シメオンの聖卓


【前編】

「俺は知らない」
 そう呟いた己の言葉は、酷く陰鬱に沈んでいる。
 続く言葉を発してはならない。これ以上貶めてはならない。頭のどこかで、シモンはそれを理解していた。
(貶める? 一体何が貶められるっていうんだ。俺の言葉に偽りはない。ずっと思ってきたことだ)
 そう、ずっと、心の中では思い続けてきたことだ。今、ここでそれを吐露して、何が悪いというのだろう。何が変わるというのだろう。何も変わらない。ああ、ああ、胸のつかえがとれていく、――
「俺は知らない。その存在を信じてすらいない。あんたの妄言に付き合わされるのは、もうまっぴらだ。勝手にしろ! ああ、そうとも、俺は知らない! 俺は知らないからな!」
 眼前に立つその男が、悄然とした表情で目を見開く。まなじりにかけてきらりと光るものがあった。
 涙。
 何故泣くのだ。何故そんなにも簡単に、己の心の内の痛みを、表に出せてしまうのだ。
 お前のその素直故に、今までどれ程の我慢を強いられてきたことか!
「すまなかった」
 ぽろぽろと涙をこぼしながら、相手は――血を分けたシモンの唯一の兄は、両手で静かに、己の顔を覆い隠す。
 
 ***
 
「――、それでは教えて下さいませ。あなたがお持ちのその宝石は、一体どなたのための真心であるのかを。それをお受け取りになるご婦人の、幸いなる名をくださいませ!」
 場を去っていく男に向けて、腹の内から、捻り出すような大音声。ブーツの踵を高く鳴らし、女性らしいたおやかな仕草で長いスカートの裾を翻せば、取り囲む人々の視線は全て、『彼』の挙動に注目する。
 懇願する『女』の顔は、醜いものであってはならない。眉根を寄せ、肩を震わせながらも『彼』の指先は、計算され尽くした形を描き、その場全てに問いかける。
「わたくしが愚かだったのか。あの方の真心が、いつまでもこの胸の上に留まっているはずだと、信じたことが愚かだったのか。ああ、さようなら、エヴァンジール。お前は本当に、最後まで本当に、馬鹿で憐れな女だった。ねえ、――ねえ、そうでしょう?」
 両手を左右一杯に拡げ、彼は、――シモンは再度、その場の全てに問いかける。否、それを問うたのはシモンではなく、虚構の世界の女である。名はエヴァンジール。元は没落貴族の令嬢であったところ、一度は奴隷に身をやつし、数奇な巡り合わせにより、ある伯爵の元に身を寄せ、そして棄てられた。そういう設定だ。
「もう終わりに致しましょう。さようなら、さようなら、可哀想なエヴァンジール」
 叫びにも似た悲痛な声。同時に舞台の照明が落ち、劇場内は深い闇に閉ざされる。喝采の拍手。賞賛の声。左右の幕が完全に閉じたのを確認すると、シモンは深く目を瞑り、それから一つ息をついた。
 さようなら、エヴァンジール。お前の出番はもう終わりだ。
 再び灯された松明の明かりの中、シモンは幕の前へと颯爽と姿を現すと、まずは淑女のそれを真似、スカートを拡げ優雅な振る舞いで観客達へと頭を垂れる。しかしその直後、大胆な仕草で己の頭髪を乱暴に掴み、精巧に作られたカツラを高々とその場に掲げると、彼はいつもと同じように、不敵な笑みを頬に浮かべた。
「紳士淑女の皆々様!」
 ざんばらに切った癖のある黒髪に、先程まで舞台に立っていたエヴァンジールの立ち居振る舞いとは打って変わった、放胆な少年の笑み。それを見るや観客達は、甲高い声を上げ、あるいは野次を飛ばすような太い声を上げ、喝采の中に悲劇のヒロインではなく、役者のシモンを歓迎する。
「今宵、お目に掛けましたのは、悲劇のエヴァンジールの物語。このような弱小劇団の、三文芝居に金を落として下さる、酔狂なる皆々様にはぜひとも、愛をもって抱擁とキスを差し上げたいところでございます」
 「お前が本物のエヴァンジールなら、ぜひとも願いたいところだがね!」聞こえてくる幾つもの野次に、シモンは笑顔で手を振った。そうして他の役者達が挨拶を述べるのを横目に見つつ、ふと、客席の最前列、ともすれば幕に隠れてしまいそうなほど端の席へと視線を向ける。
(ああ、……今日も無理だったのか)
 熱を帯びる観客達など素知らぬ顔で、ぽかりとひとつ、空いたままになった席がある。シモンのためにと団長が配慮して、用意してくれた特別席だ。
 今朝は具合が良い様子であったのに、また発作が出たのだろうか。
(リンゴを買って帰らなきゃ)
 摺り下ろして飲ませてやったら、きっと『彼』は喜ぶだろう。そんな事を考え、半ば上の空にながら、周囲に混じって舞台を降りる。すると興奮冷めやらぬ様子の男が、明るく笑ってシモンの肩を叩いた。演出家のヒレルだ。
「いやあ、今回も最高だったぜ! お前の演じる薄幸の美女は、相変わらずそそるなぁ。本物の女より、ずっと美しいとさえ思っちまうぜ」
「おやおや、困った演出家さんだ。俺の正体など、あんたはようくご存知だろうに」
 無精髭の生えたヒレルの顎に手をかけ、妖艶な笑みを浮かべてやれば、相手が「かーっ!」と奇声を上げる。それを横目に通り抜け、頓着しない手つきで、己の纏ったドレスを脱ぎ捨てた。胸元の空いたシャツを羽織ると、するりと椅子に座り込む。同時に、劇場の外で販売していた軽食の残りを失敬するのも忘れない。片足を隣の椅子に乗せ、ラフな格好で、すっかり冷めた串肉を頬張っていると、狭い舞台裏を忙しく駆け回る道具係が、照明係が、そして衣装を変えた共演者たちが、口々にシモンをねぎらった。
 このシモンという名の少年は、ガリラヤ劇団一の人気『女優』であった。
 線の細い指に、白い肌。洗練された立ち居振る舞いに、たおやかな笑い方。女が舞台に立つことを良しとされないこの世の中にあって、シモンのように女優を務める少年俳優は多く存在するものの、これ程までの完成度に達した者は他になかなかいないだろうと、シモンは常々自負している。
「まさかお前が、役者としてここまで化けるとはな」
 そう言ったのは、先輩俳優のグールドである。「まあね」と口内の食べ物を押し込みながらシモンが言えば、「自信家なのは、相変わらずだ」と彼は笑う。
 シモンがこの劇団と出会ったのは、まだ両親が存命であった八つの頃のことであった。そのときに観たのがどんな演目であったのか、シモンは覚えていなかったが、両親と兄の家族四人で、シモンはこの劇団の舞台を見に訪れていた。華やかな衣装に飾り、美しい言葉の連なりに、シモンは、――シモン達兄弟は、すぐさま舞台の虜になった。
 田舎町の廃れた劇団だ。実際の舞台は所々が黴びていたし、道具も衣装もちゃちなものばかりであった。だが幼いころのシモン達は、まるで魔法にかけられたかのように、そこに輝かしい楽園を見出したのである。
「お前が『俺に演らせろ』って押しかけてきたときは、驚いたけど」
「またその話か? これだからおっさんは、思い出話が多くていけねえや」
 馬車の事故で両親が死んだ十二の頃、わずかながらの遺産と共にこの世に取り残されたシモンとその兄は、二人きりで力を合わせて生きていかねばならぬ身の上となった。当時十六になったばかりの兄は生まれつき身体が弱く、また、ただでさえ遺産を巡っての親戚とのやり取りで、疲弊しきっていた。彼を支えるためにも、自分自身が食べていくためにも、シモンは早急に職を得なくてはならず、そうなってふと思い出したのが、――この劇団のことであったのだ。
「拾ってくれた団長にも、育ててくれたあんた達にも、心底感謝してるよ」
「はは、たまには可愛いことを言うじゃないか。ああ、ところで――お前の兄貴、結局今回の公演には、一度も顔を見せなかったな。お前の演技をいつもあんなに楽しみにして、毎日のように通ってきてたのに。昔から身体は弱かったが、最近また酷くなってるんじゃないのか」
 問われて、シモンは曖昧に頷いた。最前列の空席はいつだって、シモンのたったひとりの兄のためにあった。この劇団の人々は、みなそれをよく知っているものだから、こうして続けて席の主が訪れていないのを見るや、シモン以上にそれを心配して、兄はどうしているのかと、寄ってたかってシモンに問うのだ。
 「でも、まあ、……いつもの事だから」うまい言葉が見当たらないままシモンが言えば、グールドは眉をひそめてこう返す。
「そう言わず、早く帰ってやりな。臥せってるならなおのこと、お前の顔が見たいだろう」
 果たして、そうだろうか。内心でのみ自問して、しかしシモンは己の問をおくびにも出さず、「そうだな」と微笑んだ。善意から心配をかけてくれる人々に、余計なことを言ってはならない。シモンの内心の葛藤など、この善人には、ちっとも関係のないことなのだから。
 手元のグラスにワインを注ぎ、口の中のものを押し流す。そうして席を立ち、同時に、シモンはひとつ、咳払いをした。舞台の間は声を張らせて凌いだものの、最近、どうにも喉の調子がおかしいのだ。
 「風邪か?」問われて、シモンは首を横に振る。「いや。ここ最近ずっと、喉の調子が悪くてさ」それだけのことだ。しかしグールドが何気なく続けたその言葉に、彼は思わずぎくりとした。
「声変わりか?」
 恐れていたその言葉に、シモンは慌てて「まさか」と返す。
「俺、こう見えてもう十七だぜ? 今更変わらないだろ」
「だがまあ、個人差ってのがあるからな。渋い低音が出るようになったらおまえ、演れる幅が広がるぜ」
 人のよい笑みを浮かべて言う相手に、シモンはまた曖昧なまま笑みを返した。そうして余り物の軽食を鞄に詰め、団員達に声をかけると、そそくさと劇場を後にする。
(渋い低音だって、……? やめてくれ、冗談じゃない)
 演技の幅が広がるなどと、よくぞ言ってくれたものである。幅が広がるのではない。今までの演技が通用しなくなるのだ。十三で入団してからのち、シモンは今まで女優として、女の役ばかりを務めてきた。元は劇団内にそれを演じる人数が少なく、素人であったシモンにも演技を許されたからこそ始めたことであったが、しかしシモンにとっても、その役割は天職であった。
 ドレスを纏い、カツラを載せて舞台にあがるシモンは、その瞬間から『シモン』とはまるきり違う、別の生き物になれる。当たり前のように息をして、物を食べて生活するシモンとは、一線を画した何かになれるのだ。
(俺が演じるのは『女』じゃない。『観客達が求める理想の女』だ。それを演じるために、どれだけ努力をしてきたか――。男の役だって、やれと言われればやってみせる。けど、)
 異物ならば演じきれる。しかし、似て非なる物ならば、どうだ。
 溜息を吐いてとぼとぼと、暗闇の町を歩いてゆく。冬を迎えたこの町に、ひゅるりと細い北風が吹く。熱気に包まれていた劇場とは大違いの、物枯れた寂しい道である。外套の裾が風になびくのを感じながらしばらく歩き、シモンは途中、馴染みの果物屋の扉を叩くと、そこで幾つかのリンゴを買った。
(――似て非なる物を演じるのは、骨が折れる)
 最後にひとつ、深い溜息。シモンは自宅の扉に手をかけると、「ただいま」と声をかけた。
「おかえり、シモン、」
 シモンの名を呼ぶ声が聞こえたが、言葉はそれに続かない。激しい咳が遮ったのだ。「イサク、大丈夫か」逆にシモンが声をかけ、リンゴを無造作に机へ置く。狭い室内から延びる梯子を駆け上がれば、暗い室内に人影がひとつ転がっていた。寝台から這い出たような姿勢で床に手をつき、肩を揺らして咳き込むのは、シモンの兄、イサクである。
「落ち着いて。ほら、水を飲んで、……今日の薬は飲んだの? 食事は?」
 イサクの側に跪き、彼の背をさすってやりながら、出来る限りの穏やかな口調でシモンは言った。差し出された水を飲む兄の姿はいかにも弱々しく、しかし医学の心得のないシモンには、彼に処方された薬を飲ませ、こうして背をさすってやるくらいのことしかできやしない。
 その代わり、ようやく顔を上げた兄と目が合うと、シモンは存分に、気遣わしげな笑みを浮かべてみせた。
「イサク、無理せずもう休みなよ」
「大丈夫、薬も飲んだし。夕方頃、熱が出てしまったんだけど、それも随分収まってきたところなんだ」
 そう語るイサクの顔は、しかし依然として青白い。手を貸し、寝台に座らせてやると、彼もようやく人心地ついた様子であった。
 ふと見れば、足元に小振りのナイフが転がっている。イサクのものだ。床に臥せがちな兄は、このナイフで紙に模様を刻み、図案通りに切り絵をこしらえる内職をしては、商人を通じてそれらを売っているのだ。今日も発作が出るまでは、ここで作業をしていたのだろう。
「あまり根を詰めるようなことは、するなって医者に言われてるのに、……」
 シモンがそう呟いた声は、イサクの咳に掻き消された。だがどうせ、この声が届いていたところで、イサクはシモンの言うことなど、ちっとも聞きやしないだろう。
「リンゴを買ってきたんだ。摺り下ろすから、少し待ってて」
「……いつもごめん、シモン」
「気にするなよ。そうだ、劇場の余り物も貰ってきたんだ。パンもあるし、少しだけどワインもある」
「そうか。それは、ありがたいな」
 シモンが背を向けると、この兄はようやく、ふふ、と微かに笑い声を上げた。自嘲の色の滲む声。シモンはそれに振り返らぬまま、リンゴを手に取りその皮を剥き始める。
「エヴァンジール。結局最後まで、舞台の君には会いに行けなかった」
「あら、気になさることはございませんわ。お兄様はいつだって、この家でわたくしと会っておいでですもの」
 おどけた口調でシモンが返せば、「聞けたのはおまえの台本読みだけだ」とイサクが苦笑する。
「でも、シモン。お前が今回も、喝采の拍手を浴びてきたっていうことは知っているよ。舞台でのお前の堂々たる振る舞いといったら、誰だって脱帽せずにはいられないんだから――。悲劇のエヴァンジールが迎える結末は切ないけれど、悲しさの中にも芯の通った強さがある、そういう彼女をお前は演じたはずだ。閉幕と同時に観客みんなが立ち上がって、熱気の籠もった劇場内で、口々に、称賛の声をあげたんだろうな。それを見たお前は笑顔で、冗談でも飛ばしながら、観客たちに手をふるんだ」
 半ば目を閉じて、夢想するように言うイサクの手に、リンゴを摺り下ろしたカップを渡してやる。「まるで見ていたかのように言うんだな」穏やかな口調を取り繕ってシモンが言えば、イサクは咳き込みながら、しかし、ようやく明るく笑ってみせた。「わかるさ」と告げる彼はなにやらこざっぱりとしており、その瞬間だけは、痩せ過ぎて骨ばった指も、色の悪い顔も、何やら力を帯びて見えるのだ。
「わかる。淵の神様達が、こぞって噂話をしていたからね」
 淵の神様。この土地に古くから伝わる、土着信仰の神のことだ。昼と夜の淵、空と大地の淵、家と外の淵、二つのものを繋ぐ淵というすべての淵には、そこに神が住まうと言う。
 今では信じるものもいない、伝説の類の存在である。だが、兄は、――
「お前も知ってるだろう? 彼らは賑やかなことが好きだからね。お前の舞台があると聞けば、みんなして見に出かけるのさ」
 兄の目には、その神々の姿が見えているのだと言う。
 イサクがその話を始めたのを見るや、シモンは薄く笑うと、何気ない風を装って彼に背を向けた。棚から薬包を出して、いつもどおり、発作が起きても手に取りやすいように並べてやる。しかしそうするシモンの態度など気にした様子もなく、イサクは続けてこう語り出す。
「淵の神様はみんなお前の演技が、……お前のことが、大好きなんだって。だから俺も、いつも彼らに頼むんだよ。そんなにシモンのことが好きなら、不幸が起こらないように、シモンが困った思いをしないように、どうか見守ってくれってね」
 水瓶からいくらか水をすくい、薄布を濡らして軽く絞る。懸命に『淵の神達』のことを語る兄の口調は弾んでいたが、まだいくらか熱っぽい。その額に濡れ布を置き、もう横になるようにとシモンが促せば、イサクは名残惜しげに、しかしうわ言でも口にするかのように、「大丈夫だよ」と呟いた。
「だからシモン、大丈夫だ。淵の神様達が、いつだってお前のことを守ってくれるんだから」
 「――そうだな、イサク」そう言って、シモンは微笑んだ。そうしなくてはならないのだから、せめて、うまく微笑んだつもりであった。だがシモンの意に反して、取り繕った微笑みは、そう長くは続かない。
 舞台の上でならいくらでも、もっと完璧な笑みを演じることができるのに。そう考えてイサクに背を向け、シモンは音を伴わないよう細心の注意をはらいながら、細く深い溜息を吐く。
「淵の神様達は、俺達のこと、ずっと見守ってくれてる――」
 弱々しいイサクの声が、ぽつりとそう呟いた。
 
 イサクがその得体の知れない神々を語るようになったのは、シモンとイサクの兄弟が、唐突に最愛の両親を喪った頃からのことである。
 事故が起きたのはある冬空の、よく晴れた日であった。学者であった父親が、都で講演を行うこととなり、母と連れ立ち都を目指していた最中である。馬車が進むべき方角を誤り、細い山間の道に入ってしまった。引き返そうとしたところで落輪し、そのまま馬車諸共、二人は山間に消えていった――。
 両親の葬儀が終わる頃には、シモンもイサクも、これからは兄弟二人きりで生きていかなくてはならないのだということをよくよく理解していた。遠い街に住む親戚たちの関心事は、おおよそ両親の遺した遺産についてであり、シモンやイサクを引き取って育てようなどという声は、ついに一度も上がらなかったのだ。
「大丈夫だよ、シモン」
 幼いシモンの手を取って、まだ少年であったイサクは、「大丈夫だよ」と何度も何度も言い聞かせた。
「シモンのことは俺が守る。それに、……ほら、シモンにも聞こえるか? 淵の神様達だって、応援してくれているだろう?」
 はじめは何か、比喩のつもりでそういう話をしているのだろうかと思ったが、この兄は事に触れ、まるで本当にその場に何か、シモンには見ることのできない生き物が存在しているかのように、振る舞うようになっていた。
「淵の神様達が噂していたよ。シモン、お前劇団の古株に褒められたんだって?」
「こんな暑い日は、木の実を絞ったジュースを飲むのがいいって? シモン、聞いたかい? 今日は奮発して果物を買って、特別美味しいジュースを作ろう」
「叔母さん達も、悪気があるわけじゃないんだ。神様達もそう言っているだろ? だからシモン、彼らを恨んじゃいけないよ」
 それがあまりに真実らしく、日常的に語られるものだから、もしかするとこの兄には、本当にそれらの姿が見えているのではないかと考えたこともある。だがそれとなく周囲の人々に探りを入れてみても、シモンがどんなに目を凝らしても、その存在を目にすることなどできないのだ。
(きっとある種の、現実逃避なんだろう)
 弟とたった二人で取り残され、親戚たちから搾取され、思い出の残る古い屋敷を出て、小さな貸家に移り住んだ。元々病弱であった兄の身体は年々容赦なく衰えていき、最近では、切り絵の内職もままならない。
 気の毒な兄だ。気の毒で、そして優しい兄だ。こんなに弱っても、まだシモンのことを気にかける。シモンの兄でいようとする。
(イサクに負担をかけないために、劇団内で主役を任せられるようになるまで努力した。他所の町から通ってくるパトロンだって居るくらいだ。生活費だってイサクの薬代だって、俺一人の収入で十分に賄える。けどイサクにとって、俺は……いつまでも、守らなきゃならない弟のままなのか)
 優しい兄だ。それはわかっている。けれど。
(イサクは弱い。身体だけじゃなく、……心が)
 イサクは現実を見ようとしない。シモンと話しているときですら、結局の所彼が語りかける相手はいつだって、目にも見えない不可思議な世界の住人達ばかりなのだ。
「疲れた」
 小さく、小さく、声をひそめて呟いた。
(もう疲れた。似て非なる物を演じるのは、――『良い弟』を演じるのは、本当に、本当に、)
 骨が折れる。
 いっそシモンにも、イサクと同じものが見られたなら、と思うことがある。優しく弱い兄が言うことを素直に信じられたなら、どんなにか穏やかに過ごせるだろう。しかし不幸なことに、いつだって彼の目に映るのは、ただそこにある現実ばかりなのであった。
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