やがて春を葬る


【前編】

 あの日と同じ、白む朝日の中にあった。
「あの時の言葉を覚えている?」
 か弱い声でそう問われ、独り静かに首を振る。すると相手は苦笑して、「あなたが忘れるわけないわ」と自信ありげにそう言った。
 小さなベッドに横たわった相手が、静かにその目を閉じていく。胸の前で組まれた両手は、微かな呼吸に上下して、その息がまだ辛うじて、続いていることを報せていた。
(ああ、こんなに弱った姿を見るのは、出会ったあの日以来だろうか)
 強く射す朝日の白に、冷ややかに肌を刺していた風の臭い。本当は、何もかも全て記憶に新しい。けれど、それを伝えようとは思えなかった。その代わりに、もうすっかり皺だらけになったその両手に、そっと自らの手を重ねる。
 その手に触れる、柔らかな碧。それが横たわる相手の身体に根を張り、芽吹いた新緑の葉であることは、違えようもない事実であった。
「だめよ、そんな顔しないで。これでようやく、あなたは役目を果たせるのだから。ようやく春を導いたのだから。――約束したでしょう。私達、きっと素敵な春になりましょうって。ね、そうよね。ハルノヒ」
 目を閉じれば今でも、あの時の光景がありありと脳裏に思い浮かぶ。
 あの日、出会いの日、――ハルノヒの目の前には、一人の少女だけが居た。
 その少女はしらけた明け方の大地に立ち、
 物言わぬかつての友を、
 親を、
 兄弟を、
 ひとり粛々と葬っていた。
 
 ***
 
 空っ風の吹く、ある明け方のことである。人の影のない、白々しい朝の町。煉瓦造りの家屋が並ぶ通りを見れば、いつからそうしているのかも知れぬ空き瓶が、ころりと道を転がった。破れたままの硝子窓には鼠たちが我が物顔で駆け抜けてゆき、散る落葉はかさかさと、嘲笑めかした乾いた音を立てている。
(聞いたとおりの、酷い有様だな)
 心中呟き、しかし冷静を装って、明け方の道に歩みを進める。
 悩んだ末の決断とはいえ、今でも気が進まない。ようやく顔を出した太陽は地に巣くう影を細く長く映し出し、『彼女』の歩むその道を、暗く深く塗りつぶしていた。
 かつては栄えた炭鉱の街。それが昨年の事故を発端に、すっかり姿を変えてしまったのだという話を風に聞き、はるばるここまでやってきた。物見遊山というわけではない。『彼女』が立ち寄ったある酒場の店主は、頬を赤らめ酒癖悪くくだを巻きながら、それでも酒を飲み続ける『彼女』に、昔語りでもするかのようにこう言った。
「活気のある街だったんだ。羽振りも良かったし、気の良い奴が多くてね。元々が豊かな土地だったから、――悪く言えば、平和ボケしていたところもあったのかもしれん。朝も夜も山を掘り、炭鉱を削りだして……。同時に自分たちの命すら、削りつくしちまっていた。そこは、そういう街なのさ」
 良質な石炭の採れる土地であったという。資源に恵まれ、人々の笑いの絶えない街であったという。だが無計画に掘削された土地は次第にやせ細り、恵みを枯らし、徐々に人々を飢えさせて、
 そうして最後はある雨の日に、崩落という形で街の大部分を無に帰した。削り尽くされた地盤が、自然の摂理として降る雨の重みに耐えきれなくなったのだ。
(それがこの街の終わりであったのだと、確か、そう言っていた)
 資源を失い、人を失い、家を失い。残された人々のうち、ある者は街を捨て、また一方でこの街に取り残された者は、救う者のない飢餓と、死にゆく者達のもたらす病に罹り、更に苦しむことになった。
 病の感染を防ぐために封鎖された道も、餓死者を増やすことに一役買った。そうして一挙に持たざる者と化したこの街は、周囲の誰からも見捨てられ、今まさに、この冬空の下に滅ばんとしている。
 ふと視線を上げれば、大きな屋敷が目にとまった。豪奢な石造りのその屋敷は、しかし今では門が開け放たれ、住む人の居る気配もない。門扉を縁取っていたのだろう金箔は何者かによって既に剥がされ、歪な姿を呈している。わざわざ覗くことはしないが、恐らくは中も同じような有様なのであろう。金を盗んだ者は今頃どこかで、暖かな布団にでもくるまっているのか、それとも。
 人の手により滅んだ街。欲望のままに搾取され、取り残された不毛な土地。
(だがだからこそ、都合が良いかと思ったが……)
 滅び行く街であればうってつけ。だが既に滅んだ街であったなら、最早この街も用済みだ。そう考えれば『彼女』の心が、期待はずれに綻んだ。また機会を逃したのだとしたら、それは悔やまなければならないことだ。だが、それならまだ『彼女』は、手を汚さずに生きていられる。
(虫の息で良い、生きた人間が必要だ)
 枯れたこの土地を、再び春に導くために。
 『彼女』の抱える、ある『意志』を遂行する、その日の為に。
 しばらく歩みを進めていけば、次第に小さな家の連なる集落へ出た。労働者達の家であったのだろう。炭鉱から距離のあるこの辺りは、崩落自体の被害は少なく済んだようだ。だが職を失い行き場を失った住人達の行く末は、傍らに設けられた無数の、しかし貧相な墓標が物語っている。
 陽が幾分高くなった。かさかさと音を立てる枯れ葉を踏み、静かな街を進んでいく。相変わらず人の影はない。息のあるのは屍肉を貪る獣の類だけだが、それすら『彼女』の射貫くような視線にすくみ上がり、たちまちに姿を消してしまう。
 耳に届くのは風の音だけ。そう思った、――しかし、その時だ。
 ざくり、ざくりと、絶え絶えに聞こえる何かがあった。弱々しいその音は、しばらく続くとぱたりとまた聞こえなくなり、いくらかの休息を挟んで、また『彼女』の耳に響きはじめる。
 土を掘る音だ。それに混じって、草の根を千切るような音も聞こえている。
 これもまた、何か獣の発する音だろうか。しかしそう考えながらも、気づけば『彼女』のその足は、音のする方へ向いていた。
 歩む足が速くなる。
 耳を澄ませ、大股に街を闊歩する。
(この家の、裏側から……)
 随分冷たい風の吹く、朝日の照りつく日であった。
 元は牧草地帯であったのだろう、開けた土地がそこにはあった。背の低い草が茂っているが、何かを引きずった痕がある。――その痕跡の先に、
 いまだ息する人間の影が、確かに一つ、存在した。
 カカシのような細い腕。すっかり痩せこけてしまっているが、身につけた刺繍のあるスカートから、少女だろうとはすぐに知れた。その少女は今にも折れそうなその細い腕で、鍬を持ち上げ、よろめきながらも一心不乱に地面へ土をかけている。穴を掘る音と聞こえたが、どうやら、逆であったらしい。
(――いや、)
 恐らくは先程まで、穴を掘っていたはずだ。だが少女は今、何かを埋めたその穴へ、無心に土をかけている。その目許に、きらりと光る水滴があった。
(きっと誰かを、弔ったのだろう――)
 嗚咽の声は聞こえない。そうして土をかける少女自身も、いつ呼吸を止めても不思議はないと思われるほど、十分に弱り切っている。飢餓に加えて、噂の病も持っているのかも知れない。しかし。
 追って視界に入ったその光景に、『彼女』は小さく息を呑んだ。この少女が立っているのが、一体どういう場所であるか、今更ながらに気づいたからだ。
 目を凝らさずともすぐに知れる、土を掘り返した無数の痕。盛り土のようになったそれらの痕の上には必ず、木を削って作った小さな墓標が立っている。
 それは滅び行く街の墓地だった。年端もいかないこの少女は、無数の墓の中心で、今、まさに新たな墓を作っている最中であったのだ。
(まさか、これを全て独りで――)
 気づけば、腕に鳥肌が立っていた。一方で少女はひたすらに、まるで何かに取り憑かれでもしたかのように、その作業を繰り返している。それを見れば『彼女』の頬は、緊張に思わず笑みを浮かべた。
「可哀想だが、おあつらえ向きだ」
 呟く声が、掠れている。
 胸の内が、暗く高鳴る。
 ああ、彼女は、――この小さな身体に強い意志を宿した少女は、きっと良い春になるだろう。
 『彼女』が大股に近づくと、少女も流石に、来訪者の存在に気づいたらしい。握りしめた鍬を杖のようにして立つ少女は怪訝な顔をして、口を小さく開いてみせた。どうやら何かを語りかけようとしているようだが、如何せん、言葉が音に変わらない。それ程弱っているのだろう。事実、少女は鍬を地面に突き立てると、不意にふらりとよろめいた。
「……待ってくれ。まだ、死なれちゃ困るんだ」
 崩れ落ちそうになった少女に駆け寄って、咄嗟にその肩を抱く。土で汚れた布越しにもわかるほど、少女の身体は痩せ細っていた。骨張ったその肩が、やっとの事で続いている、少女の呼吸に揺れている。
――ア ナ タ ハ 、 ダ レ
 少女の口が、音を伴わずにまた語る。少女の問わんとすることはすぐに知れたが、『彼女』はそれに答えなかった。だがゆるゆると少女をそこへ横たえて、背負っていた少ない荷物から、小さな包みを取り出した。
「これをお食べ。……ああ、だけどね、噛み砕いちゃいけないよ。薬だと思って、上手く呑み込んでくれないか」
 差し出すその手が震えていた。
 だがようやくだ。これでようやく、『意志』を果たせる。
 冷ややかな地面に横たわった少女が、怪訝そうに眉を顰める。だがしばしの後、少女は何かを悟ったように、うっすらと口を開いてみせた。
「恨まないでおくれよ。これが世界の営みなのだから……。代わりにお前の最期の時は、私が側にいてあげよう。お前も私と同じように、ひとりぼっちだろうから」
 『彼女』がそう言い、乾いた少女の白い頬を、そっと優しく拭ってやる。
 少女は薄く、微笑んだ。「わかっている」とでも言わんとするその微笑みに、『彼女』の暗い決意が揺らぐ。
 少女のひび割れた唇に、小さな粒を含ませる。少女はやっとの事でそれを呑み込むと、音にならない言葉のまま、少し楽しげにこう告げた。
――ア ナ タ 、 き っ と 、 死 神 ね
「ご明察」
 迷うことなくそう答えた。こんなやりとりを聞けば、もう長く顔も見ていない『彼女』の同僚は、顔を真っ赤にして怒り狂ったことだろう。だが『彼女』は、その言葉を黙って受け入れた。実際、この少女にとってみれば、『彼女』は死神とも等しい存在であるのだろうと、重々承知していたからだ。
「お眠り。……その種子を食んだお前は、誰より素敵な春になれる」
 この荒れた地に春を呼ぶために、少女の犠牲が必要だ。けれど目を逸らそうとした『彼女』の腕を、土で汚れた少女の小さな手が、ぎゅっと強く握りしめる。
(独りは寂しかったろう。私もそうだ。ずっと寂しかったのだ。けれどお前の死のおかげで)
 ようやく彼の地に還りつく。
 少女の口がまた開く。こぼれ落ちた涙の線が、汚れた肌に線を引く。
――あ あ 、 だ け ど 、
 やっぱり私、死ぬのは怖い。そんな言葉が、聞こえた気がした。
 
 ***
 
「万物はその命を終えたのち、全て等しく土に還る」
 『彼女』はその晩、夢を見た。『彼女』が己の役目を知った、ある学舎での日のことだ。
「土に還り、いずれ新たな命と芽吹く。――私達の使命は、それを助け、乾いた大地を春へと導くことにある」
「ですが、先生」
 控えめに、しかし確固たる意志を持って『彼女』が声を上げると、師は優しげな笑みを浮かべ、「なんだい?」と朗らかに言う。
「私達の使命は、頂いたこの種子を植え、それを守り導く事だと教わりました。そしてその種は、まだ命のある人間の身体に植えつけなくてはならないのだとも。……それは何故です? 命を終えた者を、土に還すのは理解ができます。ですがこの種を植え付けられた者は、いずれ発芽した種に、命を奪われてしまうのでしょう。芽吹いた種子は春を呼ぶ。私達はその春を導く者。けれどそれでは、」
 言葉を続けることに、いくらかの躊躇いがあった。
 己の疑念を言葉にして、本当によいものであろうか。はたして後悔しないだろうか。
 言葉にしてしまった瞬間、この疑念は、紛う事なき真実となって、己自身に降りかかってくるのではないだろうか。
 そんな『彼女』の戸惑いを見透かすように、師は微笑んでそこにいた。
 師が『彼女』の言葉を促した。
 逡巡の末、『彼女』もそれに従った。
「命のある者をこの種子の苗床として選ぶことは、つまり――その者を死へと導くことなのではありませんか。その者の死を犠牲にして、大地を潤すということなのではないですか。……それは本当に、春を導く使命を担った私達が、行うべき事なのでしょうか」
 師は微笑んだままそこにいた。そうして最後にぽつりと、まるで独り言かのように、師は『彼女』にこう言った。
「この種子は、意志ある者にのみ温かく芽吹く。だからこそ、命のある者にしか使うことが出来ないのだ。……さあ、お行き。これからのことは、お前自身がよく考えて、後悔のないように行いなさい」
 そうして送り出されてのち、『彼女』は種子を持てあましたまま、何年も、何年も、春から逃れるかのように、あらゆる土地を彷徨った。役目を果たさぬ『彼女』は故郷に還りつく事を許されず、人とは異なるその身の上ゆえ、独りで居ざるを得ずにいた。
 役目を終えれば故郷へ還れる。それでも春の実りを得るために、健やかな者の命を害しようとは、到底思えなかったのだ。
 そうして迷い、考慮を重ね、――死を待つばかりのこの炭鉱へ、縋るような想いで訪れた。
 滅んだ街の生き残り。既に親も兄弟もなく、死を待つばかりの、未来の光を持たない少女。この少女ならばきっと、今更生にしがみつきはしないだろう。芽吹いた種子にその身を食い破られたとしても、先に土に還った身近な人々と共に、やがて美しい春を呼んでくれるだろう。そう考えた。だが、
 それが大きな誤算であったことを、『彼女』はすぐに、思い知らされることとなる。
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