ヨミゴト


【後編】

 状況を理解したカナタが、叫んで少女にしがみつく。カナタと同じ程度の背丈しかないこの少女は、からからと笑い、「驚きすぎだよ」と明るく言った。
「とっ……飛んどる! 俺ら、飛んどるぞ!」
「ふふ、こういう景色は初めてかい?」
 少女がにやりと口の端を歪め、カナタのことを引きはがす。そうしてまた少女に手を引かれると、カナタの身体はいとも容易く、晴れ渡る空を滑り抜けた。
「おい、どうなっとる! 俺らは、御鏡様の中に落ちたんじゃあなかったのか?」
 震え声でそう問うても、少女は答えようとしない。だが彼女が一方的にカナタの腕を取り、また空を滑り抜けたことで、二人はそのまま、束の間の空中旅行を楽しむこととなった。
 右へ左へ旋回しながら、二人の身体は風に吹かれる凧かの如く、自在に世界を滑空する。彼女が突然高度を下げたときには、カナタはまた悲鳴を上げるはめになったが、しかし不思議とその浮遊感は、すぐにカナタの身に馴染んだ。
 少女の手をかたくなに放せずにいたのは、はじめだけだ。そのうちカナタも手を広げ、己の意志で飛び始める。
 その行為は何やらカナタにとって、息をすることのように、眠ることのように、歩くことのように、
 まるで当たり前のものと思えるのだった。
「おぬし、名前は何ていうんじゃ」
 高い杉の木の先ぎりぎりを飛び越えながらカナタが問えば、少女はまた明るく笑い、「イサメ」とそう答えた。
「おまえの祖になったイサメと、私は元々一つの存在だったのさ。私達は長らく、ひとつのイサメであったのだよ」
「どういう意味じゃ?」
「そのままの意味さ。あんた、おつむが弱いんだね」
 地面すれすれまで降りていき、御鏡様の水面を撫でながら、からかい混じりに彼女が言った。
「なんだと」
「やるか?」
「捕まえちゃる!」
 勢いをつけて滑空すると、イサメがひらりと身を躱す。しかしカナタが御鏡様に突進しそうになるのを見るやいなや、その腕を引いて軌道を修正し、今度はまるで囁くように、カナタに向かってこう言った。
「ねえ、こうしていると思い出さないかい? おまえのその銀色は、元来土地に縛られていて良い代物じゃないんだよ。私達は、もっと自由でいなくちゃ。ゆくべき場所へ帰らなくちゃ」
 イサメの両目がゆらりと揺れる。その双眸を、覗き込む。
「おまえが帰ってきてくれれば、私達は銀の流れに戻れるんだ。ねえ、イサメ、ねえ、カナタ、……」
 ぽつり、ぽつりとイサメの言葉が、青い空に溶けていく。
 カナタはその時、彼女の瞳の中に、銀の大きな鱗を見た。大きな鱗のびっしりと生えた、大きな生き物の姿を見た。
 静かに身を揺らがせて、空を駆ける、銀色の、──
「そうだろう、カナタ」
 カナタの頬に手を添えて、イサメが小さく呟いた。
「私達は自由でなくちゃ。私達は、──銀色なのだから」
 はっと息をしたその瞬間、カナタの視界に不思議な景色が広がった。
 糸のような雨の降る日のこと。静かな池のすぐそばで、傘もささずに岩に腰掛け、ただ髪を梳く一人の少女の姿があった。
 銀色。彼女の髪も、銀色だ。イサメが着ているのとよく似た衣を身に纏い、雨に濡れそぼるのを気にするふうもなく、彼女は髪を梳いていた。だが誰かの声に呼ばれ、ふとそちらを振り返る。
「   」
 彼女が何を言ったのか、カナタにはちっともわからなかった。だがカナタの唇は、彼女と同じように動く。振り返った先には男がいた。彼は少女に──カナタに──傘をさしかけると、自分は雨に濡れながら、そそくさとその場を去っていった。
 またある時はその男と、御鏡様のそばで待ち合わせをした。それが、よくないことであるのはわかっていたが、それでも少女はやめなかった。
「私は銀色なのだから」
 独りきりでそこに佇む少女は、ぽつりと、そう言った。
「人は、土地に縛られて生きるもの」
「空の中には生きられぬもの」
「火を使うもの。他者を食むもの」
「霞を食っては生きられぬもの」
 少女の口が次々に語る。一方の言葉は徐々に艶めいて、他方は翳りを落としたまま。
「だめだよ、──行かないで」
 少女の口は自らにそう語りながら、しかし、──訪れた男の手を取って、人の世界に消えてゆく。
 それを拒んだ銀色を、御鏡様に宿したまま。
 本物には程遠い、写し身の空へ置き去りにして。
「お帰り、カナタ」
 カナタの頬を両手で包み込むようにしたイサメが、静かな声でそう言った。じっと見つめる双眸は、もはや揺らいではいなかった。
「あんたのことをずっと待ってた。私の半身。私の銀色。あんたが帰ってくれたからには、私だって銀の流れに戻っていける、……」
 イサメの顔は笑んでいた。だが先程までとは様子が違う。イサメから距離を取ろうと、カナタがいくらか後ずさる。だがイサメはそれを追い、カナタのことを離さない。
「俺は、……俺はイサメじゃない」
「いいや、おまえはイサメだ、カナタ。自分の色をよく見てご覧。イサメの銀を色濃く継いでいるじゃあないか。イサメは老いて、銀の色を失った。おまえの父は生まれながらに、すっかり人間の子であった。だが、おまえは、──」
──御鏡様を、覗き込んではいけないよ。
 祖母の言葉が、カナタの脳裏に蘇る。
──御鏡様を、覗き込んではいけないよ。おまえは、向こう側に近い子だから。御鏡様に取られてしまうかもしれないもの。おまえのような可愛い子が、遠くに行ってしまったら、婆ちゃんはきっと悲しくって、すぐにでも死んでしまうよ。
「御鏡様は、わるいものなの?」
 声をひそめて言う祖母に、あの時カナタは、そう問うた。祖母はすぐには答えなかった。けれどカナタの髪を撫で、慎重に慎重に言葉を選びながら、彼女は確かにこう言ったのだ。
「御鏡様は悪くない。そこに留まる銀色も、土地を選んだ銀色も、悪いことなんてしていない。悪いことなんてしていない。──だけど」
 カナタに触れるイサメの手に、少しずつ力が籠もっていく。逃れられない、そう思えば、カナタの背筋に冷や汗が浮いた。逃れられない。抗えない。先程まであんなにも自由と思われた空が──御鏡様の映した虚構の空が──、今ではいびつに歪んで見えた。
(ばあちゃん)
 荒々しい風に煽られて、二人の身体が流されていく。しとしとと、糸のような雨が振り始めた。
──だけどね、カナタ。どうかこれだけは覚えておいて。いつかおまえが選択をしなきゃならないときには、周りの言葉に流されてはだめ。よく考えて、考え抜いて、おまえの望むことをしなさい。絶対に、悔いの残らぬ選択をなさい。
 雨に体が濡れそぼる。イサメの指が雨で滑り、カナタは束の間、己の自由を取り戻した。
(御鏡様に、──)
 向かうのならばそこであろうと、元の世界へ戻るのならば、きっと出口はそこであろうと、カナタはその時直感していた。暴風に揉まれながら、それでも一度上昇し、御鏡様の姿を探す。だがそうしている間に、イサメもそれを追いかけてくる。
 視界が悪い。前が見えない。けれどそんなカナタにふと、傘をさしかけた影があった。
「──父ちゃん?」
 問うたところで、薄ぼんやりとした影は答えない。しかしその先にちらと光る何かを見つけ、カナタは一目散に、そこへ向かって飛び抜けた。
「お待ち、カナタ! ああ、──お願いよ、どうか今度こそ、今度こそ、私を置いて行かないで。私のところへ戻ってきて」
──だけどね、カナタ。いつかおまえが選択をしなきゃならないときには、周りの言葉に流されてはだめ。
 嘆願するイサメの声。悲しげな声。だがきっと、振り返ってはならないのだろう。そう考えて手を伸ばし、しかし、御鏡様はもう目と鼻の先というところで、
──よく考えて、考え抜いて、おまえの望むことをしなさい。絶対に、悔いの残らぬ選択をなさい。
 カナタはくるりと、振り返る。
 その手に先程さしかけられた、一本の傘を携えて。
「おぬしと一緒には行けん。俺が帰るんは、父ちゃん達のところじゃ。俺の村じゃ。けどな、……おぬしと晴れた空を飛び回ったのは、すごく、すごく楽しかったぞ」
 すぐ背後にまで追いついていたイサメも、はっとした様子で動きを止めた。彼女もやはり濡れそぼり、その双眸からは大粒の涙を零していた。
「泣くのはやめろ、イサメ。雨の日よりも晴れがいい。晴れの中のおぬしの銀色は、きらきら輝いて、他のなによりずっと綺麗だった」
 傘をイサメにさしかける。彼女の涙がぽつりと途絶えて、御鏡様の映した世界に、ふと薄明かりが射し込んだ。
「もう行かなくちゃ」
 カナタが言えば、イサメも浅く頷いた。しかしカナタが背を向けるやいなや、先程まで泣いていたはずのイサメは、はじめにあったときと同じようにくすくすと、明るく笑い出すのだった。
「なんじゃ。何が可笑しい」
「だって、あんた、その尻」
 言われてカナタも、はっと小さく息を呑む。そういえばすっかり忘れていたが、イサメに腕をひかれる前、御鏡様の近くで尻餅をつき、泥濘に尻をつけてしまっていたのだ。先程までは全身が濡れそぼっていたのだが、雨が途絶えたのと同時に他の部分はすっかり元通りに乾いていたものだから、その箇所ばかりが目立ってしまった。
「そうだ、あんたは私に会った時から、しょうもないことに怒りちらして、尻に土をつけていた。……あんたは既に、土と共に生きていたんだ」
 「お漏らしに救われたね、カナタ」イサメは笑って、そう言った。
 
 ***
 
 月の大きな夜であった。
 夏虫の声が響いている。カナタが横たわったその地面は、湿気にじとりと湿っていた。
 どうやら風が強いのだろう。視界の先の夜空では、雲が颯爽と流れていく。だがそれらを物ともせずに、するりすり抜ける影があった。
 夜空を駆ける銀色が、──銀の鱗の大きな龍が、ぐんぐんと空を昇っていく。
 それがちらと振り返るのを見て、カナタはくすりと笑みを浮かべた。
「還れたんだな。よかった、……イサメ」
 その晩カナタは、銀鱗の龍の姿が見えなくなるまで、その帰郷を見守った。そうして荷物を拾い、村に帰る頃には日はとっぷりと暮れていたのだが、──心配した父のげんこつをひとつ食らったのみで、それ以上の咎めは受けずに済んだのだった。
 父もすぐに気づいたのだろう。息子の髪が己と同じ、濃い黒色に変わっていることに。
「父ちゃんは知ってたんか? ばあちゃんが一体、何者だったのか」
 ある日カナタがそう問えば、父は思案する様子で顎の黒い髭を撫で、それから何でもないふうに、カナタに向かってこう言った。
「なに、馬鹿な事を言っとるんじゃ。ばあちゃんは、ばあちゃんじゃろ」



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