吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

065 : BIRTHDAY -1-

 五六八二年、ヨンゴの月十六日。昼を迎えた首都スクートゥムは、その旅人の出現にざわめいた。
 もともと落ち着きのない日であった。翌十七日は新王の即位式が行われる運びになっており、その式典準備のため、あるいはそれに乗じた商売や観光のために、町はごった返していたのだ。
 町の至る所に、この国クラヴィーアの国旗が翻っていた。その下を見ればまた、商人たちの出店が軒並み連ねてひしめいており、色とりどりの品物が並べられている。大通りには花が並び、春の風景と喧騒の中に暖かな色合いを添えていた。
 祭の準備も着々と整いつつある、慌ただしい町の中。しかしそこに、明らかに異質な雰囲気をまとった二つの人影があった。
 一人は毛並みのいい立派な馬に乗り、もう一人はその手綱を引いて歩いている。どちらもまだ、年若い。
 彼らが脇を通りすぎると、人々は誰しも口をつぐんで立ち止まり、何事かと彼らを振り返った。それ程彼らの出で立ちは異様であり、また、人々の興味をひいたのだ。
「どこか、他国からの使者か何かか?」
「まさか。一国の王が新たに立とうって祝いの席に、あんな貧相な使者をたてるもんか」
「貧相とは言っても、それは数の話だろう? 見てご覧よ、あの、騎上の人」
 町の人間が、囁くようにそう話す。しかしその言葉を待たず、彼らの視線は既に、ただ一点へと集まっていた。
 格式高い白のマントに、細くたなびく白金の髪。跨る馬はつややかな栗毛色をしており、被せた鞍には金の刺繍がなされている。眼前の王城を睨み付ける碧の双眸は強い決意をたたえており、その佇まいは成長途中の小柄な外見には似合わない、ある種の迫力に溢れていた。
 また、その少年がふと何かを訪ねるように、馬を引く青年へ話しかける。応じる青年の態度は落ち着き払っており、年齢からすればいささか渋すぎるようにも思われる、青褐色の上衣を着こなしている。
 よくよく見れば二人のどちらも、わずかに露出した肌は青痣や擦り傷だらけ、衣服もいくらかくたびれていた。しかしその振る舞いは毅然として、少しの影も落とさない。
「あの、旅のかた」
 あるひとりの勇気ある少女が、人集りから声をあげる。しかし人々がすっかり脇によけ、広くなった道を進む二人には、始め、彼女の声など届いていないように見受けられた。
「あの……っ」
 少女がもう一度呼びかける。すると不意に、騎上の少年が振り返った。
「何か?」
 続いて手綱を引いていた青年が、そして馬が、ゆるゆると足を止める。すると少女は弾き出されるように町人の集団から歩み出て、恐る恐る、手にしていたハンカチを差し出した。
「お顔の傷から、血が……」
 聞いて騎上の少年は瞬きして、手の甲で自らの頬に触れた。確かに、乾燥にいくらかささくれ立っていた傷が血で滲んでいる。
 少年はひらりと馬を降りて、彼女の手からハンカチを受け取った。そうして「ありがとう」と微笑むと、馬に背を向け歩き出す。
「まだ、少し距離があるぞ」
「いい。スクートゥムを、自分の足で歩いてみたかった」
 聞いて、手綱を引いていた青年がやれやれと息をつく。
 その一件で、どうやら町人達の警戒心も薄れたようだった。彼らは好奇心を募らせ少年達の背後を遠巻きに歩きながら、少しずつ仲間を増やして行く。一方で少年達はお構いなしに、真っ直ぐに、ある一点を目指していた。
 首都スクートゥムの中央に位置する王城――この国クラヴィーアの皇王が住まうその場所こそが、彼らの旅の終着点になるはずだった。
 
「そこで止まれ!」
 門番に行く手を阻まれて、アルトは素直に足を止めた。春の日差しが肌に照る。もう随分と長い旅をしてきたような気がするのに、このスクートゥムの春は、予想に反してマラキアのそれとよく似ている。
 そんなことを考えながら前を見れば、立ち並んだ兵の一人と目があった。厚い城壁に囲まれた王城は、さすがに守りも堅牢だ。市街へ開かれた門は広く取られているが、その分、常駐らしい兵も多い。アルトは彼らを一瞥すると、襟を整え、息を吐いた。
 さあ、ここからが本番だ。
「お前達、一体何のつもりだ! 明日には式典が行われるというこの大事な日に、こんな大人数で城へ押しかけて……。恩赦や減税の訴えなら、新王ご即位ののちに願い出るのが慣わしであろう!」
 ちょび髭を生やした兵士が前に立ち、大声でそう呼び掛ける。しかしアルトは落ち着き払って、首を横に振ってみせた。そうして兵達の注意が向いたのを確認してから、麗々しく、口を開く。
「ここに集っている民達のことは、気にしないでくれていい。どうも、私達への好奇心でついてきただけのようだから」
 まだあどけなさの残る少年の、しかしそれを思わせない悠然とした口振りに、兵士の眉間に皺が寄る。アルトはそれを見て穏やかな笑みを浮かべると、間をおかずにこう続けた。
「皇王アドラティオ四世陛下の招致に応じ、馳せ参じた。王への取り次ぎを願いたい」
 言ってマントの胸元をゆるめ、聖地ウラガーノで得た金のチョーカーを見せつける。途端に場がざわめいて、兵士達の顔にも尚更困惑の色が広がっていくのが見て取れた。
 それも当然の事ではある。即位式を翌日に控えたこの期におよんで、第三王子失踪の件はまだ公表されていないらしいのだ。兵士達にしてみれば、まさかこんな時期に、王になろうという当の本人が訪ねてこようとは思ってもいない事だろう。そもそもシャリーアの町での一件を思い返すに、アルトの顔を知っている兵士自体が少ないはずだ。彼らに事の次第を察しろという方が、無理な話ではあった。
 目配せすれば心得たといった様子で、クロトゥラがこう声をあげる。事前に示し合わせたとおりの文言だ。
「御意のままに取りはからえ。この方はクラヴィーアが第三王子、アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア殿下であらせられるぞ!」
 兵達へ詰め寄るような素振りで足を進め、はっきりとした口調で焚き付ける。絶対に舌を噛むから、と直前まで憂慮していた姿とは打って変わった堂々たる態度に、アルトは微笑み、門前へ連なる兵士へと向き直る。
――長ったらしい名前をいちいち呼ばせんでくれ。舌を噛みそうなんだ。
 確か以前にも、そう文句を言った友がいた。そんなことを思いながら、アルトはそっと、気付かず握りしめていた拳をほどく。
(不思議だな)
 平和に過ごした頃を思い返して、どうしてこんなに自然と笑むことが出来るのだろう。そんな疑問が心に落ちる。
 見れば兵士達は事の真偽を問い合うかのように、顔を見合わせ、眉をひそめて話している。しかし誰もが戸惑いの色を見せたまま動こうとしないのを見て、アルトは一度、深く目を瞑った。
 偽者呼ばわりされるにしろ、騒ぎを起こす危険分子と剣を向けられるにしろ、いずれも想定の範疇だ。しかし動きがないのでは、こちらも手の打ちようがない。
「アルト」
 クロトゥラに呼びかけられて、アルトは小さく頷いてみせる。振り返ればそこに、好奇の色に目を輝かせた群衆が集っていた。
――逃げ延びたところで、それだけじゃ反逆者の汚名は拭えない。
 マラキアの闘技場で、演説したときのことを思い出す。
――だけど、ここで覚えのない罪に死ぬくらいなら。
 
 マラキアの人間の無罪を得るためだけに、ここまで駆けたつもりであった。
 宮殿は一部を炎に包まれ、今は国軍に占領されている。
 母の肖像画は奪われた。
 歩み寄ることは出来ずとも、長年顔を合わせていた従兄弟すら、今では敵に回ってしまった。
 それでもアルトは、心のどこかで信じていたのだ。
 
 群衆に向かって微笑みかける。彼らの期待が高まるのを感じながら、アルトは毅然とこう言った。
「お初にお目にかかる。私の名はアーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア。父であるアドラティオ四世陛下の招致に応じ、マラキアより馳せ参じた」
 群衆へ歩み寄っていく。
 指揮を執られた楽師のように、人々がはっと顔を上げた。
「……ところで。我が故郷マラキアでは、所用により旅から戻った同胞のため、最高の食事と休息の場所を用意するのが習わしだった。だが首都では、どうも勝手が違うようだ」
 音をたてて、風が吹く。アルトはかき乱される髪に構いもせずに、ただ、穏やかな口調で彼らに告げた。
「すまないが、ここでの作法を教えてほしい」
 
 信じていた、――願っていた。
 王から、アドラティオ四世からマラキアを取り返すことが出来たなら、人々の無罪を認めさせることが出来たなら、また平和だったあの頃に、戻れるかもしれないと。
 けれどアルトが望んだ平和の中の、大切なものは欠けてしまった。
 気付いてしまった。否、薄ぼんやりとしたあの洞の中で、気付かされてしまっていた。
 戻る道など無いのだと。
 過去は過去に過ぎないのだと。
 そうしてアルトは心に決めた。
 進むより他に、取るべき道はないというなら。
 
 開演を告げる指揮棒が、力強く振り下ろされる。
 
 途端、その場が喧噪に湧いた。民衆は各々何かを悟ったように、目を輝かせ、声をはり上げている。
「この役立たずの門番が! なぜ開門しないんだ!」
「長旅でさぞかしお疲れだろうに、一体いつまで立たせておくつもりだい! 首都警備隊の名折れだよ、恥ずかしい!」
「明日の式典が誰のためのものか、考えてみろ! お前達、一体誰に仕える気だ!」
 この旅人が町へ入った瞬間から、彼らの特異に気付かぬ者はいなかった。たった二人と一騎の行進は、まるで凱旋した軍隊かのような存在感に溢れていたのだ。
 誰もがそれに首を傾げた。そうして旅人の名を聞いたとき、ようやく合点がいったのだと彼らは言う。
 なぜ門を開かない、なぜ要求に従わない。
 ここに佇む少年は、紛れもなくこの国の第三王子、――明日よりこのクラヴィーアに、王として君臨するべき人なのに、と。
「随分な人気じゃないか」
 囁くようにクロトゥラが言ったのを聞いて、アルトは思わず苦笑した。
「俺も正直、驚いてる」
「今までほとんど、顔を見せたこともなかったんだろう」
「ほとんど、どころの話じゃないさ。だけどだからこそ、俺への好奇心と期待とを一緒くたにして、騒いでみるのが楽しいんだろう。平和な証拠だ」
 聞いてクロトゥラが、虚をつかれたように瞬きしたのが見て取れた。アルトが自嘲するわけでも、騒ぎ立てる民衆を見下すわけでもなく冷静にそう答えたのが、どうやら意外であったらしい。
「好都合だ」
 微笑んだまま、無感動な声でそう呟く。
 これだけの騒ぎになれば、兵士達とて内部へ事を伝えに走るより他にない。アルトの不在を知る者へ、すぐに話が通るだろう。
(あとは王の間へ通されるのを、待つだけだ)
 王の間へ。それだけを思って、あの暗い洞から馬を駆った。今のアルトには王の間に辿り着くことが、そしてそこにいるはずのアドラティオ四世に会うことだけが、使命のように思えていた。
 なんとしてでも会わねばなるまい。
 そうしてただ、
 ただ、問いたい。
 右往左往する兵士達に向けて、アルトが一歩踏み出した。すると、その時だ。
 門の向こう側、王城の方に、何やらざわめくものを感じた。慌てふためく人々の声。乗じて精霊達が、なにやら立ち騒いでいる。何事だろうと門をふり仰ぎ、アルトは思わず息をのんだ。
 内側から開かれた城門の中心に、人々を付き従え、歩く一つの影がある。
 泰然自若とした態度で門を出てきたのは、線の細い、見覚えのある壮年の男であった。かつてはさぞかし見事だったろう金の髪には、年を思わせる白髪が。目許には、深い皺を刻んでいる。しかしそれにも関わらず、冠を戴いたその立ち姿に、風格を感じぬ者はない。
「――父上」
 無意識のうちに、ぽつりと呟く。同時に今までの喧噪が、水を打ったように静まりかえっていくのがわかった。
 そこにアルトの望んだ人間が、アドラティオ四世が立っていた。

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