蛙と象

【 第一話:ショウタとカエル 】

 おんぼろアパートの脇に生えたケヤキの枝が、壁を殴りつけている。外付けの古い階段も、軋んだ音を立てていた。しかし私はかまわない。そしてそれすら最高のBGMだとでも言うように、薄い絵本を手に、熱を込めてこう言った。
「『王子様。……王子様! ああ、いけません。相手は西の島国をも滅ぼした、強い、強い魔女なのです。王子様のお力では、あっという間に魔女の餌食になってしまいます!』……家臣達は皆、そう言ってその場へ泣き伏しました。『どうしても聞いてくださらないなら、どうか私たちもお連れ下さい。王子様をお守りするのに少しはお役に立ちましょう!』」
 ああ、我ながらなかなかの名演技ではないか。しかしそんなことを考えて、ふと顔を上げ、私は深々溜息をつく。――しまった。どんな名士の読み聞かせでも、これではちっとも意味がない。
「ちょっと、象太。口がだらしなく開いてるよ」
 言うと、相手ははっとした様子で傾いでいた首を持ち上げて、ぱちくりと二度程まばたきをする。そうして私の顔を覗きこむと、この唯一の観客は、目をこすりながらこう言った。
「カエル。今、ショウタは王子といっしょに戦ってたんだ」
「そう。それで、今にも負けそうなのね? ……眠気に」
 ソファにちょこんと座ったこの少年、――象太の首が、かくんと落ちる。頷いたのやら、今度こそ本当に眠ってしまったのだか、判断するに難い様子だ。
 全くもう。自分から本を指定して、私に読めと言ったくせに。しかし私が独り言のように、「戦いのシーンは大分前に終わったんだけど」と呟くと、象太は申し訳なさそうに何事かを短く呻いて、パタリとその場へ身を横たえた。
(このまま寝かせて、なるものか)
 私が即座にその腕を引っ張って立ち上がらせると、象太――五歳になったばかりのこの甥っ子は、不満そうに唸ってみせる。それでも私がこんな事をする理由は心得ているようで、文句だけはもらさない。
「ほら、ちゃんと立って。歯ぁ磨いてパジャマを着る。それさえしたら、ゆっくり寝かせてあげるから。……ああ。歯磨きが終わったら、ちゃんと磨けてるかどうか見せに来るんだよ。サツキ姉ちゃんから、見てやってって頼まれてるんだからね」
「はぁい」と、あくび混じりの生返事。そうしておぼつかない足取りで洗面所へ向かうのだが、案の定、その途中でふらついて、壁に頭をぶつけている。そんな象太を見ていると、思わず笑みがこぼれてしまった。
 西森楓、OL三年目の短い短い夏休み。二年間つきあった彼とも別れ、一人でグウタラ過ごすはずであったこの夏に象太が連れ込まれてから、今日でかれこれ三日になる。
「カエルゥ、ショウタの持ってきた歯みがき粉がなくなった」
「じゃ、明日買いに行かなきゃね。今日は私のを使いな。置いてあるでしょ? ブルーなんとかってやつ」
「いやだ。知ってるぞ。その歯みがき粉は、口の中がすーすーするんだ」
 洗面所からひょいと顔を出した象太へ、にやりと笑いかけてやる。
「あら。あんた、まだ『イチゴ味』とかそういうやつを使ってるの?」
 そうして「お子様ねぇ」と言葉を続けると、象太はたちまち顔を赤くして、さっと洗面所へ引っ込んでしまった。
 しまった、苛めすぎただろうか。しかしそうは思っても、やめてやる気は更々無い。二十近く歳の離れたこの甥っ子をからかって遊ぶのは、今の唯一の楽しみなのだ。
 そうしてにやにや笑いながら、絵本を棚へ片づける。そこには象太の持ってきた本達が、他にも幾らか突っ立っていた。
(昔は私の本棚にも、こんな本、たくさん置いてあったのになぁ)
 そんなことを考えながら、ぱらぱらと、他の絵本もめくってみる。ああ、懐かしい。これは私も、小さい頃によく読んでいた。イマドキな表紙のこちらの本には見覚えがないけれど、最近出回っているタイトルなのかしら。
 子供の頃は、母の読み聞かせる冒険譚を聞くのが大好きだった。自分で文字が読めるようになると、図書館へも足繁く通い、片っ端から好みの本を読み耽ったものだ。動物たちが人間のようにしゃべる世界、魔法のある色鮮やかな世界、それに危険と隣り合わせの、どきどきするような恋の物語。中でも特に私の心を捉えて放さなかったのは、『現実の世界に住む主人公が、突然異世界へ迷い込む』、そんな類のものであった。
 異世界の騎士に助力を請われて、あるいは自らの望みのために、見知らぬ土地へ踏み出す主人公達。羨ましくってたまらなかった。そして一方で、いつかは私もそんな物語の主人公になれるのだと、根拠もなくただ信じていた。
(もしできるなら、今からだって、そういう世界へ旅立ちたいけど)
 朝起きて、会社へ行って仕事する。やりがいなんて関係なく、ただ生きていくために、ただ生活するためだけに、毎日毎日、おんなじ事を繰り返す。……現実の世界なんて、つまらないことばかりだもの。私は思わず溜息をついた。
(だけど、流石にもう無理ね。そういう物語の主人公になれるのは、どんな話を読んだって、大抵は中学生や高校生までって相場が決まってるんだから)
 二十五にもなったOLが異世界を旅する物語なんて、そう滅多に出会えない。考えて、思わず苦笑した。ああ、悲しいかな。どうやら私は気づかぬうちに、そういう大冒険を夢見ていられる年齢制限すら、とっくに超えてしまったらしいのだ。いつの間に、こんなつまらぬ大人になどなってしまったのだろう。こんな、哀れな一般人に。
 ちらりと、洗面所へまた視線を戻す。すると渋い顔をした象太が、口をあんぐり開けて戻ってくるところであった。
「カエル。ちゃんと、あのブルーなんとかで歯磨きしたぞ」
「おお、偉い偉い。象太は大人だねぇ」
「やればできる人間なんだ。ショウタは」
 言って大きく胸を張る。だがやはり口内いっぱいに広がったミントの風味が気になるのか、あまり得意げな顔ではない。
(大人ぶったり、しなくていいのに)
 子供って、何故こうなのだろう。
 放っておいても時は経つ。子供は必ず大人になるのだ。それなのに子供はいつだって、大人になろうと躍起になる。
(大人になったら、もう二度と、子供には戻れないのよ)
――カエル。今、ショウタは王子といっしょに戦っていたんだ。
 つい先ほど、象太の言った何気ないその台詞が、不意に脳裏をよぎっていく。私は小さく微笑んだ。
 ああ。……このお子様が、羨ましい。
 
「楓ちゃん、お願いっ!」
 そう言って私の兄の嫁――つまり私の義姉にあたる『サツキ姉ちゃん』が、このおんぼろアパートを訪れたのは、夏休み初日のことだった。
 まどろみから目覚めたばかりの私が、サツキ姉ちゃんの剣幕に目を丸くした事は言うに及ばず。ちょうどゴミ出しにきていたアパートの大家が、ぎょっとした顔をして私たちを眺めていた事も記憶に新しい。大きなリュックを象太に担がせ、自身もスーツケースを脇に控えたこの時のサツキ姉ちゃんの雰囲気は、なにやら尋常ではなく感じられたのだ。それも、サツキ姉ちゃんはその腹に象太の妹あるいは弟を宿した、現在妊娠八ヶ月。身重の兄嫁が唐突にやってきて、私なんぞに頭を下げるのを見たら、それは驚いて然るべきである。
「お願い、お願い! 一週間だけ、象太の面倒見てやって!」
「ちょっ……、何、どうしたの。象太を置いて、どこ行く気?」
 聞いても、兄嫁は答えない。なんだか背筋がぞっとした。
「よ、余程の緊急事態なの? まさかタツマ兄が事故で怪我とか、赴任先で正体不明のウィルスにやられたとか……。いや、もしやタツマ兄の不倫でも発覚して、離婚の危機にでも陥ってるとか? それじゃ、これって『実家に帰らせていただきます』コースなの? 待って、落ち着いて、だったらあたしが説得するから、タツマ兄と話してみてよ。駄目だよ、サツキ姉ちゃん身重なんだし、事を急くのはよくないというか、えーと、えーと、……」
 口にしながら、段々自分でもわけがわからなくなってきた。しかしサツキ姉ちゃんは頭を下げたまま、一向に何も言おうとしない。しかし慌てた私がもう一声かけようとしたところで、
「カエル、落ち着け」
 サツキ姉ちゃんが小さく吹き出す声とともに、やけに冷静な声音で、象太が言うのが聞こえてきた。
「落ち着けって、だってそういう事になったら、一番大変な目に遭うのはあんたなのよ!」
「そうじゃないぞ。いいか、カエル。ショウタの母さんは、――ただ、遊びに行くだけだ」
 サツキ姉ちゃんが悪戯っぽく顔を上げて、私のことを見あげている。そうして不意に表情を崩すと、「正解を言うのが早すぎるわ」と、自分の息子に言って聞かせた。
「あ……、遊びに行くって、一体どこへ。それも、一週間って」
「それがね、聞いてよ楓ちゃん! 辰馬さんが明日から、ちょっとまとまったお休みをとれるんですって。ほら、私ってまだ、辰馬さんの赴任先に行ったことがなかったでしょ? 私もちょうど産休に入ったし、単身赴任で寂しがっているだろう辰馬さんを慰めてあげるためにも、この立派に成長したお腹を見せるためにも、ちょっとロスまで行っちゃおうかなぁって思って」
「でも自分の分しか飛行機のチケットがとれなかったからって、自分一人で行くつもりなんだ。ショウタの母さんは」
 どこか拗ねた様子で、象太がそんなことを言う。するとサツキ姉ちゃんは困った顔で、「ごめんねぇ」と悪気なく、私達に向けて笑って見せた。
「辰馬さんったら、いつも唐突なんだもの。今回だって昨日突然電話があって、『明後日から急に休みが取れたんだけど』なんて言うのよ? だけどうちの実家は象太を預けるには遠いし、お義母様もフラメンコの発表会が近くて忙しいみたいだし。ね、ね、二人とも。絶対お土産買ってくるから。一週間だけ二人で仲良くしてて? ね?」

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