風浪のヌサカン


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「あの天に煌くのは、いつか無くした俺達の王冠ゲンマ──」
 月の細い夜であった。櫂を操る男の声に、ふと目を覚ませば、暗晦とした海は静かにうねり、その水面に星の輝を映し出している。
 舳先にまで人間が詰め込まれた、粗末な小船に揺られていた。人々はみな顔を青くして蹲り、ある者は心細そうに涙を流し、ある者は疲労で眠っている。そんな中、少年は傍らで眠る妹の手を握りしめると、「王冠ゲンマ?」と聞き返すように呟いた。
 櫂を操るその男が、振り返ってふと笑う。「そうさ」と答える声は明瞭だが、暗闇の中、その表情は読み取れない。
 その日、その時、──故郷を失い海を漂う流民を乗せた、その船を漕いでいた男のことを、少年はよく知らない。幼い兄妹が身寄りもなく、ただぽつんと港に取り残されていたところへ、一緒に来るかと声をかけられた。それだけだ。己と似通った髪の色や肌の色から、恐らく同郷の者であっただろうと推察することはできたが、それ以上のことはわからない。第一彼は、己のことすら、自分が一体何者で、何のためにこの船に揺られているのやら、ちっとも理解していなかったのだ。
 だがそれでも、この時聞いた男の言葉は、幼い彼の胸に留まった。
「俺達の王は、……いや、王だったあの男は、異民族の侵略を前に戦いもせず王冠を棄てた──。おかげで、国民は散々だ。国土は蹂躙され、新しい支配層にはとんでもない人頭税をかけられて、食っていくこともままならない。子供は棄てられ飢えるしかなく、無事大陸に渡れた人間ですら、奴隷に身をやつして生きるより他にないと聞く」
 深夜の海に、波が立っていた。頼りない小船にしがみつく人々が震えるのを見て、少年もそっと、よりかかって眠る妹の背を抱きしめる。
「仲がいいんだな」
 男の言葉に頷けば、相手は目を眇め、品定めするかのような目で幼い兄妹を眺めると、溜息混じりにこう言った。
「ならせめて、同じ主人に買われるよう、上手く売ってやらなきゃな、──」
 
 ***
 
 いやに喉が渇いていた。
 もう夜明け頃だろうか。まぶたの向こう側が薄明るく見えている。起きなくては。起きて、主人達が活動を始める前に、火をおこしておかねばなるまい。昨日習った文字は、上手く書けるだろうか。点一つでも間違えては、棒で打たれるなり、船首に吊るされるなりするのだから、何か言われる前に復習しておかなくては。
 急に活動を再開した頭がぐるぐると、とりとめもなく思考する。しかし何故だか、身体がうまく動かなかった。まるで石でも置かれているかのように、身体が熱く、重たいのだ。すぐには思い出せなかったが、もしかすると昨日、何か主人達の機嫌を損ねる事でもしたのかもしれない。暴力を振るわれて気を失った翌朝は、いつだって、傷が痛んでうまく起き上がることができないのだから──。
 鼻をひくひくと動かせば、何やら甘ったるい、妙な匂いが充満していた。食事の匂いではないが、何やら優しい、穏やかな香りである。これと同じような香りを、昔どこかで嗅いだことがあった。あれは確か、まだ陸地で暮らしていた頃のことだ。見渡す限り、どこまでも続く花畑。この海の上に、まさかそんな物があるわけはないと考えながら、しかし彼は、──イスタバルは、違和感に目を見開いた。
 海上ではいつだって感じていた、波の揺らぎがそこにない。
 代わりに視界へ飛び込んできたのは、木組みのされた見知らぬ天井である。身体のあちこちが痛むのを感じながら、それでも必死に目を動かし、周囲の様子をうかがえば、どこもかしこも見慣れぬもので溢れていた。
 木彫りの人形に、果物を多く積み上げた机。模様の描かれた鮮やかな色の布は、室内を彩るように梁から吊るされている。
(そうだ、俺、嵐の夜に──)
 嵐が来るとわかっていながら、沖の岩場に取り残された。連れて行ってくれ、置いて行かないでくれと懇願するイスタバルを背に、彼の主人達は簡潔に、まずはこの嵐を生き延び、イフティラームという陸の国へ流れるようにと言い置き去っていった。彼の為すべき仕事については、後から報せをよこすからと。
 ふと冷や汗が背に湧いた。それからのことはまるで悪夢を見るようで、朧げにしか記憶がない。死に物狂いで岩場にしがみつき、地獄のような嵐の夜をやり過ごした。そのはずだ。そうして木片を抱え込み、視界にはいった浜辺へ流れ着いたのだ。
(ここは、陸地の国イフティラームなのか)
 ごくりと唾を飲む、その瞬間。
「カラヤ様、……カラヤ様! 一体どちらにいらっしゃるのです」
 不意に聞こえた人間の声に、思わずびくりと体が揺れる。すると同時にイスタバルの腹の方からも、何やら寝ぼけた声がした。身体の痛みに耐えながら、それでもなんとか身を起こし、呆れてしまう。
 どうりで身体が重いはずだ。見ればイスタバルと同じ年頃の少年が、よだれを垂らし、イスタバルの腹にもたれかかるようにうつ伏せて、すやすやと眠っていたのだから。
「カラヤ様、」
 声が近づいてきたのを感じ、慌てて、己に被せられていた布を跳ね除けた。例の少年の頭が落ちて、床にぶつけた音がする。イスタバルは構わず立ち上がろうとして、しかし手を引かれてまた座り込んだ。いつからのことかわからないが、例の少年が、イスタバルの左掌を、ぎゅっと掴んで放さないのだ。
 刃で裂かれた傷跡の残る、イスタバルの醜い左手を。
「──っ!」
 どこへ逃げられるわけでもないが、それでもその手を振りほどき、跳ね除けた布にくるまると、いくつか立ち並んだ木彫りの人形の脇へしゃがみ込む。右手が痛んで上がらない。見れば木の枝で固定して、包帯まで巻かれている。折れているのかもしれない。身体の痛みを堪え、息を殺して蹲っていると、ガラリと戸を引く音がした。外の光が射し込むのと同時に、「おや」と男の声がする。
「カラヤ様はまた、こんな所で寝てしまって……。起きなされ。神と精霊の家トンコナン・ペカンは、昼寝場所ではございませんぞ」
 老爺がそう言い腰をかがめ、少年の頬を軽く叩く。再び間の抜けた声を発したこの少年は、ぼさぼさになった黒髪を掻き上げ、寝ぼけ眼を手でこすると、きょろきょろとあたりを見回して、──
 頭からすっぽりと布をかぶり、じっと様子をうかがっていたイスタバルと目があった瞬間、「あっ」と明るい声を上げた。
「お前、起きたのか! もう痛くないか? ひどい怪我だったんだぞ。あちこち青あざができて、すり傷もひどくて、……そうだ、腹も減ったろ。これ、食べろよ」
 机の上に積み上がった果物をひょいと手に取る少年に、老爺がやれやれと肩を竦める。
「カラヤ様、祭壇の食べ物は海神様への捧げ物ですよ」
 言われるそばから少年は、果物の一つの皮を剥き、自ら齧りついている。もう一方の手で差し出された果物を、しかし受け取れぬままでいたイスタバルは俯いて、直後、
 ぐううと己の腹が鳴くのを聞いて、赤面した。
 腹の音で食事を乞うような真似をして、船の上であればきっと、すぐさま殴られていたはずだ。しかし反射的に歯を食いしばり、身構えるイスタバルの一方で、この少年は面白そうに笑うばかりだ。
「やっぱり腹が減ってるんじゃないか。そりゃそうだよ。だってお前、このくにに流れ着いてから、もう三日も寝てたんだぜ。なあ、名前は? どっから来たの?」
 次から次に出てくる問いに答えられぬまま困惑していると、傍らの老爺が呆れた様子で息をつき、こほんと一つ咳払いする。
「カラヤ様。人に名を問う前に、するべきことがあるでしょう」
 聞けば少年も、この時ばかりは素直に頷いて、──握手を求めるように手を差し出すと、「俺はカラヤ」と目をキラキラと輝かせ、まずそう言った。
「イフティラームのカラヤ。親は違うところにいるんだけど、今はこの郷の首長様のところで暮らしてる。なあ、お前のことも教えてくれよ。俺、お前の友達になりたいんだ!」

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