吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

053 : “Yes”

「ラ……ラフラウト殿下?」
 レイジスが躊躇いがちにそう尋ねると、青年は悠々とした態度で頷いてみせた。
 そよいでいた風はぴたりと止んで、足元の草花すらいつの間にやら居直っている。そんな中、さくり、さくりと草を踏む音だけをたてながらその青年は――第二王子ラフラウトは、山賊達へと歩み寄っていった。どこか王者の風格さえ感じさせるその歩みを妨げるものは何もなく、彼はただ自らのために敷かれた絨毯の上を進むが如くに、微笑みを見せる。
 どうやら夢ではないらしい。そう確認して、アルトは軽いめまいを覚えた。
 見覚えがある。五年前に顔をあわせた時の記憶は既に朧気になっていたが、代わりにいつしか贈られてきた肖像画は、本人の特徴を見事に描き出していたようだ。
(兄上が、ここに……俺の目の前にいる)
 まさか、こんなに早くまみえることになろうとは。
 目的は、何だ。胸の内で問いかける。山賊を討ち取りにきたような口ぶりだが、にわかには信じられなかった。兵を出すだけならまだしも、こんな所へまで第二王子本人がやって来る理由など、そうそうありはしないだろう。
 やはりアルト達の動向を察知して、捕らえに来たと考えるのが妥当だろうか。しかし、ならばその情報はどこから得たものなのか。カランド山脈で生き延びたサンバールの私兵が知らせたか、それともまさかジェメンドと――ソーリヌイ侯との繋がりがあるとでも言うのだろうか。
 目的は、何だ。
 王位継承者の命か、『シルシ』か、お尋ね者か。
 何にせよ、疑ってかからなければならない事だけは確かだった。視線を巡らせ辺りを探る。完全に取り囲まれていた。兵の数は、山賊たちの二倍はいるだろう。
 出来る限り穏便に、どうにかこの場を逃れなくてはならなかった。アルト達の身分が知れているなら、レイジス達親子の身の潔白も証明していかねばなるまい。しかし考えれば考えるだけ、頭の中が真っ白になっていく。
 どうすればいい。
 どうすればいい。
 応える声は、どこにもない。
「取り押さえろ!」
 ラフラウトの掛け声に、兵士が一斉に駆け寄ってくる。それを見て、アルトはぐっと奥歯をかみしめた。もし相手にしかけられたなら、応戦して道を拓くより他にない。マントの内側へ手を延べると、冷たい金具のついた柄に指先が触れた。
 戦えるだろうかと不安になる。どうか兄だけでも手を出さずにいてくれたらと、願わずにはいられない。
 交流のない兄弟に、思慕の情を思った訳ではなかった。だが。
 自分をそこにない者のように扱った、兄のあの目を思い出す。もし戦いの最中に、あの視線に射貫かれたら。
 アルトはマントの裏で、剣の柄を握りしめた。
 握りしめていた。しかし、それだけだ。
 響く剣戟の音。兵士達は見事としか言いようのない手腕で山賊をねじ上げ、相手をお縄につけていく。得物を叩き伏せ、膝を打ち、反撃の隙を与えない。
 だがアルトが握りしめた剣を抜く機会は、いつまだ経っても訪れなかった。それもそのはず、兵士らが目標とするのは山賊ばかりで、レイジス達親子は勿論、アルト達に手を出す様子は微塵もなかったのだ。
 あっという間の、捕り物だった。
 お縄についた山賊達に出来ることはと言えば、最早悪態をつく程度。彼らに先程までの勢いはなく、兵士は眉一つ動かす素振りも見せずに山賊達を引っ立てていく。そんな様子を尻目に、横柄な色のない笑みを浮かべたのはラフラウトだ。首尾よく仕事を済ませた王子は満足げに頷いて、手振りの一つで兵のほとんどを下がらせてみせた。
 その際、一瞬視線を向けられた気がして、アルトは不自然でない程度に顔を伏せる。フードからさらりとこぼれた髪が、風に揺られて鼻をくすぐった。
(一体、どう出る)
 緊張に、胸がせわしく高鳴っていた。相手の出方に予想がつかない。まさしく、一寸先のことは何事も全て闇の内であるように思われた。
 しかし。
「驚かせて、すまなかったな」
 気さくな様子でそう話しかけてきたのは、他でもないラフラウトだった。彼は黒馬の手綱を引き寄せて、何げない様子でこう続ける。
「この辺りで山賊の被害が耐えないという話を聞き、兵を敷いて見張っていたのだ。故意ではなかったが、お前達を囮にするような形になってしまった。協力に感謝する」
 落ち着きのある大人の声音。民を従える力を持つ声だ。――しかしそのどこかに、滲むような優しさがある。
 すっかり毒気を抜かれてしまった。
 御者台から飛び降りてきたレイジスが、地面へ額を擦り付ける勢いで頭を垂れる。だが呆気にとられたアルトの視界には、それ以上の事を見て取るだけの余力がなかった。
(本当に、山賊を捕まえに来ただけだって言うのか?)
 まさかという思いが、しかし目の前へ佇む人間の穏やかな笑みに裏付けされていく。どうにも妙な思いがした。記憶の中の彼は、はたしてこんな人間だっただろうか。たかだか山賊退治のために自ら現場へ赴いて、民に気をかけ、笑いかけるような――。
 この数年のうちにアルトの知らない何かがあって、こんなふうに変わったのか。相手が一般の民だと思っているから、王族としての振る舞いとしてこうしているのか。それとも。
(あの頃から、相手が俺じゃなければ……心底疎ましい人間に対してでなければ、こんな優しい人だったんだろうか)
 そんなことを、ふと、思う。
 しかしいつまでも、一人再会の余韻に浸っているわけにはいかないようだった。唐突に背後から頭を掴まれて、アルトは思わずびくりとする。クロトゥラだ。どうやら、この場はひとまず臣下の礼をとっておけということらしい。
 そうだ。相手方にこちらの素性が知られていないのなら、今は一介の旅人なのだった。呆とした頭でそんなことを考えて、静かに地面へ膝をつく。こうしていれば顔を見られる心配もないからと、マラキアにいた頃にも度々使った手慣れた技だ。
 それなのに、なぜだかチクリと、心が痛む。
「顔を上げよ。もう進むがいい。お前達、職を求めてやってきた旅人なら、日暮れ前にはルシェルへ到着したいだろう」
 アルトの心中など察せようはずもない兄王子は、そう言ってまた兵士達へ指示を出し始めた。山賊の扱いを言い渡し、てきぱきと事を収束させていく。
 聞き覚えのある口振りだ。
 顔は朧気にしか覚えていなかったのに、その時ばかりはそう思った。認めてもらえない事を歯がゆく感じながら、遠くに聞いていた明敏な話し声。こんなおかしな立場になって、これほど近くで耳にすることになろうとは。
 ラフラウトがマントを翻し、黒馬を連れて背を向ける。
 しかし、その時だ。
 「きゃぁっ!」と突然あがった高い叫び声に、ラフラウトを含めアルト達三人は、同時に馬車を振り返った。
 エイミの声だ。一体何があったのかと視線をやれば、いつの間にやら馬車の前に数人の兵士の姿がある。それを見て、アルトは顔を青くした。
(幌が、開いてる――!)
 馬車の荷台を覆う幌が、兵士の手によって一部開かれていたのだ。
 あの荷台にはデュオがいる。制服を着た兵士達を見ると、シャリーアで見た王都軍からの手配書のことが自然と思い出された。手配書の触れ込みでは、デュオは王に楯突く謀反を企てた大罪人ということになっていたはずだ。それなのにここでもし、その当人が見つかったら。
 幌の開き目に座り込んでいたエイミが、兵士の持つ刃に驚いたのだろうか、ふにゃりと顔をゆがめて泣き出した。兵士は慌てて得物を鞘へと収めたが、エイミは構わず声を張り上げる。
「そこで、何をしてる!」
「馬鹿者、何事だ!」
 思わず言ったアルトの声と、ラフラウトのそれが重なった。
 はっとなる。アルトは咄嗟にラフラウトから顔を背けるように俯いたが、ラフラウトは些か怪訝そうな顔をした後、すぐに兵士へ視線を戻した。すると若い兵士は困り果てた様子で「中から音がしたもので」とだけ言って、おろおろとエイミをあやし始める。代わりに別の年配の兵士が前へ立ってラフラウトへ深々頭を下げ、こんなことを言った。
「恐れながら、殿下。陛下からのお達しがあった手配中の人間の事ですが、そろそろこの地域に訪れていてもおかしくはない時期にございます」
「!」
 聞いて小さく息を飲む。胸の内を悟られないようにと出来る限り平静を装ったが、それでも吹き出した冷や汗が、静かにアルトの掌中をなぞって行く。
「サンバール殿下も既に行動を起こしておられます故、道中少しでも可能性のある馬車は荷を検閲した方がよろしいかと判断し、わたくしめが指示したことにございます。お騒がせして殿下のお心を惑わせたこと、ひらにご容赦くださいませ」
 エイミの泣き声が、更に大きくなる。アルトが開きっぱなしの幌にやきもきしながら馬車へ駆け寄ろうとすると、背後から呆れたようなラフラウトの声が聞こえてきた。
「そんなことで兄上に対抗する気はないんだがな。――それで、反逆者とやらは見つかりそうなのか?」
「いえ、まだ詳しくは見聞しておりませんので」
「そうか。ならば……」
 「アルト」とべそをかきながら、エイミが腕を延ばしてくる。アルトはそれを抱きとめようとして、しかしその直前で、ぎくりと足を止めた。
「そこの、フードの男」
 有無を言わさぬ、ぴしゃりとしたラフラウトの声。アルトはしばらく動かずにいたが、やがて観念して、緩慢な動作で振り返る。
 自分でも気づかぬうちに、小さく身震いをしていた。
 顔を伏せていても、兄王子の射貫くような視線だけはその額にはっきりと感じられたからだ。
「誠実に答えよ。荷台にいるのは、その少女だけか?」
 まずは小さく頷いてみせる。しかしラフラウトは、それを返事とは受け取らなかったようだった。今度は先程よりもいささか強い口調で、同じことを問うてくる。
 心がざわつく。何故か、すべてを見透かされているような気分になった。
 心がざわつく。
 けれどその時小さな手が、そっとアルトの右手を握り締めた。
「荷台にいるのは、その少女だけか? 答えよ。今し方おまえの声を聞いた。口がきけぬというわけではないだろう」
 視線だけを御者台の方へ向けると、レイジスが青い顔をして、事の次第を見守っていた。さすがに、正直なことを言おうとしないアルトの態度にただならぬものを感じ取ったのだろう。
(――結局、巻き込んでしまった)
 ここで嘘をついても、レイジス達親子に本当のことを告発されれば、すぐに何もかも知れてしまうだろう。
 言わないでくれ。心の中で、そう願う。どうか黙って、今だけ話を合わせてほしい。
(だけどそれが適わないとしても、……彼らを恨みに思うことなんて、できないな)
 彼らが彼らの日常に帰るためには、手配中の人間を匿った経歴など、あってはならないものなのだから。
 風が吹いた。
 小さく穏やかな溜息をついて、アルトはエイミの手を握り返す。それからはっきりとした口調で、一言、言った。
「はい。この馬車に乗っていたのは、私達四人で全員です」
 緊張に胸が高鳴った。願う気持ちが脳裏を占める。
 するとすぐ後ろから、しっかりとした声がした。
「そうよ。山賊がきたから、あたし一人で馬車に残ったの」
 アルトが振り返ると、エイミがあどけない様子で言い切って、まだ涙の残る瞳をぱちくりと瞬きしたところだった。そっとレイジスの方を盗み見るも、娘の言葉を訂正しようとする様子はない。
 すると今度はくすくすと笑う声が聞こえてきて、これにはアルトも目を丸くした。片手を口に宛てがいながら控えめに笑っていたのは、ラフラウトだったのだ。
「聞いたか? この少女が嘘をつくとも思えん。もう行かせてやれ」
 兵士達が一斉に敬礼し、馬車の周囲から去っていく。
 アルトがもう一度ラフラウトを見ると、黒馬に飛び乗った彼はにこりと微笑み、こうだけ言った。
「道中、気をつけて」
 人好きのする、穏やかな声。
 何故だか、アルトの心はざわついた。
 
「――何も、聞かないんですか」
 アルトがそう声をかけても、しばらくの間、答えはなかった。
 既に陽はとっぷりと暮れている。今ではルシェルへ向かう古い幌馬車の進む音だけが、静かに街道へ響いていた。
「お恥ずかしい話ですが、正直、何を聞けば良いのかわからないんですよ」
 苦笑交じりにそう言ったのは、御者台に座ったレイジスだ。幌の合間から彼のいる方を覗き込むと、その隣に座ったエイミが振り返る。彼女はきょとんとした顔で、自分の父親と、アルトの顔とを交互に覗き込んだ。
「その方が、いいですよ。得体の知れない事には、下手に首を突っ込んじゃいけない」
 他人事のような口ぶりで言ったクロトゥラの言葉を聞いて、レイジスはまた困ったように笑う。そして、「でもね」と言葉を続けた。
「あなた方がいなければ、私達親子は山賊に殺されていたかも知れませんからね。恩もありますし――。それに私は、この子の人を見る目を信じていますから」
 エイミの頭を柔らかく撫でながら、レイジスが静かにそう話す。アルトのいる位置からは馬の手綱を持つレイジスの背中しか見ることができなかったが、何故だか、彼が目を細めて幸せそうに微笑んだのが手に取るようにわかってしまった。
「あたし、ウソ泣きはとくいなの」
 自慢顔で、エイミが言った。
「まさかあの時点で、既に演技をしてたって言うのか?」
 驚いて問い返したアルトに、エイミは真顔で頷き返す。それから内緒話を楽しむ少女の表情になって、「デュオが、兵士さんには見つかりたくないんだって言ったのよ。だから泣いて、困らせてあげたの。じょうずだったでしょ?」と言ってのけた。
 アルトは思わずぽかんとして、返す言葉もなく黙り込む。幌の内へ視線を戻すと、同じく驚き顔をしたクロトゥラと目があった。
 そうして同時に、笑い出す。
「凄いな、エイミは! 最高だ!」
「味方でよかった。敵にまわしたら、酷い目に遭いそうだ!」
 エイミが頬を膨らまして、「それって、本当にエイミにかんしゃしてるの?」と聞いてくる。アルトはなんとか笑いを堪えながら、「勿論!」と勢い込んでそう答えた。
「心の底から、感謝してる。女神は案外、身近なところにおわすものだとさえ思ったよ。――なあ、デュオ。俺達、レイジスさんやエイミには、お世話になってばっかりだな。どうしたらお礼できるだろう」
 話しかけるが答えはない。アルトは訝しんで、吊るしてあったカンテラを手に取った。
「デュオ、また眠ったのか……?」
 つい先程ラフラウト達から逃げ果せた時には、にやりと笑ってアルトに目配せまでしたのに。
 何か、嫌な予感がした。慌てて荷台を広く照らし、アルトは顔を青くする。
 デュオは毛布を体に巻き付けて、荷台の縁にもたれ掛かるようにして座っていた。しかしその顔は蒼白で、額中に大粒の汗を浮かべている。眉間にしわを寄せるようにして目を閉じてはいるが、それもどこか、病的だ。
「デュオ?」
 声をかけ、肩を揺さぶる。返事はない。だがやけに、熱い。
 手にしたカンテラをクロトゥラへ押し付けるようにして、アルトはもう一度、その肩を強く揺さぶった。得体の知れない恐怖に、指の先が冷えていく。
 どろりとした感触に、アルトは思わず息を呑んだ。止血していた包帯を染みて、脇腹の傷から血が滴っていたのだ。
 焦慮に駆られ、鳥肌が立った。目の前が、真っ暗になる。
「デュオ、しっかりしてくれよ。――デュオ!」

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