やがて春を葬る


【後編】

「あの時のあなたったらなかったわ」
 ベッドに横たわったその人が、可笑しそうにそう言った。
「私を見るなり、まるで幽霊でも見たような顔をして。失礼な話だと思わない? 私をそんなふうにしたのは、他でもないあなただったのに」
「ふふ、ごめんね。あの頃の私は、まだとても未熟だったんだ」
 眼を細めてそう言った。そうして相手の細い指を、包み込むように握りしめる。
 皺だらけで節くれ立った老婆の指先を、変わらぬ若い手が握る。
 
 ***
 
 『彼女』が少女に種子を食ませた、その翌日のことである。
 少女と出会ったその場所で、『彼女』は崩れた煉瓦造りの壁にもたれ掛かるようにして、静かに仮眠を取っていた。霜の張る明け方の空気は底冷えして、まるで身を切るようであったが、それでも彼女は膝を抱え、擦り切れたマントを身体に巻き付けて、寒空の中で眠りについた。
――代わりにお前の最期の時は、私が側にいてあげよう。お前も私と同じように、ひとりぼっちだろうから。
 口をついて出たその言葉を、嘘にはしたくなかったのだ。生身の人間であれば凍てつくような寒さでも、彼女の身体は耐えられる。
 種子を食ませた少女の身体は、少女自身が作った墓地の中心部に置いた。彼女が種子を食んでから、これでようやく丸一日。春の種子の成長は早い。そろそろ少女の身体に根を下ろし、発芽を始めても良い頃合いだ。
 丸めた膝に押し当てていた。額をそっと持ち上げる。顔を上げることが、顔を上げて少女の姿を確認することが怖い。だがずきりと鳴る胸の音を押し殺し、『彼女』が目を開けた、その時だ。
(……歌?)
 不意に聞こえた旋律に、思わず目を瞬かせる。静かだが、芯の通った力のある歌。歌声の主人は女性のようだが、それにしてはいささか掠れた、低い声をしている。しかしその落ち着きのある低さがかえって、この寒空に馴染んでいる。
 心地の良い、何某かの哀愁を孕むその歌声は、誰に向けられたものだろう――。だがそこまで考えて、『彼女』ははっと立ち上がる。覚えのない毛布が、不意に『彼女』の肩から落ちた。
 ついに滅びたはずのこの街で、最後の生き残りすら失ったはずのこの街で、誰が歌っているというのだ。そんな疑問が胸を占めたが、問いかける相手もいやしない。しかし慌てて辺りを見回す『彼女』に、声をかける影が一つ、あった。
「あら、……おはよう、死神さん。気分はいかが? そんなところで眠っては、身体に毒よ。私、もう一つ墓の穴を掘らなければならないのかしらって、心配してしまったじゃないの」
 粗末な墓標に囲まれて、そう微笑んで振り返ったのは、『彼女』が種子を与えたはずの少女であった。
 昨日命を終えたはずの、――名も知らぬその少女であったのだ。
 
 何が起こったのかはわからないのだと、少女は『彼女』にそう告げた。
「だけどきっと、あなたがくれた薬のおかげよ。すごいのね。どういう仕掛けなのかしら? 私、もう何日もまともに食べていなくて、もうじき餓死するはずだったの。街のみんなもそうして死んだし、ついに私の番が来たんだなって、そう思っていたのよ」
 この少女はぺらぺらと、明るい声でよく喋る。まるで以前からの知人にするように親しげに話しかけられるので、『彼女』は余計に困惑したが、されるがままにしておいた。少女の言う『薬』というのは、昨日与えた種子のことであろう。だが、少女の認識が事実とは異なるからと言って、事情を説明するのは面倒だ。
「死神だなんて、そんなふうに呼んでごめんなさい。昨日はあなたのこと、てっきり私の魂を奪いに来た、死神なのだと思ったのよ。だって昨日のあなたときたら、真っ青になって、とても怖い顔で私を見ていたのだもの」
 木を削り、簡素な墓標を作りながらあっけらかんとした口調で話す少女の言葉を、『彼女』は拍子抜けした顔のまま、ただ黙って聞いていた。
 これは一体、どうしたことだというのだろう。生きた人間の身体を苗床として、春を萌芽する『彼女』の種子。少女は確かに種子を食んだ。そのはずだ。それなのにこの少女は、その身を食い破られるどころか、昨日よりずっとしっかりした足取りで、地に立ち生活していたのだ。
 痩せた身体は変わらずだが、頬には赤みがさしている。何より、昨日は声を出すことすら出来ないほど衰弱していたというのに、今日は自ら掘った墓の前で、歌すら歌うほどである。
 死者を送る、弔いの歌。少女は簡素な墓標を置き、それを歌うと、静かな声でこう言った。
「それともあなたは、本当に死神なのかしら。ほんの気まぐれで、私に弔いの時間をくれただけなの?」
 答える術などありはしない。『彼女』自身にとっても、想像し得ない事が起こってしまっているのだから。
「私、ルシスっていうの。あなたは?」
 脳天気なその声に、思わず小さく、頭を掻く。
「名前はない。私はね、そういう立場に生きていないんだ」
「立場? よくわからないけれど、名前がないなんて、不思議な人ね。でも、それじゃあ呼びにくいわ」
「何とでも好きに呼べばいい。それよりお前、身体の調子は」
「なら私、あなたのことを『ハルノヒ』と呼ぶ」
 『彼女』の言葉を遮って、ルシスという名の少女は朗らかに言った。
「あなた、昨日私に向かって、『誰より素敵な春になれる』と言ったでしょう? それがどういう意味かはわからなかったけど、なんだかとても嬉しかったの。だって私、昨日まで、もう春を迎えることなど出来ないと思っていたんだから」
 「だけど、あなたが来てくれた」どこか憂いを孕んだ笑顔でルシスが笑うのを見れば、『彼女』の胸がずきりと疼く。
「あなたのおかげで、私、きっともう一度春を迎えられる」
(お前自身に春を迎えさせる気など、私には少しもなかったのに)
「みんなを弔ったら、体力のあるうちに街を出ようと思うの。もしよかったら、あなたも一緒に行かないかしら?」
(お前が種子を食んだ以上、それが春を迎える時まで、私はお前を見守らなければならない)
 溜息を吐く。
 「そうしよう」と『彼女』が言うと、ルシスは明るくにこりと笑った。
「これからよろしくね、ハルノヒ」
 
 ハルノヒと過ごす間、ルシスはいつだって明るく振る舞った。尋ねもしないのに、賑やかだった頃の故郷を語り、家族や友人のことを語って聞かせた。
 寝静まった夜を狙って封鎖された街道を抜け、離れた街に辿り着いた後も、ルシスは表向き、そんな様子を装い続けた。空っ風の中、自らの命を削るようにして愛する人々を葬り続けたあの時の、鬼気迫る目は最早なかった。街で仕事を得てからも、よく働きよく笑う、周囲の人々に愛される、そんな娘に育っていった。
 そんなルシスも時たまくずおれ、故郷を思い出して泣くことがあった。そんな時にハルノヒは、ルシスの肩を支えてやるようになっていた。芯の強いこの娘が、独りで泣くのは耐えられなかった。
 種子は確かに食ませたのに、この少女はいつまでも、種子に身を食い破られる様子はないようだった。何が理由かはわからないが、ルシスはいい苗床にはなれなかったのかもしれない。ハルノヒは次第に、そう思うようになっていった。ハルノヒが与えたあの種子は、死に向かっていたルシスの身体に奇跡を起こしたことで、本来の力を失ってしまったのだろう。
 むしろ、そう信じたいとさえ思うようになったのは、一体いつのことであったか。
(お前は故郷を失った。私は故郷へ還る術を失った。けれど、)
 けれど今は、互いにもう独りではない。
「私達、きっと素敵な春になりましょう」
 嫁いでゆくルシスが言うのを、ハルノヒも笑顔で聞いていた。その頃には、いつまでも見目の成長しないハルノヒは定住を止め、再び各地を放浪するようになっていた。
 けれど寂しさは感じない。ハルノヒの事情を知っても、ルシスは変わらず友でいてくれた。ハルノヒが旅から帰る日は、いつも笑顔で出迎えて、小さな子供達と共に、夜更けまで旅の話に耳を傾けた。
 
 そうして一体、何十年の歳月が流れたのだろう。
 ある旅の終わりの日、ハルノヒを出迎えたルシスは、はにかむように笑ってみせた。
 あの日と同じ、白む朝日の射す日であった。すっかり年老い、真っ白な髪を背中で一つに結わえたルシスは、穏やかな声でこう言った。
「ハルノヒ。私、きっと素敵な春になる……あなたに恥じない、春になるわ」
 曇りのない目で前を見据えるルシスの白いその肌には、
 明るい碧の根が透けていた。
 
 ***
 
「ハルノヒ。あなた最期まで、私のそばにいてくれるのね」
 呼吸の小さくなったその老婆が、穏やかな口調でそう言った。「それも、約束でしょう」ハルノヒが言えば、ルシスもそっと微笑んでみせる。
――代わりにお前の最期の時は、私が側にいてあげよう。お前も私と同じように、ひとりぼっちだろうから。
(お前はもう、ひとりぼっちではないけれど)
 家族に囲まれ、人に愛され、――そうしてルシスは、そっと息を引き取った。
 
 ***
 
「ルシス、お前は私の事を『春の日』と呼んだけれど。……いつからだろうね。私にとっては紛れもなく、お前こそが『春』であったんだよ」
 ルシスの家族に乞われるまま、ハルノヒは今、あの少女と出会った炭鉱の街を訪れていた。
 何十年も前に滅んだその街は、最早以前の面影を残してすらいない。けれどハルノヒの足は迷わずその場所へ向かうと、ルシスの身体から預かった若い芽を、そっと地面に植え替えた。
 あの日の少女と出会った場所。かつて、無数の墓標に囲まれていた場所。
「お前は素敵な『春』になる。……私もきっと、お前と一緒に、素敵な春になってみせよう」

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