風浪のヌサカン


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 怪我と空腹、それから極度の疲労のためにすっかり衰弱してしまい、しばらく神と精霊の家トンコナン・ペカンと呼ばれる建物で療養することになったイスタバルの元に、カラヤはその後も幾度となく訪れては、様々なことを話して聞かせた。漁が好調だったこと、高波が美しかったこと、そういう他愛のない話を聞く内に、イスタバルにも、カラヤと名乗ったこの少年のことが少しずつ、わかり始めていた。
 自由で奔放、一度自分でそうと決めたら、意見を変えない頑固者。周囲の大人達が彼のことを、カラヤ様、カラヤ様と恭しげに呼ぶのがなぜかと思えば、どうやらこの郷を治める首長の後継ぎであるらしい。
(なのに俺なんかにかまってくるなんて、変なやつ)
 話を聞いただけでもわかる程、イフティラームは豊かな国だ。浜を出ればよく魚が獲れ、大小様々な樹の実が成り、内陸には水田や畑もあるという。人々は大らかでよく笑い、色彩豊かな布を織り、海神と祖先を祀って暮らしている。イスタバルのような奴隷だけでなく、──誰もが窮し、わずかな食べ物を奪い合っていた騒海ラースの民の船とは、大違いだ。
(あいつ、……今日はどんな話をしに来るかな)
 豊かな土地で、大人達に守られて、きっとイスタバルのように何も持たない人間が、物珍しいだけなのだろう。ただそれだけの理由で、イスタバルにかまうのだろう。
 それでも。
「なあ、お前、そろそろしゃべれるようになった?」
 腕いっぱいに抱えられるだけ樹の実を抱えたカラヤが、訪ねて来るなりそう問うた。イスタバルは用意された服を着、敷かれた布団に座り込んだまま、きゅっと口元を引き結んで首を横に振る。するとカラヤは「そっかあ」とたいして気にした風もなく座り込むと、持参した樹の実をイスタバルの脇に積み上げて、また彼の見てきたものについて語り始めた。
 カラヤがこうして様々なことを話す間、イスタバルはただ黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。語り返したことは一度もない。何を話せばいいのか、何なら話すことを許されるのか、考えあぐねて黙っているうちに、どうやら嵐の衝撃で声が出なくなっているのではということになったようだったので、乗じてそれに頷いた。
 余計なことは話すなと、主人からきつく申し渡されている。何が余計で、何がそうでないのか判じ得ないイスタバルには、ただ黙ってこの少年の話に頷いていることが、最良の策と思われた。
「今日は外に出ようぜ。お前も大分元気になってきたし、そろそろ大丈夫だろうって巫女達が言ってた」
 その言葉はありがたかった。イフティラームに辿り着いてからというもの、邪を払うという甘ったるい香の焚かれた部屋で一日中寝かされていて、退屈なことこの上なかったのだ。何の仕事もしていないのに、衣食を与えられることにも、あとで何を要求されるだろうと得体の知れない不安があった。
 外へ出て、何かできそうなことがあれば、明日からはそれを手伝わせてもらおう。しかし骨が折れているらしい右腕を布で吊ってもらっている間、窓からぼんやりと外を眺めるカラヤを見れば、その顔はどこか物憂げに翳っていた。
 いつもはあんなに目をきらきらと輝かせて、他愛のない話を聞かせてくるのに。
 慣れないながら用意されていたサンダルを履けば、イスタバルの手当をしてくれていた巫女の一人が、「いってらっしゃい」と微笑んだ。
「カラヤ様。この子はまだ怪我が治りきっていないんですから、あまり遠くまで連れまわしちゃいけませんよ。右腕の骨が折れているし、脇腹も、縫ってから日が浅いんですからね。走っちゃだめ。木登りもだめ」
「手合わせは?」
「もちろん、だめ」
 「そっかあ」と笑うカラヤの様子に、何やらそういう予感がした。しかし深く考える間もなく、カラヤにちらと目配せされると、──次の瞬間、二人はその場を駆け出していた。
「あっちまで競争しようぜ! ほら、早く来いよ!」
「こらっ! 二人とも!」
 巫女の声を背に聞きながら、振り返らずに駆けていく。履物など履いたこともなかったものだから、布地が擦れて肌が痛んだ。すっかり鈍っていた身体で駆ければ、すぐさま、息が弾んで足がもつれた。
 それでもカラヤの後をゆく。
 なぜだか今は、そうすることが心地よかった。
「あれが政務と裁きの家トンコナン・ラュク、あっちが広場モンガ広場モンガには朝、市が立つんだ。それに祭の時には、郷中の人間が集まってくる。このまま行くと高台があって、全部一気に見渡せるから、まずはそこに行こう」
 大きく頷いて、ぐんぐんと坂を駆け上がる。途中何度か、郷の人間とすれ違った。人々はみな朗らかな表情で、親しげに二人へ声をかける。
「あら、もしかしてその子が例の?」
「酷い怪我だと聞いていたが、もう遊べるようになったのか」
「高台へ? そりゃあいい! あそこからなら浜も、海も、町も、それに森や田畑も眺められますからなあ」
 話しかけられる度、面映さに顔を伏せてしまったが、変に思われはしなかっただろうか。カラヤは好奇の目で見る人々のことも、俯くイスタバルのことも気にした風はなく、ただ笑顔でこう返す。
「まだ名前も何も知らないけど、こいつ、俺の友達になったから!」
 友達。──今、友達と言っただろうか。
──俺、お前の友達になりたいんだ!
 この郷で目を覚ましたあの日、カラヤは確かにそう言った。しかしイスタバルは、頷くことも拒絶することもできずにいたのだ。
 友達。そんなもの、今まで一度もいたことがなかった。イスタバルは奴隷であった。これまで幾多の傷と共に、嫌というほどその身に教え込まれてきた、それがイスタバルにとっての己の価値であった。主人に言いつけられた限りのことをし、主人の機嫌をうかがいながら、朝も夜もなく罵声を浴びせられながら仕事をこなす、それだけが彼の暮らしであった。
 同じ年頃の子供達が楽しそうに遊ぶのを見て、羨ましさを覚えたことはある。けれど。
「これこれ。この大岩が、いいところにあるんだよ。ほら、ここに立ってみろよ。そしたらさ、ぜーんぶ見えるから!」
 ぜえぜえと肩で息をして、しかしカラヤに勧められるまま、やっとの事で大岩の上によじ登る。
 そうしてみてイスタバルは、思わず息を呑みこんだ。
 海辺からは隔たれた、濃い緑の香りが胸いっぱいに広まった。眼下には船型に反った人々の家トンコナンが連なり、その脇には美しく整備され、草木の繁った畑の片鱗も見える。どこかに滝でもあるのだろうか、力強い水音が、止めどもなく流れていく。
 そうして視界いっぱいに輝くのは、ほんの数日前に生死の淵をさまよった、
 あの大海であった。
「あっ、ほら、あれがお前の寝泊まりしてた、神と精霊の家トンコナン・ペカンだよ」
 カラヤが続けて郷を紹介したが、ちっとも耳に入らない。ただイスタバルは小さく感嘆の息をつき、ようやく瞬きすることを思い出しながら、「きれいだ」と呟いた。
「すごく、……きれいだ」
 ヴィラ共々ダフシャの官僚に買われ、騒海ラースの民の船に乗せられて以来、嫌というほど眺めてきた海。時に荒れ狂い、人々を翻弄するその海が、──しかし今はなにがしかの尊い光を帯びて、穏やかにたゆたっている。
──海はこわい。
 幼く不安げなその声が、不意に脳裏に蘇る。つい先日まで、いつだってイスタバルの後について歩いていた妹の声だ。
──海はこわい。暗くて、冷たくて、……私たちきっと、この船を降ろされたら、すぐにあの波に食べられちゃうんだ。
(こんなきれいな風景を、ヴィラにも、……見せてやれたら)
 隣に立つカラヤは得意気に笑って、しばらくの間何も語らず、イスタバルと同じように、じっと海を眺めていた。高い声を上げて、鳥が上空を滑空する。雲間から陽がさして、イスタバルの浅黒い肌をじりじりと焼いた。身体中にできた、まだ癒えきらぬ傷口が痛んだが、今は少しも気にならない。
 用意されるまま身につけた、イフティラームの衣服が風にはためいている。
「それでさ、ええと……。お前、しゃべれるようになった?」
 問いの意図が一瞬わからず、「えっ」と短く問い返す。そうしてからぎくりと肩を震わせて、イスタバルは咄嗟にカラヤを振り返った。
 高台からの景色に魅せられて、つい口を開いてしまった。嵐の衝撃で声が出ない、そういうことにしていたのに。
「あっ、べつに、責めるつもりじゃないんだ。声を出せるの、初めから知ってたし……。巫女達も知ってる。嵐のせいで怖い思いをした後だし、しゃべりたくなったら、しゃべってくれたらいい、って、みんなそう言ってた」
 押しの強いこの少年にしては珍しく、それだけ言って目を逸らす。イスタバルは羞恥の思いで顔がほてるのを感じながら、やはり目を逸らすようにそっぽを向いて、大岩の上に蹲った。カラヤはしばらく黙っていたが、それでもそう長くは間を置かず、「あのさ、」と再び口を開く。
「お前がしゃべれるようになったら、話したいことが沢山あったんだ。まず、ええと、やっぱり名前かな。お前、なんていう名前なの?」
「──、イスタバル」
 観念してそう言えば、「イスタバル!」と明るい声が繰り返す。
「イスタバルか。イスタバル、へえ」
「用もないのに何度も呼ぶな」
「なんか、強そうな名前だ」
「べつに強くない」
「そうなの? まあ、結構泣き虫だしな」
 イスタバルが顔を赤くし、蹲ったまま咄嗟に顔を上げれば、「あっ」とカラヤが息を呑む。
「言っちゃだめなんだった」
「誰が、泣き虫だって?」
「泣いてたっていうか、その……」
「誰が、いつ、泣いてた」
 しどろもどろになるカラヤが、しかしイスタバルに睨まれて、まず気まずげに大岩を降りる。そうしてから彼は、「うなされてたんだよ」と、頭を掻きつつそう言った。
「お前、眠ってる間、毎晩すごくうなされてる。悪い夢でも見るのか?」
 言われてイスタバルは、答えられないままじっと口をつぐみ、気遣わしげに振り返るカラヤの視線から逃れるように顔を伏せた。夢。ここ数日ちっとも記憶にないが、確かに何度か、起き抜けに汗でぐっしょりと体が濡れているのを見て、巫女達が着替えを手伝ってくれた。
(声が出ること、それで知られてたのか……)
 そうしてふと、思い出す。この郷で初めて意識を取り戻した際、カラヤが、眠るイスタバルの手をぎゅっと握りしてめいたことを。
「お前、故郷は?」
「そんなの知らない。覚えてない」
「家族は?」
「……、いない」
「そっか、……。あっ、歳は? 俺は八つになったところだけど、お前もそれくらい?」
 自身の正確な年齢など知る由もなかったが、本当に何も知らないのだと正直に告げるのも癪であった。投げやりに「そうだ」と答えれば、カラヤはやけに目を輝かせ、「そうなのか?」と問い返してくる。
「俺の誕生日、ココシの月二十日! お前は?」
「あんたの一ヶ月前」
「えっ、お前のほうが先なの? 俺よりチビなのに……。まあ、でも、そっか、同い年か。じゃあもし、お前がこのままイフティラームに残るなら、俺たち同じ年の祭で大人になるんだ」
 祭。耳慣れない言葉に眉をしかめたが、それが一体何を指すのか、続けて問うことはできなかった。カラヤがまたイスタバルの手を取って、無邪気な笑みを浮かべてこう言ったからだ。
「なあイスタバル、お前、故郷も家族もないんなら、このままイフティラームで暮らしなよ。みんな優しいし、食べ物も豊かだし、良いところだよ。住む場所も、首長様に相談してみる。ここをさ、お前の故郷にしたらいいよ」
 カラヤの視線は真っ直ぐに、イスタバルの目を覗き込む。
 傷跡の走るイスタバルの手を、強く掴んで、放さない。
(豊かな郷……。食べ物を奪い合う必要もない、大声で怒鳴り散らす人も、暴力を振るう人もいない、イフティラームの郷……)
 どうしたいかなど決まっていた。この少年の提案を、拒む理由などひとつもない。
 イスタバルが、ただの漂流者であったなら。

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