ヨミゴト


【前編】

 御鏡みかがみ様を、覗き込んではいけないよ。
 幼いカナタにそう言い聞かせたのは、銀色しろがねいろの祖母であった。銀色、というのは、村の人達がカナタの祖母に付けた字である。数年前に亡くなったカナタの祖母は、元々他郷の女であったのだという。山の向こう、どこか他所の土地からこの村に嫁いできたのだという祖母は、まだ若い娘の頃、それは美しい銀色の髪を持っていたそうだ。だからそういう字がついたのだと、そんな話を、カナタは父から聞いた事があった。
「父ちゃんの髪は生憎真っ黒だが、おまえの髪も、村の奴等と比べると明るい色だろう。おまえはきっと、婆ちゃんの血を濃く貰ったんだな」
 父はよくそう言って、大きな手でカナタの髪を、わしわしと強く撫でてくれる。カナタもそうして、髪を撫でられるのが好きだった。
 はやくに母を亡くしたカナタにとって、祖母は母親代わりでもあった。カナタの記憶に残る彼女はすっかり年老いており、他の老人達と変わらぬ真っ白な髪を持つのみであったけれど、それでも村の人々が、畏敬の念と親しみとを込めて、彼女を「銀色」と呼んでいたのを知っていた。だからカナタはその祖母に似た髪の色が嬉しかったし、それを誇りに思ってもいたのだ。
 少し事情が変わってきたのは、ここ最近のことである。
(──あいつら、見てろよ。いつか目に物見せてやる)
 肩を怒らせてずんずんと、山道を一人、歩いている。
 学舎帰りのカナタはボロの鞄を背に担ぎ、弁当を入れていた袋をぶんぶんと振り回しながら、その道をただ歩いていた。暑い夏の日のことであった。長い年月を経て人々に踏み固められた道は細く、荷馬車がやっと通れるほどの幅しかない。ぽつりぽつりと馬糞の落ちているのを避け、蒸すような緑の香りを嗅ぎ、しつこい夏虫の声を聞き流す。そうしてふと道を逸れ、──カナタは道とも言えぬ、獣道を歩き出した。
「御鏡様を、覗き込んではいけないよ」
 幼い頃、祖母はカナタを膝に乗せ、よくそう言って微笑んだ。御鏡様というのは、カナタの村の奥にある、鏡面池のことである。濃い森の中にぽつりと存在するその池は清浄な地下水を湛え、水面には一つの波紋も浮かべない。まるで鏡のような池なのだ。カナタ達村人は、それを村の守り神として、長らく大切に守ってきた。年に一度、収穫の頃には、そこで小さな祭りも行う。けれど祖母は度々、幼いカナタを祭に連れ出すことを嫌がった。
「ばあちゃん、どうして? どうして俺は、御鏡様に近づいちゃいけないの?」
 一度だけ、祖母に問うたことがある。祖母はそれに答えたが、しかし幼かった当時のカナタは、そのほとんどを理解することが出来なかった。ただひとつ覚えているのは、祖母が寂しげに言った、この言葉のみである。
「おまえは、向こう側に近い子だから。御鏡様に取られてしまうかもしれないもの。おまえのような可愛い子が、遠くに行ってしまったら、婆ちゃんはきっと悲しくって、すぐにでも死んでしまうよ」
 その言葉があまりにか弱く、心細げなのを聞いて、カナタはひとまず納得した。理由は理解できなかったが、この優しい祖母を悲しませるくらいなら、素直に言うことを聞こうと結論づけたのだ。
 けれど。
 草木を掻き分け、手足にひっかき傷を作りながら、慣れた獣道を進んでいく。そうして目当ての場所に辿り着くと、カナタは教科書の詰まった鞄を放り投げ、地団駄を踏んで、目の前のそれを睨み付けた。
 目の前に広々と、涼しげに広がる、──あの、鏡面池を。
 カナタが五つになった頃、銀色の祖母は亡くなった。風邪をこじらせ、眠るように息を引き取ったのだ。悲しくて仕方がなかった。自分と同じ銀色を、唯一持つこの祖母を亡くすことは、カナタにとっては己の半身を失うのと、同じとさえ思われた。
 泣いて、泣いて、そうしてふと、思い出したのが御鏡様の存在である。
 祖母はカナタが近づくことを厭ったが、だからこそ──このてらてらと輝く水面を、そしてそこに映し出される底抜けの空を見ていると、亡くなった祖母の存在を、身近に感じられる気がしてならなかったのだ。
 だからカナタは今までも、度々この池に通っていた。けれどこうして毎日のように立ち寄るようになったのは、カナタが九つになり、隣町の学舎に通うようになった、この数ヶ月のことである。
「あいつら! 俺のことを田舎の爺さんだのなんだのとぬかしやがって! これは白髪と違うわ! 銀じゃ! 銀色じゃ! おぬしらの目は節穴か! ああー胸くそ悪い、よくまあ毎日飽きもせず、俺に構ってくるもんじゃ、この! 暇人! どもめが!」
 物珍しがって群がるクラスメイト達の顔を思い浮かべながら、両足を踏み鳴らし、空を殴るように腕を伸ばす。そんなことをしたからといって、気が晴れるかどうかなど、カナタにとって問題ではない。ただ心の中に幕を張る靄を振り払いたくて、そうしたのだ。しかし何度かそうする内に、カナタはふと身体の平衡を失い、その場に軽く尻餅をつく。
 ぬちゃりと聞こえたその音に、思わず小さく息を呑んだ。
 恐る恐る手を伸ばす。水溜まりにはまり込んだカナタの尻が、──そこだけびっちょり濡れている。
 急に怒りが冷えてきて、無言でその場に立ち上がる。そうしてカナタは周囲を見回し、誰の視線もないのを確認すると、放り出していた鞄をそっと手に取った。尻がすっかり泥だらけだが、鞄で隠せば、誰にも見られず帰宅することが出来るだろうか。そんな事を考えた、次の瞬間。
「あははっ、だっさーい! お漏らしみたい!」
 背後に聞こえた笑い声に、思わず背筋がしゃんと伸びる。
 明るい声。子供の声だ。しかしどうにも聞き覚えがない。まさか学舎の学友が、ひっそり付けてきていたのだろうか。
 そうだとしたら、最悪だ。
 カナタの背筋に寒気が走る。だが慌てて辺りを見回しても、それらしき影はどこにもない。
「こっちこっち! ふふ、あんた意外と鈍くさいんだね」
 続いて再び明るい声。警戒を増したカナタは膝を曲げ、腰を落としてもう一度辺りを見回して、──ようやく見つけたその人影に、ぎょっとして目を見開いた。
「ああ、ようやくこっち見た。嬉しいな、嬉しいな、ずっとあんたと話したかったの」
 空の中から身を乗り出すように、一人の少女がこちらを覗き込んでいた。
 いや、正確に言うならば、『鏡池に映った空の中』から身を乗り出すようにして、少女がカナタを見ていたのだ。
「……、銀色」
 思わずぽつりと、呟いた。
 波紋の起きないはずの御鏡様に、何やら異変が起きていた。池に映った底抜けの空がゆらゆらと、カナタの世界を揺らがせている。池の中からひょこりと顔を覗かせた少女は、──見事な銀色の髪を水面にうねらせ、祭の際に神主が身につけるような衣を纏い、濡れた様子もない両手をカナタに掲げて、はち切れんばかりの笑顔を向けていたのだ。
「見つけたよ、カナタ。あんたのことを、ずっと待っていたんだよ」
 ごくりと唾を、呑み込んだ。この奇怪な少女は、一体何者なのだろう。怪訝に思う一方で、カナタの好奇心に灯がともる。物音がしなかった。恐らく彼女は、池の中から現れたのだ。銀色の、──銀色の髪をなびかせて。
「お、俺の名前、なんでおぬしが知っとるんじゃ」
 恐る恐る近づきながらそう問うても、彼女はにやにやと笑むのみだ。
「ねえねえ、こっちおいでよ。お漏らし、他の人にばらされたくないだろ?」
「こっ、これはただ、水たまりに転んだだけじゃ!」
 慌ててカナタがそう言えば、少女はまた軽快に笑い、「知ってるよぉ」とまず言った。
「見てたもん。あんたが怒り狂って、ジタバタ動いているのをね。あんた、イサメの子孫だろう?」
 イサメ。一体誰のことであろう。しかしカナタがそれを問いかけるより早く、彼女がカナタに向けて、また両手をぐいと伸ばす。つられてカナタが手を出せば、彼女は嬉しげにその手を取った。
「知ってるよ。よく知ってる。これでようやく、欠けたものが埋められる。銀の流れを取り戻せる」
──おまえはきっと、向こう側に近い子だから。
 祖母の言葉が脳裏を過ぎる。少女がカナタの腕を引く。不意に両足が浮くのを感じて、カナタは小さく息を呑んだ。池の縁から顔を出したまま、上がってこようとしないこの少女が、カナタが思っていたのよりずっと強い力で、容赦なく、カナタの腕を引っ張ったのだ。
「お帰り、カナタ。あんたに会えて、私は嬉しい」
 御鏡様の水面が、カナタの眼前に迫っていた。
 
 ***
 
 落ちる。慌てて息を止め、口を真一文字に結んだが、着水の音は聞こえない。目の前が真っ暗になったが、しかしそれはただカナタが目を閉じただけのことであったと、気づいたのはその直後のことだ。
「カナタ。ねえ、カナタ。怖がらないでよ、ほら、目を開いて周りを見て」
 カナタの腕を掴んだまま、少女の声がそう言った。聞いてカナタは息を詰め、目を閉じたまま首を横に降る。無茶を言うな、カナタは泳げないのだ。そんな怒りが胸に湧いたが、そう主張することすら出来やしない。苦しい。両手は慌てて藻掻くのに、奇妙な浮遊感があるばかりで、どこにも掴むものがない。
(溺れる、──)
 そう思った。しかし、その瞬間。
 ぱんっと額を叩かれて、反射的に目を開ける。眩しさに目がくらんで、カナタは咄嗟に手を翳そうとし、──視界に入ったその世界に、瞠目した。
 すぐ目の前に太陽があった。つい先程まで木々に囲まれた御鏡様の側に居たはずであったのに、緑の香りは既にない。周囲の木々は見当たらず、慌てて探した御鏡様は、カナタの遙か足元に、小さく確認できるのみだ。
「思いっきり強く、引っ張り過ぎちゃった」
 悪戯っぽく少女が言った。薄絹と見える衣を纏った彼女はカナタと同じように、──ぽっかりと、空に浮かんだ姿で、そこにいる。
 二人は空に、浮いていた。
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