旅の歯車


012:砂漠の水

 一人の男がいる。男は朦朧とする意識の中で、なんとか町へたどり着いたところだった。
 町にはすでに夜の帳が降りている。男は乾いてかさかさになった唇で、なんとか声をひねり出した。
「水――」
 昼だろうと夜だろうと、どうでもいいのだ。男は地を這うように人のいない町を進み、ようやく井戸にたどり着くと、それをがむしゃらに飲み始めた。
 ああ、地獄から解放されたのだ。と、彼は思ったに違いない。
 
「災難でしたね」
 少年はその日、前の町で借り受けたラクダで砂漠を渡っていた。このラクダは手前の町と次に向かっている町との共有物で、料金さえ払えば借りたラクダでその間にある砂漠を渡ることが出来る。先の町で役所にラクダを渡しておけば、次に逆方向へ旅をする者がまた使う。わざわざラクダを返しに行く必要がないのが良い。
 その、町と町の丁度中間地点を通りかかった時のことだ。一人の男が砂漠にうずくまっているのを見つけ、少年はその男を助け起こした。
 相手は何かを訴えようと必死で口を動かしていたが、それは一向に音にならない。しかし場所と男の様子とで事情を察した少年は、ラクダに括り付けた荷から水を一杯グラスに注ぎ、男の口元へ持っていった。
 男は、乾いた瞳に涙を浮かべてそれを飲んだ。彼が話せるようになる頃には、日も暮れ始めていた。
「ああ、本当に。あいつがあんな事をするなんて……。死の淵を見ると、人間、変わってしまうんだな」
 男は自嘲気味にそう笑った。
 彼の話は、こうだ。彼は彼の相棒と二人で砂漠に乗りだしたところ、途中で砂嵐にまかれてしまったのだそうだ。食料もついには尽き、相棒は最後に残ったほんの少量の飲み水を盗んで消えてしまったのだという。
「……次に会ったとき、また仲を取り戻せると良いですね」
 少年が言うと、男は微笑んで頷いた。
「また会ったとき……か」
「はい。……そうだ、僕は明日からまた先を進みますが、一緒に行きませんか?」
 それには驚いたことに、男は首を横に振る。
「いや、気持ちは嬉しいが。……申し訳ないが、君に蓄えがあれば水を少し分けて貰えないだろうか。俺はもう少しこの辺りを見てから進もうと思う。あいつも……水を持っていたとはいえ、あれっぽっちの量じゃあどうなっているかわからないから。もしこの辺りで倒れているようなことがあれば、助けてやりたいんだ」
 聞いて少年は、微笑んで頷いた。
「けど、今度は水が尽きる前に砂漠を抜けてくださいね。次に通りかかる旅人が、どんな人かはわかりませんから」
 
 少年はラクダでの旅を続け、そのうちに次の町へとたどり着いた。
 しかし砂漠に面した町には、人の影がない。しばらく進んでみて、ようやくその理由を知ることができた。なんでも砂漠側にある井戸に毒が混じったとかで、住人達はみな、町の反対方向へと避難しているのだそうだ。山へ向かう道の方向に、大きな看板が立っている。
 少年は自分の体が何日か水を飲まなくても大丈夫だと知っていたから、かまわず辺りを見て回った。人のいない町というものは、実に寂しいものだ。
 少し行ったところに件の井戸を見つける。それから、そのすぐ近くで埋葬されないまま異臭を放っている、屍も。
 毒のためか臭いは強いが、その死体はまだ新しかった。恐らく死んだのは昨日か今朝かというところだろう。服装を見る限りは、旅人だ。手には水を入れていたらしい革袋を握っている。
 ひょっとしたら、彼が――
 少年は頭に浮かんだ考えをうち消して、すぐにその場所を後にした。

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