
 呟いたのと、どちらが早かっただろう。急に眩しい光が射して、少年は手で顔を覆った。天井部分にひかれていた、カーテンのようなものが外されたのだ。同時に、部屋の中の空気が一変する。少年は扉へ駆け寄ったが、一向に開く気配はない。そうしている間にも、室内の温度は上昇し続ける。
「なぜ、こんな事をするんだ!」
 少年の言葉は、うまく音にならなかった。何かがおかしい。老いることのない体でも、暑さにはやられることがあるのだろうか。そんなことを悠長に考えていると、そのうち意識が朦朧としてきた。
(僕は一体、どうなるんだろう)
 心の中で、そう呟く。ふと、体が大きく傾いだ。
 どこかから声がする。返事は出来ない。折角思い出したと思ったのに、また話し方を忘れてしまったのだろうか。
 ――目の前が、真っ暗になった。
 
 少年が目を覚ますと、そこはひんやりと落ち着いた空間だった。少年はゆっくりと起きあがり、軽く頭を振って、ようやく目の前座る少女の存在に気づいた。少女は遠慮がちにこちらをうかがって、にこりと微笑みかけた。
「初めまして、時計の守り人」
 聞いて、少年は驚いた。何故大時計のことを知っているのだろう。それに、ここは一体どこなのだ?
「初めまして。……あの、あなたは……? それに、ここは一体……」
 そこは、先ほどまでいた部屋とは全く違っていた。静かで、落ち着いていて、まるで大時計のあったあの場所のようだ。
「危ないところでしたね。ここは、人々が聖杯と呼ぶあの金の置物の内部です。あなたは、私と同じ。過去の遺物の守り人でしょう。よくぞご無事でいらっしゃいました」
「聖杯の、中? それじゃああなたは」
 少女は、一度小さく頷いた。
「……血のつながりはありません。けれどあなたは私と同じ。過去の遺物の守り人だわ」
 理由のわからない安堵の心に、少年も微笑んだ。自分と同じように過去の遺物を守る守り人。話に聞いたことはあったが、こうして出会えたのは初めてだ。
「助けてもらって、ありがとう。僕はここに、針の欠片を取りに来たんです。知りませんか?」
「ここにあるわ。これでしょう?」
 少女はにこやかにそう言って、黒い欠片を取り出した。間違いない。秒針の欠片だ。
「わかっています。けれど、もう良いのよ」
「もう良いって、どういう事?」
「針の欠片を探しだしても、意味がないと言ったの。私の杯も同じ事。全てはあの針が折れた瞬間、意味を無くしてしまったわ」
「……え?」
「あの時計が狂わされたとき、この世界も壊れてしまった。今にも、壊れてしまった世界が姿を現すでしょう、全ては意味を無くしてしまったのだから。……こうして紡ぐ言葉さえも、もはやなんの意味も持ってはいない」
 聞いている間、やけに喉が渇いた。何故だろう、この部屋の温度も上がってきたのだろうか。
「僕が……」
 少年は、呟くように言った。
「僕が、時計を守れなかったから、だから……?」
「――あなたのせいではないの。形あるものはいつか消える。今までにも、いくつもの文明がこの地に消えていったのだもの。世界だって、いつかは消える運命にあった。……もう、意味のないことはおやめなさい。一度失われてしまった物はもう、二度と戻りはしないのだから」
 少年は息をのんだ。自分が時計を守れなかったばっかりに、あの男を止められなかったばっかりに。世界が壊れていくのを、黙ってみていろと言うのか?
「嘘だ……」
「真実なのです、時計の守り人。そして、これが世界の理でもあるの」
「――嘘だ!」
 堰を切ったように、少年は口早に話し始めた。
「もうどうにもならないだなんて、そんなことあるわけない! じゃあ僕はどうしてここにいるんだ、なんで僕は針のかけらを探しているんだ、なんのための旅なんだ! ――僕には」
 顔が耳まで真っ赤になって、目にうっすら涙が光った。
「僕にはもう何もないのに……帰る場所も、待つ人も。なのに、なのに居場所までなくなったら……」
 袖で目の辺りをぬぐうと、少女から顔を背けた。もう随分前から泣いたことなど無かったのに。師が死んだときにも、故郷が無くなったときにも、友人の死を目の当たりにしたときにも。それなのに……
「意味がないなんて言わないでくれ、やめろだなんて言わないでくれ。僕にはこれしかないんだ。信じるしか、信じて進むしかないんだ!」
 少女は立ち上がって、そっと少年の肩を抱いた。
「ごめんなさい……泣かないで」
「っ……。僕の方こそ……謝らなきゃならないのは僕なのに……」
 しばらくの間沈黙が続いて、その後不意に少女が立ち上がった。……部屋の中の空気が、変わる。
「……逃げてください。時計の守り人」
「え?」
「――彼が、来るのです」
 途端、もう何度も感じたことのあるあの痛みが胸を襲った。苦しい。……あの、感覚だ。
 少女が逃げろと促すのも聞かず、少年は黒光りする剣を前に構える。そこへやってきたのは、予想通りあの日時計の針を折ったあの男だった。
「やっぱりおまえか。……おまえは一体誰なんだ? どうして時計を壊したんだ。何が目的で、僕の前に姿を見せるんだ!」
 少年が言うと、男は笑った。
「俺がお前の前に姿を現す理由、か。愚問だな。俺とお前の目的が同じだから、必然的に顔を合わせる。それだけさ」
「目的が、同じ……?」
 少年は訝しんで聞き返す。
「……早く行って!」
 声を荒げて、顔を真っ青にした少女が言った。けれど少年は視線を奪われたまま、少女に答えることが出来なかった。追い出すように少年の背を叩く少女を見て、あの男が、破壊者が、にやりと深く昏い笑みを見せたからだ。
「きっとまだ、沢山の遺物がこの世界に残っています。あなたは行かなくては。あなたは会わなくては!」
「いけない……!」
 少年が庇うように、聖杯の守り人を振り返った瞬間のことだ。
 ぱりん、と何かの割れる乾いた音がして、ほんの一瞬、おかしな静寂が場を支配した。
 少女は苦しそうに自分の胸元を握りしめ、最後に、笑った。
「私も、信じるわ。信じて待っています。だから、行って!」
 
 嫌な音が聞こえて、少年はまた元の部屋へ戻っていた。
 目の前には美しい金の杯が割れて、散らばっている。部屋の温度はいつの間にか戻っていて、ガラス越しに向こうの部屋を覗いてみると、三つの真っ赤な死体が横たわっていた。少年は思わず、目を背ける。
「――そいつらにはお前を足止めするように言ってあったんだが、やりすぎたな。あのお姫様がいなければ、どうなったことか」
 少年が顔を青くして振り返ると、相変わらずの不敵な笑みを浮かべ、破壊者がそこに立っている。
「その、杯……。その杯も、お前が、その手で……!」
 破壊者は何も答えずに、くすりと笑う。
 少年は剣の柄を握り直して、一声吼えるとその男に突っ込んでいった。そうしてあっけなく、見えない力で跳ね返される。背を壁に強く打ち付けて、少年は噎せたような咳をした。
「バカだなぁ、折角あのお姫様がおまえを助けてやってくれというから、見逃してやろうと思ったのに。……まあ、今日は元々そういうつもりじゃなかったけどな」
 男の微笑みは、見ていて酷く冷たい。しかし目をそらすことも出来ずに、少年は息を殺してその様子を見ていた。
「宣戦布告をしに来ただけさ。おまえが針のかけらを探す限り、きっと何度でも俺達は顔を合わせる。それだけは……覚えておくといい」
 
 一人残されてしまった部屋でバラバラになった杯を見ながら、少年は時計を壊されたときと同じ、自分の無力さを感じていた。
「……なんで、僕を殺さないんだ……」
 金のかけらを一つ握ると、拳から血がしたたり落ちる。
「どうして僕を生かしておくんだ……!」

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