シメオンの聖卓


【中編】

「今日は一段と冷えそうだ。暖かくしていきなよ」
「イサクこそ」
 外套の襟を立て、首元を縮こまらせるようにして家を出る。石畳のくぼみに張った、てらてらと輝く水たまりを踏み抜けば、そこに張った薄ら氷が、静かな感触をもってぱきりと割れた。イサクが共にいたなら、彼はなんと言っただろう。「そんなふうに悪戯をして、淵の神様を驚かせてはいけないよ」とでも言っただろうか。
 悲劇のエヴァンジールを演じ、楽日を迎えたのが、まだ一昼夜も経ない昨晩のこと。だが一つの舞台を演じ終えたからといって、いつまでもその余韻に浸っているわけにいかないのが、弱小劇団に属する者の宿命である。
 まずは道具係を手伝って、昨日までの舞台の片付けに走らねばならない。それが終わってはじめて、次の舞台の打ち合わせをし、稽古の傍ら、衣装の買い付けをしたり、宣伝のために広告を持って練り歩いたり、こなさねばならぬ事は山とある。
 咳払いをし、喉の調子を整えて、自宅へ帰る以上に遠慮無く劇場の扉を開く。四年間通い続けたその職場は、今日もいつも通りにシモンを迎え入れてくれるはずだ。そう思っていた。しかし、
「だ、団長! シモンが来ましたよ!」
 慌てた様子の男の声。役者仲間のハイムだ。驚いたシモンがその声の主を視線で捜せば、劇場の奥、舞台のすぐ手前に、数人の男がたむろしている。ハイムの他に、団長のシュムリ、演出家のヒレル、それから、――黒いシルクハットを被った、身なりの良い、見覚えのない男が二人。
「ほう。こうして見ると、すっかりただの少年のようだ」
「それだけ演技力がずば抜けているということでしょう。昨晩のエヴァンジールは、頭の天辺から爪先まで、本物よりも本物の少女らしい振る舞いでしたから」
 昨晩の舞台を見たということは、客だろうか。しかしすぐにはそうと問えないまま、シモンがおずおずと歩み寄れば、団長のシュムリは喜ぶでもなく詰るでもなく、まずシモンのことを手招きした。
「お前に客だ」
「……、俺に?」
 眉をしかめてそう問うて、シルクハットの男達に会釈する。すると彼らは笑みを浮かべ、「君を待っていたよ」とそう言った。
「ガリラヤ劇団の女優の噂は以前から耳にしていたが、昨日の舞台は本当に見事だった。君、どこかで演技の指導を受けたことはあるか?」
 問われて、シモンは尚更困惑した。演技の指導というものが、一体何を指しているのか、すぐにはぴんと来なかったのだ。演出家の希望に添うように演技をするのは当然のことであるが、わざわざそんな事を問うたわけではないだろう。しかしシモンがヒレルへ視線を送れば、ヒレルはひとつ小さく息をついて、「自己流ですよ」とシモンの代わりに答えてくれた。
「シモンの演技は、完全にこいつの自己流です。そりゃ、舞台での最低限の作法は教えましたがね。本物の女の動きを観察して、台本を読み込んで、空想の物語の中に描かれた女の一挙一動を、自分の力で現実の物として練り上げているんです。この低い鼻で敏感に、客が何を求めているのか嗅ぎ取りながらね」
 低い鼻、は一言余計だ。しかしシモンが文句を言うより早く、「それは凄い」と男達が顔を見合わせる。値踏みするようなその態度に、シモンはより眉根を寄せた。ちっとも話が見えてこない。先程から、一体何だというのだろう。
「自己紹介が遅れて、申し訳なかったね」
 相手もどうやら、シモンが訝しんでいることに気づいたらしい。シルクハットの片方がそう言って、敵意がないことを示すかのように、にこりとシモンに微笑んだ。そうして彼は恭しげに片手を差し出すと、シモンに向かってこう言ったのだ。
「私達は、都にあるマクペラという劇団の人間でね。次の演目で助演を務める女優を探しているんだが、君にもぜひ、オーディションに参加してもらえないかと思ってね」
 マクペラ劇団。その名を聞いて、シモンは思わず後ずさる。都に劇場を構える大劇団。王室御用達との噂も聞くその劇団の名を、同じく演劇に携わる人間が、まさか知らないはずはない。
 困惑したまま、ちらと団長のシュムリに視線を向けた。演技などずぶの素人であったシモンを拾い、舞台に立たせてくれたこの恩人はそれを見ると、ひとつ大きな溜息を吐く。
「……行ってこい、シモン。どんな結果になったとしたって、お前の経験になるはずだ。お前が実力で勝ち取った機会を、最大限に活かせ。後悔するような真似だけは、絶対しないようにしろ」
 
 慣れた道を大股で駆け、先程踏み抜いた水溜まりの横を疾く抜ける。気が急いていた。一刻も早く、事の次第を伝えなくては。
「イサク、――イサク!」
 大声で呼び、音を立てて我が家の扉を開け放つ。しかし中からは何の反応もないのを見て、シモンは些かぎくりとした。身体の弱いあの兄が、家の中で倒れてでもいるのではないかと思い、瞬時に、己の身を案じたのだ。
(冗談じゃない)
 ここでイサクになにかあったとなれば、シモンはまた彼の看病に時間を取られることになる。だが今は、そんな場合ではないのだ。シモンは今まさに己の力で、――新たな道を、切り拓かんとしているところなのだから。
 慌てて梯子を駆け上がり、しかしそこにも、イサクの姿が見当たらないのを確認する。そうしているとふと、階下から女の声がした。
「さっきからやけにバタバタと、一体どうしたんだい、シモン。イサクならさっき、市場の方へ出かけていったよ」
 隣の部屋に住む、世話好きのリブカおばさんだ。それを聞いてシモンも、先程イサクが内職の切り絵を手にしていたことを思い出す。そういえば、今日はその納品の日であったはずだ。
(元気でいてくれることは、助かるけど、……)
 今は如何せん時間がない。仕方がない、イサクには手紙を残しておこう。そう判断するや否や、シモンは梯子を颯爽と下り、去ろうとするリブカにこう言った。
「すみません、その、数日だけ……、たまに様子を見てもらうだけで良いので、イサクのこと、お願いできませんか」
「そりゃ、別に構わないけど。あんた、どこかへ行くのかい?」
 問われ、シモンは満面の笑みを浮かべてこう言った。「都へ」声が思わず弾んでいる。落ち着かなくてはと思うのに、己の心を御しきれない。
「都へ行くんです。数日、いや、もしかしたら数ヶ月」
「行くって、今から?」
「そう、今から!」
――私達はこれから都へ戻るのだが、よければ一緒にどうだい? オーディションは一月後なんだが、その前に一度くらい、私達の劇場を見ておいても良いだろう。まあ、突然の話だからね。無理にとは言わないが。
 マクペラ劇団からのその申し出に、一も二もなく頷いた。都までは馬車で二日程度。都自体にはこれまでに何度か訪れたこともあったが、マクペラ劇団の劇場に足を踏み入れる機会など、今までにはおよそなかった。張り巡らされた赤い絨毯に、豪奢なシャンデリア、天井は全て金で縁取られているというのは本当だろうか。ずっと噂には聞いていた、雲の上の舞台。まさか自分が、そんなところへ、招かれて訪れる立場になろうとは。
(あの人達は、俺の実力を認めて、声をかけてくれたんだ)
 助演女優のオーディション、受けて立とうではないか。団長もああ言って背を押してくれた。ガリラヤ劇団一の人気女優の実力を、シモンの実力を、都でも存分に見せつけてやろうではないか。
「マクペラ劇団で、役をもらえるかもしれないんです。だからとりあえず数日だけ都に行って、もしオーディションに受かれば、そのまま数ヶ月は戻ってこられないかも」
「マクペラって、まさか都の劇団かい? あんた、凄いねえ。あそこは国王陛下ですら通うっていうんで有名だよ。そんなところで上り詰めたら、あんた、貴族のような生活ができるかもしれないねえ」
 リブカが言うのを聞いて、シモンはなおさら気を良くした。彼女はシモンたちがこの貸家に移り住んだ頃から何かを気をかけ、シモンの舞台を見に来てくれたこともあるが、演劇については初心者だ。そんな人ですら、マクペラ劇団のことは知っているのだ。
 戸棚をあけ、着替えなど最低限の生活用品を引っ張り出す。気の利くリブカが自宅から持ってきてくれた布の鞄を広げて、そこにひとりで、どんどん荷物を詰めていく。
 イサクには、どんな手紙を残していこう。シモンの演技を賞賛する彼は、それが都の人々にまで評価されたことを、喜んでくれるだろうか。
 今度こそ、シモンを頼ってくれるようになるだろうか。病弱なくせに無理をして、いつまでもシモンの兄でいようとする彼は、――今度こそ本当の意味で、シモンを認めてくれるだろうか。
 ペンを取り出したが、インク壺が見当たらない。机にペンを置いたまま、インクを探していると、かつんと涼やかな音がした。ペンが転がって、床に落ちてしまったのだろう。しかしそれを拾おうと振り返り、シモンは思わず瞠目した。
 ペンを拾う必要は、最早なくなったようであった。そこにゆらりと現れた人影が、黙したまま、ひょいとそれを拾い上げたからだ。
「イサク、……」
 現れたのは、イサクであった。どうやらたった今、出先から戻ってきたらしい。シモンは彼に告げるべきことを告げようとし、しかし何故だか言葉が続かないまま、ただその場に立ち尽くす。
 そこにいたのはイサクであった。いつもどおりの兄であった。だがその表情は陰鬱で、視線は床に落ちている。
「何してるの」
 問われてから、はっとした。そうか、イサクからすれば、いつもなら劇場で仕事をしているはずの弟が、突然戻ってきて旅支度を始めていたのだ。それは当然驚くだろう。
 説明をしなければ。しかし何やら悄然とした様子のイサクを前に、うまく言葉が出てこない。
「イサク、その……実はさっき劇場に、マクペラ劇団の人が来て、俺に、オーディションを受けてみないかって、」
「うん」
「だからそのためにも、しばらく、……都へ行く必要があって」
「そう」
 気の入らない様子で、イサクがそう言い椅子に腰掛ける。一体何だというのだろう、いつもの様子と随分違う。
「都は嫌いだよ、俺は」
 イサクがぽつりと呟いたのを聞いて、シモンが思わず聞き返す。すると不機嫌なこの兄は、もう一度、「都は嫌いだ」と繰り返す。
「父さんも母さんも、すぐに帰ると言っておきながら、都へ行ったきり戻ってこなかったじゃないか」
「それは、……都のせいじゃない、事故のせいだろ。事故のせいでふたりとも帰ってこなかったんだ。俺は大丈夫だよ。別に都へだって、初めて行くってわけじゃないし」
「けどオーディションがうまく行ったら、しばらく戻っては来ないんだろう」
「そりゃ、そうだけど……。もし都でうまくいくようなことがあれば、イサク、俺たち二人で、一緒に向こうへ移り住んだっていい。――そうだ! それがいいよ。イサクだって切り絵の仕事なんて辞めてさ。お前が辞めたがらないから、仕方ないと思ってたけど、本当はほら、あんまり根を詰めて何かをするの、よくないんだろ? 内職を辞めたら身体の具合だって、少しは良くなるかも」
「俺はいいよ。淵の神様達のこと、置いてはいけないもの。……大体、」
 突き放すような物言いに、シモンは完全に当惑していた。何故イサクは、先程からこんな風なのだろう。シモンは何故この兄に、こんな風に邪険にされなくてはならないのだろう。
「大体何をしようが、俺の身体が良くなるなんて、今更、少しも思っちゃいないくせに」
 イサクが呟いたその言葉に、胸の内が掻き乱される。
 「そんなこと、……」咄嗟に否定しようと思うのに、うまく言葉が続かない。だがこの兄に、一体何がわかるというのだ。そう思えばシモンの腹の中に、ふつふつと、怒りの種が湧いて出た。
 己の努力を、評価されたことが嬉しかった。理解されたことが嬉しかった。そしてこの兄ならばきっと、シモンの喜びに共感してくれるはずだと、シモンはそう信じていたのだ。
 それなのに。
「ふふ、……聞いたかい? シモンもここを出ていってしまうんだって。いつかそんな日が来るかもしれないとは思っていたけど、こんなに急のことだなんて」
 ふらりふらりと歩きながら、イサクがまた語り出す。彼の言葉の先にあるものは、既にシモンではなくなっていた。
「うん、……うん。けど、頼むよ。俺達のこと、見守ってくれると言ったじゃないか。俺はいけないよ、都までは遠いもの。頼むよ、誰かシモンについて行ってやってくれよ」
 懇願するような声。ああ、イサクはまた例の、得体の知れない神々に語りかけているのだ。そう考えれば震えが来た。
 おまえはまたそうなのか。
 そうやって、また現実から逃れるのか。
――俺の身体が良くなるなんて、今更、少しも思っちゃいないくせに。
 今しがた聞いたその言葉が、シモンの中で燻っている。お前に何がわかるのだ。こうしてシモンの前にいながら、しかしシモンに一瞥も与えようとはせず、空想の中の有象無象と語るお前が、
 一体何を、わかったつもりでいるというのだ。
 気づかぬ内にシモンは、イサクへと手を伸ばしていた。梯子を登りかけたイサクの腕を鷲掴みにすると、力任せに引きずり下ろす。イサクの顔が苦痛に歪んだ。それを見て、いい気味だ、とシモンの心が暗く湧く。
 いい気味だ。さあ、よく見ろ。これが今のお前の弟だ。ガタイはけっして良くないが、お前よりも背が高く、力があり、社会に確固たる居場所を持った、これが、――これが今のシモンの姿だ。
 思い知るがいい。幼いころにお前が見た無力な弟の姿は、お前の庇護を必要とする弱い弟の姿は、もうここにはないのだと。
「俺と話せよ、イサク。神様だとかなんだとか、そんな話はもう十分だ。居もしないものに語りかけて、在りもしない力を借りるような事を言って、――そんなチャチな演技をしてまで、いつまで保護者ぶるつもりだ」
 目を合わせようとしないイサクの肩を両手で掴み、その双眸を睨みつける。
「……、居もしないもの?」
 イサクの肩が震えている。それでもシモンは、己の言葉を止められなかった。
「そうさ。お前が普段話しかけているものは、全てお前の空想の中の生き物なんだよ。どうして現実を見ようとしないんだ。どうして現実を生きてくれないんだ」
 イサクの目が、ようやくシモンの目を捉えた。それでいい、どうかそのまま、目を覚ましてくれとさえ思う。だがしかし、
「俺の言葉、……ずっとシモンは、信じてなんかいなかったんだね」
 静かな声でイサクは言った。不気味さを覚えるほど、それは静かな声だった。
 静かでか弱い、――厳かな声であった。
 「そうさ」被せるようにシモンは言った。イサクの言葉に、イサクの視線に飲まれてしまう前に、すべてを言ってしまわなくてはならなかった。
「今まで、お前に話を合わせてやっていただけだ。淵の神様? なんなんだよ、それ。お前は何に縋ってるんだ」
「シモン。お前は彼らのこと、知らないっていうの」
「そうだよ、俺は知らない」
 そう呟いたシモンの言葉は、酷く陰鬱に沈んでいる。
 続く言葉を発してはならない。これ以上貶めてはならない。頭のどこかで、シモンはそれを理解していた。
(貶める? 一体何が貶められるっていうんだ。俺の言葉に偽りはない。ずっと思ってきたことだ)
 そう、ずっと、心の中では思い続けてきたことだ。今、ここでそれを吐露して、何が悪いというのだろう。何が変わるというのだろう。何も変わらない。ああ、ああ、胸のつかえがとれていく、――
「俺は知らない。その存在を信じてすらいない。あんたの妄言に付き合わされるのは、もうまっぴらだ。勝手にしろ! ああ、そうとも、俺は知らない! 俺は知らないからな!」
 眼前に立つその男が、悄然とした表情で目を見開く。まなじりにかけてきらりと光るものがあった。
 涙。
 何故泣くのだ。何故そんなにも簡単に、己の心の内の痛みを、表に出せてしまうのだ。
 お前のその素直故に、今までどれ程の我慢を強いられてきたことか!
「すまなかった」
 ぽろぽろと涙をこぼしながら、血を分けたシモンの唯一の兄は、両手で静かに、己の顔を覆い隠す。
「わかった。わかったよ、シモン。もういいんだ、お前は自由にするべきだ。……もうこれ以上、俺の『嘘』に付き合う必要はない」
 嘘、とイサクは明言した。それを聞けば何やら急に、シモンの熱が冷めていく。
 嘘であったと、兄が認めた。
(そうだ、俺が認めさせたんだ。けど、……けど)
 この、釈然としない思いは何だ。
――父さんも母さんもいなくなってしまったけど、でも大丈夫。俺にはシモンが居るもの。おせっかいな神様達も、俺達を見守ってくれているしね。
――お前がにんじんを残すから、ほら、そこで淵の神様が泣いているじゃないか。ちゃんと食べないと大きくなれないぞ。
――シモンは凄いな。シモンの演技を見ていると、まるで自分まで、その舞台の中に迷い込んだような気持ちになれる。みんなもそう言って、シモンのことを絶賛していたよ。
 ぽっかりと胸に穴が空いたようにさえ思われるのは、一体、何故なのだ。
「もう行きな、シモン。お前のこと、待ってる人がいるんだろう」
 穏やかな兄の声が、そっとシモンの背を押した。
「さっきはいじけたことを言ってごめん。でも、――俺はお前のこと、応援するよ」
 神様達もそう言ってる、と、いつもなら続くであろうその言葉は、ついぞ聞こえてこなかった。
 涙を拭ったイサクが、おずおずとシモンに笑いかける。それを見てシモンは、ようやく、己のしたことに気がついた。
 己のために旅立つシモンは、この家にたったひとりで残されるイサクから、彼の家族をすべて奪ってしまったのだと。
 
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