吟詠旅譚

風の謡 第四章 // 存在しない王子

052 : Reunion not hoped for

「エイミは、黄色い花が好きなんだな」
 がたがたと揺れる幌馬車の中。アルトが相槌を打つつもりでそう口に出すと、幼い少女はぱっと瞳を輝かせるように微笑んで、満足そうに頷いた。
 幌の隙間から見える空は既に赤みを帯びており、いつの間にやら夕闇が近づくような時間になったことを知らせている。
 この馬車へ乗せてもらってから、既に一昼夜が経過していた。エイミとその父レイジスに聞いた話では、今日中にルシェルの町まで着けるはずだと言う。今日がヨンゴの月十二日。即位式にと指定された十七日まで、たった五日しか残されてはいなかった。それでもルシェルの町で馬を得、何事もなく進むことが出来れば、首都スクートゥムまでは二日もあれば着くはずである。――しかし。
 アルトは服の上から、胸ポケットにしまいこんだペンダントをそっと握りしめた。これがある限り、ジェメンドのようにソーリヌイ侯の息のかかった人間がアルトを追ってくるだろう。デュオを追う王都軍もいるはずだ。その上この辺りには、アルトの二人の兄である第一王子サンバールや、第二王子ラフラウトの宮殿もある。
 第一王子サンバールの私兵は、カランド山脈にまで陣を敷いて功績を立てようと躍起になっていた。狙いはお尋ね者となっているデュオ達のようであったが、アルトがもし彼らの手に落ちていたら、どうなっていたかは想像に容易い。第二王子ラフラウトはいまだ動きを見せていないとは言え、アルトの即位など望んではいないことだけは確かだろう。そう思わせる、確信があった。
 最後に兄達と会ったのは、既に五年も前のことだ。しかしアルトはその時のことを、今でもよく覚えている。心底嫌われるというのは、否、憎まれるというのは恐らくこういう事なのだろうとアルトに身をもって教えたのは、他でもない二人の兄達だったからだ。
 フェイサルのように事につけてはアルトの陰口を言っていた他の子供達と、二人の王子達とでは嫌い方の勝手が違っていた。彼らは幼いながらも王族としての矜恃を持ち、所作を身につけていたから、あまり子供じみた振る舞いをすることはプライドが許さなかったのだろう。
 陰口を言わない代わりに彼らは、そして彼らの母達は、徹底的にアルトを無視した。
 公式の場での挨拶以外、彼らにとってのアルトは空気も同然だった。そこにいても、姿は視界に映らない。声は全て風の音。ただ一度笑いかけたときだけは、冷たく鼻であしらわれた。
 彼らはいつだって、アルトから遠く離れた場所にいた。体ではない。心が、途方もなく距離を隔てていたのだ。
(――兄上達が、俺の敵にまわるなら)
 ルシェルの町は、既に彼らの勢力範囲である。先へと進む行動は、アルトにとっては敵地へ足を踏み入れるも同じ事だった。だからだろう。それを思うと気づかぬうちに、幼い頃の事が次々に脳裏を過ぎるのだ。
(兄上達との思い出なんて、無いにも等しいものなのに)
 彼らは無言で、アルトにこう語りかけた。
 三人目の王子なんて必要なかった。平民の血を引いた王族になど価値はない。
 お前は始めから、この国に不要な存在だったのだ、と――。
「だからあたし、アルトのことも好きよ」
 唐突に耳元で声がして、アルトはびくりと肩を震わせた。エイミだ。幼い少女はいつの間にやらアルトの隣に陣取って、にこにこしながら顔を覗き込んでいる。
「え、あ……。な、何が?」
「エイミのゆったこと、聞いてなかったの?」
 もうっ、と言って頬を膨らませ、エイミがそっぽを向いてしまう。どうも拙いことをしてしまったようだが、どう言って機嫌をとればいいものか、アルトにはよくわからない。持ち上げた右手を寄る辺なくさ迷わせていると、見かねたクロトゥラが、笑いながらこんな事を言った。
「黄色い花の好きなエイミ嬢は、おまえの銀がかった金髪にすっかり心を奪われてしまったらしいぜ」
 言われてアルトは、目をぱちくりと瞬かせる。それから少し考えて、首を傾げた。
「ん……? ええと、髪の色が花みたいだって事か?」
「ち、ちがうわ! きいろいお花が好きなのと、アルトが好きなのとは別なの! クロトゥラったら、まちがったことをゆわないで!」
「ごめん、ごめん。――モテるな、アルト。年の差は少し犯罪めいてるけど、どうぞ、お幸せに」
「からかうな」
 睨み付けたが、相手は微塵も気にとめた様子がない。その背後に精霊達の笑う声が聞こえたように思えて、どうにも余計に腹が立った。
 こういう時に一体どう切り返せばいいのか、アルトには今でもわからない。しかし考えてみればマラキアにいた頃、アルトをからかったりするのはデュオくらいのものであったから、それもある意味当然なのかもしれなかった。
 それでも、言われっぱなしでいるのは癪に障る。アルトが何か意趣返しを出来ないものかと頭を捻っていると、御者台の方から声がした。
「すみません、どうにもませた子で……。エイミ。皆さんはお疲れなんだから、少し静かにしていなさい」
 レイジスだ。アルトはふくれっ面するエイミを見て、慌てて言った。
「あっ、いや! 俺たちもこうして話していた方が、気が晴れ……ます、から」
 アルトの慣れない敬語をも気にすること無く、レイジスは申し訳なさそうに笑って、すぐまた馬へと向き直る。
 彼は今でもアルト達のことを、どこかの町から出稼ぎに来た親子か何かだと信じて疑わないようだ。その上に途中で山賊に襲われたという話にいたく同情してくれたようで、あれこれ気を配ってくれている。デュオが着替えていた例のシャツも、どうやら彼に借りたものらしかった。
 いい人だ。そう思う。騙していることに罪悪感を覚えないではないが、経緯を説明してしまえば彼らのことをも巻き込んでしまうだろう。いつ、何が起こるとも限らない。万が一アルト達の身に何かがあったとしても、彼らだけは「騙され、利用されていたのだ」と正々堂々主張して、平穏な日常に帰っていって欲しかった。
 それにしても、と、アルトは苦笑をしながら視線を移す。荷台の片隅に蹲るようにして横たわったデュオは、先程からこんこんと眠り続けていた。「馬車酔いをするタチだから、そうなる前に俺は寝る」本人はそう豪語していたが、実のところ馬車の揺れが傷に障るから、弱ったところを少しでも見せまいとして眠ったのだろうとは、流石のアルトにもわかっていた。
(出稼ぎに来た『親子』、――か)
 再び一瞬だけペンダントに手を当てて、アルトはすぐに、脳裏に過ぎった考えを頭の中から追い出した。
 一人で思い悩んでも、答の出ない考えだ。けれどルシェルに着いたなら。レイジス達親子を始め、他人の耳のないところでなら、きっとデュオは全てを話してくれるだろう。――だから焦ることはない。せめて今だけでも堂々と、唯一の臣下が望んだように、胸を張って進まなくては。
 それより今はからかわれた仕返しに、クロトゥラのことを「兄さん」とでも呼んでやろう。そんなことを考えていると唐突に、がたんと音を立てて馬車がその動きを止めた。ごんっと頭を梁にぶつけて、アルトは思わず顔をしかめる。そうしていると御者台の方から、焦りきったレイジスの声がした。
 何かもめている。それも、剣呑な雰囲気だ――。アルトは慌ててフードを被ると、幌の隙間から顔をのぞかせる。そうしてみて、驚いた。彼らを乗せた馬車は今、草むらの影から飛び出してきた人々にぐるりと取り囲まれていたのだ。
「本物の山賊か――!」
 クロトゥラが舌打ちして、狭い荷台で膝立ちになる。アルトもそっとエイミから離れて、マントの内側にデュオの剣をしまいこんだ。『道中山賊に襲われた』というあの嘘は、どうやら事実になりそうだ。
「デュオ。エイミを頼む」
 むくりと体を起こしたデュオにそれだけ言って、アルトとクロトゥラの二人は急ぎ幌馬車の荷台から飛び降りた。
 周囲には、貧しい身なりの男女が十人。腕の程はわからないが、自分たちが既に傷だらけであること、レイジス達親子を守らなければならないことを鑑みると、戦闘になっては分が悪い。だが先方は血に飢えてでもいるのか、外へ出てきたアルト達を見て、挑発するように得物をちらつかせてみせた。その上リーダー格の男は馬車の前方に立ちふさがって、下卑た笑いを浮かべながら、こんな事を言う。
「古いが、立派な馬車じゃねえか。勿論、俺たちを満足させてくれるようなものも載ってんだろうなぁ?」
 形ばかりが大きい刃に指を沿わせながら言う姿は、舌なめずりする蛇のようだ。今にも獲物に飛びかかろうと、ぎんぎんと瞳を輝かせている。そして。
「殺れ! 命も含めて持ち物全部、奪い取れ!」
 声と共に、山賊達が狂気の雄叫びをあげる。しかしアルトは向かってきた山賊達の動きを見て、思わず顔をしかめた。拍子抜けしたという程ではないが、カランド山脈で刃を交えた者達と比べると、余計な動きが随分多い。かといってアルトには無駄のない動きが出来るのかと問われれば否と言わざるを得ないのだが、山脈での戦いとは違い多少の手応えはありそうだ。
(……あれが、イレギュラーすぎたのか?)
 マントの下へ忍ばせていた剣を手に取り、応戦する。相手の刃をはじき飛ばし、足をかけてぬかるみに飛び込ませ、それから。
 「ひっ」と高い叫び声がした。御者台の方だ。アルトは急ぎ振り返り、はっと短く息を飲む。御者台へ足をかけ、今まさに刃を振り下ろそうとしている男がいた。そして、その餌食になろうとしているのは。
「レイジスさん、危ないっ――!」
 その叫びと、一体どちらが早かっただろう。ギィンと金属の震える音が響くのと同時に、襲いかかろうとしていた山賊の腕が振り払われた。否、クロトゥラが例の短剣で、男の刃を弾き飛ばしたのだ。
 予想だにしなかった出来事へどよめく山賊達とは裏腹に、幌の合間から顔を出したエイミが「すごい!」と黄色い歓声をあげる。もう一押しだ。相手の戦意さえ奪ってしまえば、無駄な争いはせずに済む。
 アルトはざっと辺りへ威嚇の意味で視線を向け、しかしふと、眉をひそめた。
 どこかで人の声がした。山賊達のものではない。それは声というより息遣いと言った方がいいようなかすかな囁きであったが、精霊の声を聞くのと同じように、やけにはっきり耳へと届く。
――好機だ。人命を優先して、隙を。一斉に飛び出せ。
「クロトゥラ!」
 小さく密かに声をかけ、アルトは手振りで例の短剣をしまうよう指示をした。山賊相手に脅しをかける意味では、ああいった特殊な武器を使うことも手だと思えたし、実際クロトゥラもその意図で使ったのだろう。しかし今度は様子が違う。アルトは自分自身もフードを深くかぶり直すと、じっと前を見据えて黙した。
(嫌な予感がする)
 風がわざとざわめいて、アルトにだけ伝わるようにこっそりと、異変を知らせているかのようだ。振り払おうとして払えるような予感なら、そうして終わりにしてしまいたい。だが、しかし。
 次の瞬間、予感は現実へと変化した。
「囲め、一人も逃がすな!」
 若い男の号令がかかる。同時にどこか見覚えのある軍服を着た兵士達が草むらの陰から立ち上がり、輪の中心――アルト達のいる幌馬車の方へと、番えた弓を一斉に向けた。ただの脅しだ。本当に射ってはこないだろう。けれど『悪い予感』自体は、考えていた最悪のパターンで現れたようだった。
「あの制服、まさか」
 呟く。その言葉に続けるように、山賊の一人が舌打ちした。
「畜生、ラフラウトの私兵隊か――!」
 知らずのうちに、鳥肌がたっていた。ラフラウト。この国クラヴィーアの、第二王子にしてアルトの兄の名前である。
 ごくりと生唾を飲み込んで、剣の柄を握り締める。私兵隊がこんな所を、偶然うろついているはずはない。何か目的があって行動していたはずだ。例えば。
(この街道を通るであろう誰かを、待ち伏せていた……っていうところか)
 第一王子サンバールと同じ手口だ。しかしそう苦笑しようとして、アルトは背筋を凍らせた。否、アルトだけではなく兵士を除いた全員が、同じように瞠目したに違いない。
 幼いエイミを含め、誰もが自然と動きを止める。
 吸い込まれそうな漆黒の色をした、毛並みのいい馬が茂みの向こうへ現れた。そこに一人の青年が跨っている。紺で染めた上等な上着に、華美ではないが上品に宝石をあしらった黒い帽子。そこから流れ落ちるようにのぞいている金の髪は肩より上ですっきりと切り揃えられており、手綱を掴む細い指は、何をせずとも高貴の気品を漂わせている。
 青年は唖然としたまま身を凍らせている山賊達を一瞥し、ひらりと馬を下りてみせた。そうして一身に集めた注目すらものともせずに、よく通る声でこんな事を言う。
「我がメレット宮へ話が届くまでに暴れたのが、お前達の運の尽きだったな。――剣を収めよ、無法者ども。我が父アドラティオ四世陛下の御都へ跪かせて、その罪あがなわせてやろう」

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