010 : 夢
――どこかで、僕を呼ぶ声がする。
目を覚ますと、そこは原っぱだった。風が吹いて、緑の草のいい匂いがする。少年はその場で伸びをして、辺りを見回した。遠くの方に、こちらへかけてくる影が見える。隣のテントの少女だ。少年を迎えに来たのだろう。
「またこんなところで油を売ってる!
まったくもう、酋長様がお待ちかねよ」
「お父さん?
……いいよ、もう少し。どうせまたいつもの話だもの。いい加減聞き飽きたよ」
少年が再び寝転がったのを見て、少女は憤慨して歩みより、少年の耳を思いっきり引っ張った。
「なに、馬鹿なことを言ってるの。あなたはじきに、この部族の頭になるのよ。わかってる?
……全く、あなたがそんな調子じゃ不安だわ」
聞いて、少年はふてくされた。
「僕だって、好きで酋長の息子に生まれたんじゃないや。誰かがなりたいならいつでも代わってあげるよ。……だって、わかる?
いつもいつも大人の中で意味のわからない会話を聞いて、みんなと一緒に馬の世話をしてやることもできない。友達だって君だけさ。だって僕より年上だったりするくせに、みんな僕に対して敬語を使うんだ。……そんなの、友達って言わないでしょ?」
少年が言うと、少女は「馬鹿ね」と首をすくめた。
「みんな、あなたのことはちゃんと友達だと思ってるわ。でもね、普段は大人がいるでしょ?
だから怒られるのが怖くて敬語を使うの」
「でも君は、そんなの使わない」
「だって、あたしは怒られたって怖くないもの」
「じゃあ僕も、怒られたって怖くないからお父さんの所へは行かない」
再び緑の上に丸まってしまった少年を見て、少女は苦笑するとその隣へ腰掛けた。
「なんだよ。そんなところで待ち伏せしたって、行かないぞ」
「そうじゃないわよ。あたしもたまには、サボりたくなっちゃうの」
二人で原っぱに転がって、仰向けになって目を閉じる。
「……お父さん達、最近ずっと怖い顔してるんだ。それで、何かあるとすぐに怒る。お母さんも何も言わない。みんな、凄く怖がってる。だから僕は、みんなを見るのが嫌だ」
少女は黙って頷くと、閉じていた瞳を開く。視界にいっぱいの空が広がっていた。
「うん、……知ってる。西の町の人たちが攻めてくるかも知れないんでしょう?
町に住んでる人たちがやってきたら、あたし達のテントも簡単に燃やされちゃうのかな……」
そうして、二人はしばらく沈黙した。悲嘆にくれていたわけではなかったが、その空気は寂しかった。
「ねえ、あのさ」
少年が唐突に言った。
「僕たちが大人になったら、結婚しようよ」
少女は聞いて、驚いたように立ち上がる。少年は気にせず続けた。
「僕、君のこと好きだよ。好きな人と結婚したら、ずっと一緒にいられるんだよね?
そうしたらもし、西の町の人たちがやってきたとしても、もしもテントが燃やされちゃっても、ずっと一緒にいられるよね?」
聞いて、少女は微笑んだ。
「片方が好きなだけじゃ駄目なのよ。私のお母さんが言ってたわ。あのね、結婚っていうのは、愛し合う人同士がするものなのよ」
「じゃあ、僕のこと嫌い?」
少女は地面に座り直して、笑みの色を更に強くした。
「ううん、――私も大好きよ」
それから二年が経って、ついに二つの民族間での闘いが始まった。
血で血を洗う醜い争い。技で言うなれば遊牧民族の側が多くを上回っていたものだったが、町の人間はなによりも、沢山の武器を持っていた。争いの結果――遊牧民族の酋長の首が赤く染まった野原に放り出されるまでに、一年とかからなかった。
しかし少年にとってはこの闘いの勝敗などどうでもいいことで、彼はその父親の首が飛んだ瞬間も、そうとは知らずに野原を駆けていた。
追っ手をなんとかやり過ごし、ただひたすらに野原を駆ける。そうしてそのうち一人の少女の亡骸を見つけて、そのまま立ちつくしてしまった。
少年はそうして、無力なままに自分の夢や希望が砕けてしまったことに気づいた。
「――ああ、こんなにも脆いものだったんだ」
少年が呟いたとき、その背後から声がした。
「おまえの仲間はほとんどが死んだぞ。そうでなければ町の人間の捕虜だ」
少年はゆっくりと振り返った。そこにいたのは、旅人の風情をした男だった。
「ここにいれば、おまえもそのうち捕虜にされる。捕虜にされた奴がどうなるかはわからない。しかしおまえは酋長の息子だから、多分殺されるだろうな。反抗しても同じだ。だからといっておまえのような子供が一人で逃げ出せば、時を待たずにのたれ死ぬ」
男は笑った。それを見た少年の胸に、怒りがこみ上げた。
「何が可笑しいんだ」
「いや、何も可笑しくなんてないさ」
男の顔はまだ笑っている。元来そういう顔立ちなのかも知れなかった。
「お前の道はとぎれてしまった。でも、どうだ。俺にはお前に作ってやれる道がある。お前に仕事を与えることが出来る。おまえを生かしてやることが出来るぞ。……お前の人生は一度終わった。なあ、それでも生きていたいか?」
少年は、迷わなかった。
爪が食い込むまでに拳を握って、睨み付けるように男を見て、それから静かに、頷いた。