旅の歯車


006 : 切れない絆

「何でそんなこと言うんだよう。……兄ちゃんの、ばかっ!」
 二人の子供の声が聞こえたのは、その町に入ってすぐの牧場でのことだった。
 喧嘩の原因はわからない。少年が丁度そこを通りかかったところで、そんな怒鳴り声が聞こえてきたのだ。
 少年が声の方へと視線をやると、恐らく「兄ちゃん」と呼ばれた側であろう子供が無言で俯いた。両者共に、目にうっすら涙を浮かべているのがわかる。
 少年に兄弟はいなかったが、そんな子供のやりとりが妙に懐かしく、結局は何歩も行かないうちに立ち止まってしまった。そんな少年を視界の隅にとらえ、「弟」が、彼に駆け寄ってくる。
「ねえ、ねえ、旅の人なの?」
 少年は笑顔で頷いた。
「うわぁ、すごいなぁ。一人なの? どこから来たの? ここまでは歩いてきたの? 馬はいないの?」
 「弟」が少年を質問責めにしている間、「兄」はほんの数分だけ物珍しそうに少年を見上げ、それから一人で、静かに彼らの家へと引き返していった。そんな様子はお構いなしに、「弟」はさらに言い募る。
「そうだ旅人さん、今日は僕らの家へ泊まりなよ。きっとお母さんも喜ぶよ。それに僕、旅人さんの話をたくさん聞きたいんだ! ねえ、いいよね?」
 少年が「お兄さんは?」と尋ねると、「弟」は頬を膨らませて言った。
「旅人さん、聞いてたのかぁ。いいんだ、兄ちゃんは。だって、僕が旅人になりたいって言ったら、すごく怒るんだもん」
「旅人が、嫌いなの?」
「うん……。僕の父さん、旅にでたきり帰ってこないから……だから兄ちゃんはあんなこと言う。わかってるけど、でもさ……」
 「弟」はそれ以上何も言わなかった。少年も何も聞かなかった。
 
 少年の忘れかけていた「家庭」はとても暖かかった。少年は薪割りなどの力仕事をいっさい引き受けたし、二人の兄弟やその母親とも色々な話をした。兄弟の「兄」はまだ少年に懐こうとはしなかったが、それでも段々と溝は埋まっていく。少年にはそれが嬉しくてならなかった。
 少年はその町へ辿り着くまでに見たことや聞いたことを、二人の兄弟に話してやった。時計の話こそしなかったが、少年がこれまでに見つけた「針」の欠片を見せたこともある。これを探しているんだよ、というと、「弟」は変なの、と率直な感想を言った。「兄」は何も言わなかったが、興味深そうに、じっとその欠片を見つめていた。
 ――事が起きたのは、少年が二人の兄弟に出会ってから三日目のことだ。
 少年が物干し台の修理から帰ってくると、二人の兄弟は彼らの部屋で大喧嘩をやらかしていた。
 お互い、顔は涙と鼻水でぐしょぐしょになっているし、顔や手は赤く腫れて、ひっかき傷までできている。ともかく、両者共に全力を尽くした戦いだったようだ。
 見つけた少年が部屋に入ると、「兄」は走って部屋を出ていった。残された「弟」は、少年の顔を見上げて、一言呟く。「だって、兄ちゃんが……」
 少年は「弟」に、「兄」が帰ってきたら必ず仲直りをするように約束をさせ、洗い物から帰ってきた彼らの母親と三人、「兄」の帰りを待っていた。そして結果、夕飯の時間になっても「兄」は帰ってこなかった。
 異変に気づいた頃に、まず、「弟」がしくしくと泣き始めた。自分のせいだと思ったのかもしれない。それから母親は、今までにこんな事はなかった、と、狼狽え始める。日も完全に落ちた中を探しに行くというので、少年は夜目なら自分の方が聞くからといいなだめ、結局「弟」は家で待機、母は近辺の家を回る、そして少年が、町の近くにある林の方を探しに行くことになった。
 「兄」の名前を呼びながら林を少し歩いたところで、少年は前にも感じたことのある、身を引き裂くような痛みを感じた。それが何なのか、忘れるはずがない、忘れたはずがなかった。
「……っ!」
 嫌な予感がして、少年は駆け出した。あの時と同じ痛みだ。時計の針を失った、あの時と同じ痛みだ――!
 しばらく駆けるといつの間にか、少年は林を越えた小さな山の麓まで来ていた。
 痛みは走るにつれて酷くなっている。けれど、確信があった。「兄」はきっとこの辺りにいるはずだ。目を凝らして辺りを窺うと、山の方に窪みがあった。中だ。
 窪みは意外と深かった。洞窟のような中を進んでいく間にも、酷い息切れがした。それが走ったせいなのか、それとも痛みに耐えきれずのことなのかはわからなかった。
(苦しい。――あの子は、無事だろうか)
 奥へ進んで暫くしたところで、少年はようやく「兄」の小さな背中を見つけることができた。そうだ、あの服。母親が作ってくれたのだと言って、今朝方嬉しそうに袖を通していたっけ。
 少年が声をかけると、「兄」は目を真っ赤にして振り返った。その腕に、大切そうに何かを抱いている。それが一体何なのかに、少年が気づいた瞬間だった。……洞窟の更に奥から、聞いたことのある声が聞こえてくる。
「やっぱりきたか、時計の守り人」
 頭を強く殴りつけられたかのように、少年ははっとしてその声を追った。そこに立っていたのはあの時、大時計の秒針を折った張本人だ。そして「兄」が持っていたのは、少年が今までに見たものの中でどれよりも大きい、針の欠片だった。
 何故。
 問いたい気持ちは山々だが、今はそれよりも先にやるべき事がある。少年は奥歯を噛みしめて、静かな声でこう言った。
「どうして、おまえがここに……」
 聞いて、相手はにぃっと笑う。何もかもが楽しくて、仕方がないといった笑み。少年は心の中で、叫んだ。「ふざけるな」と。
「覚えていてくれたみたいで嬉しいよ」
「忘れるものか。忘れて、たまるか! おまえは自分がやったことの重大さを、ちっともわかっちゃいない。今はまだ大した影響も出ていない。だけどこの状態だって、いつまで続いたものか……。おまえのせいだ。おまえがあの時計を壊したから!」
 言いたいことは山と有る。しかし少年は、そこで何とかとどまった。「兄」の方を見ると、彼はいつもと違う少年の様子に驚いている。――余計な事を言って、心配をさせるわけにはいかない。
「それなら、早く欠片を集めればいいじゃないか」
「それができたら苦労しない」
相手の笑みが、強くなる。
「いや、おまえはわかっているんだ。針が元に戻れば自分もまたあの孤独な場所へ帰らなくてはいけないことを。それにこうも考えた。自分の居場所は、あの密閉された空間だけに限らないんじゃないか」
 少年はかっとして、「兄」の持っていた大きなかけらを手に取ると、それを相手へ構えた。少年の手にしていたものは既に「針」ではなく、一太刀の黒光りする刃へと変わっている。
「おお怖い。ついに本性がでたな」
「黙れ」
「なぜ時計を壊すことが罪なんだ? あれさえなければ、人々は不死の体を手にするんだ。誰もが別れを知らない、素晴らしい世界になるんだよ?」
「黙れ」
「おまえだって、自由になるんだ。どうだい? もうあんなところで、一人孤独に生きずにすむ……」
「――…黙れ!」
 少年は太刀を振り下ろした。しかしそれに手応えはなく、相手はいつかもしたように、さっさとどこかへ消え去っていた。
 
 少年が「兄」を振り返ると、彼は消え入るかのような声で「ごめんなさい」と呟いた。
「旅人さんが捜してたかけら……大きいやつがここにあること、知ってたんだ。前に来たとき、見つけて……。だけど、捜し物が見つかったら、ずっと僕たちの家にいてくれるって思って。そしたら、父さんみたいにいなくなったりしないんじゃないかって……!」
 頬に涙が伝っていた。少年はまだ震えのおさまらないその体を、父親がするそれのように抱いてやった。
 ――少年は、二人の兄弟の兄を家へ送り返して、自分はそのまま旅の続きへ出ることにした。針の欠片はまだ足りない。ゆっくりしている暇などないのだ。ましてや、一家族の中にずっと留まっていたいだなどと、あまりに贅沢な話だった。
 ほんの少しの間、家の戸口で我が子、我が兄弟の無事を喜ぶ声を聞くと、少年は再び歩き始めた。
(あの家族の絆はきっと、この針の剣でも引き裂くことなどできないだろうな)
 だからこうして、背を向けることが出来るのだ。

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