吟詠旅譚

風の謡 第三章 // 闇は密かに

037 : The another starting

 風がそっと、耳の裏を撫でて行く。なんとなく気分が落ち着いたのを感じて、アルトは「ありがとう」と呟いた。
 小高い丘の上に、一人ぽつんと座り込んでいる。とはいえ眼下を見下ろせば、離れたところに馬の一団が。少し視線を移せば、数は減ったもののマラキア宮から共に逃げ延びた人々の姿が見受けられる。あまり一人で出歩かないようにと念を押されてはいたのだが、とは言えいつまでもあの集団の中にいたのでは、息が詰まって仕方ない。どうせ、出発までにそれ程の時間は残されていないのだ。少しくらい一人の時間を満喫したところで、罰はあたらないだろう。
 また一組、馬を引いてわずかながらの荷を抱え、集団を後にする人影が見えた。アルトはそれを黙って見送って、「どうか元気で」と心の中で声をかける。ラーラシアの一族だ。夫人は確か商家の令嬢だったから、実家へ保護を求める手はずなのだろう。
 伝手のある者から少しずつ、散り散りになってこの地を離れる事になったのだ。既に大半の者がマラキア宮のあるブリッサ地方を発っており、この丘陵地帯に身を隠しているのも、残り数十名にまで減っている。
 持ち出した食料を平等に配り、五人程に一頭ずつの馬を分け与えた。相手が貴族であろうとなかろうと、同じように、だ。そのことで多くの貴族に不満をもたらしたことは明らかだったが、彼らにしても、その為に唯一の頼りであるアルトの機嫌を損ねるわけにいかないことは、十分に心得たところであったのだろう。一睨みを聞かせると、気がすっとなるほど静かになった。
 ふと、空を見上げる。気分の良い空模様だ。傾いてゆく太陽が、薄い空色と橙とを見事に調和させている。
(ああ、時間だな)
 ぼんやりと、そんなことを考える。
 アルトはまだ冷たさの残る春の空気をいっぱいに吸い込むと、ぱんっと思いっきり自分の両手で頬を叩いた。軽いやけどが疼いたのも、気を引き締めるのには効果的だ。
 履いたブーツを膝まであげ、剣を提げた革のベルトを締め直す。首のチョーカーを隠すように、セーターの襟も立てた。そんなことをして立ち上がると、不意に風が舞い上がる。
 アルトは風に遊ばれる髪を手早く、赤い髪留めで結い直すと、にやりと笑ってこう言った。
「もしかして、俺を仲間だと思ってるのか?」
 風は一瞬強さを増し、しかし言葉で応えは返さない。アルトはしたり顔で「光栄だ」と続けると、何気なく、背後に小さく臨めるマラキア宮を振り返った。
 うっすらと、いまだ煙が立ち上っている。今頃は既に、王都軍の支配下だろうか。そんなことを考えながら、アルトは滑るように丘を駆け下りた。
 「さようなら」と静かに囁く。今度こそ本当に、見納めだ。
(今日がヨンゴの月、四日)
 本来ならば既に、首都のあるシチリ地方へ入っていたはずの日程である。
(即位式は十七日だから――)
 マラキア宮から首都スクートゥムまでは、馬で駆けて約十日。アルトの即位を良しとしない者からの妨害工作があるかもしれないことを思えば、決して楽な道程ではないだろう。それに、ソーリヌイ侯の一派の事もある。結局彼らの居所は、分からずじまいのままなのだ。
「アルト!」
 呼び止められて、振り返る。クロトゥラだ。大きな傷を負わなかった彼は、とうに旅支度を整えてそこにいた。近衛の制服ではないが、清潔そうなシャツに楽そうなベストを羽織っている。足早にアルトに駆け寄ると、ポケットから何か取り出した。
「これ、リフラさんから預かった」
 そう言って彼が差し出したのは、皮布で作られた小さな巾着袋だった。
 開いて見ると、小さなコンパスと簡単な応急道具が入っている。アルトは中身を取り出してみようか一瞬悩み、しかしやめた。自分の手では二度と、こんなに小さく入れ直すことはできないだろうと判断したのだ。
「リフラは、アグロと一緒に実家へ帰るって言ってたよな。もう行ったのか?」
「ああ、ついさっき。直に渡したらって言ったんだけど、会ったらまた泣きそうだからってさ。昨日の晩、徹夜で作ったみたいだぜ」
 そう言って、どうやら自分のものらしいもう一つの包みを取り出してみせる。アルトは小さな巾着袋をベルトに結び付けると、彼女が去って行ったであろう方角へ視線を移し、にこりと笑った。
「次に会ったら、まずお礼を言わないと」
 
 スクートゥムへの旅の面々は、アルトを含めて七名だ。デュオにシロフォノ、クロトゥラ、鷹匠のマルカートに、弓兵のヴァルス、それに、女中頭のゾーラ。双子の近衛以外は、皆バラム城以来のデュオの仲間である。
 首都近郊に辿り着くまで、一行は旅の行商人として行動することになっていた。機動力を考えても体裁からいっても、今のアルトが次期皇王として馬車でそれなりの身なりをし、スクートゥムまでの道を進むのは困難であるからだ。父王アドラティオ四世の出方にも予想がつかない現状、出来る限り目立たぬように旅程を過ごす必要があった。
 一方、旅の同行者以外でマラキアの他に帰る場所のない人間は、しばらくの間ナファンに率いられて、追っ手を逃れながら彷徨うことになる。この中にはマラキア宮の離れでの戦いによって、傷を負った人々も含まれており、スクートゥムへの旅に負けず劣らず厳しいものになるだろうことは容易に想像がついた。
(マラキアの人々のことは、全てこの旅に懸ってる)
 アルトが首都スクートゥムへ辿り着き、皇王になること。あるいは父王アドラティオ四世を説得し、追われる身にある彼らに恩赦を与えること。それが彼らを救うための、唯一の手段だ。
「行こう」
 声をかけると、誰もがアルトへ顔を上げて、力強く頷いてくれる。
 彼らの旅は、夕焼けの中で幕を開けた。
 
 昼間の内は可能な限り馬を駆り、陽が完全に落ちると疲労に軋む膝を押さえながら、月明かりの下で野営を張る。遮るもののない草原において昼夜の温度差は大きく、肩を震わせたが、厚手の上着や毛布がある分、聖地ウラガーノからマラキアへ戻った時のことを思えば楽な方だ。
 馬上での会話は少なかった。首都スクートゥムまで馬をもたせるためには常にギャロップで進むわけにもいかず、速度は押さえていたのだが、疲労のためか緊張のためか自然と口数が減ったのだ。それでも時たまシロフォノ達が口にする冗談に、アルトは随分救われていた。
 ようやく町までたどり着いたのは、三日目の晩のことだ。
 シャリーアという名のその町は、首都スクートゥムに次ぐ大きな港町として有名で、アルトもその噂話はよく耳にすることがあった。
 交流の中心地として栄え、何軒もの家々が軒並み連ねて建っている。クラヴィーア中の全ての民族が、全ての階級の人間が、そして全ての物資が集まる町。そう聞いてはいた。だが理解はしていなかった。
 こうして目にしてみると、百聞は一見に如かずとはよく言ったものだとつくづく思う。
「これが、町――!」
 知らずのうちに、感嘆の声が上がる。ぽつぽつと民家や畑が見えてきた辺りからは馬を降りて手綱を引いていたのだが、ここへきてアルトは、ついに足を止めてしまっていた。しかし他の行商人の一団に不審な目で見られたのに気づいて、またすぐに歩きだす。
 既に陽は落ちているにも関わらず、こうして立ち止まっていられない程、石を敷き詰めた街道には人通りが多いのだ。とは言えあちこちに明かりの灯された町中は明るく、夜とは思えないほど活気に満ちあふれている。ウラガーノまでの道中に立ち寄った村などとは、比べるのも馬鹿馬鹿しいほどの規模なのだということが、その点だけからも十分に見て取れた。
「田舎もーん」
 にやにや笑いながらそう言って、さっさと先を行ってしまうシロフォノを睨みつける。だが事実、好奇心に負けて視線があちこちさ迷うのを止めることは出来なかった。
 鐘を鳴らし、宣伝文句を歌い上げる物売りの声、顎に手を当て品定めする町人達。時間のためか子供たちの姿は多く見受けられないが、そこここに、どうやら玩具らしい鉄輪や棒が転がっている。
 一行が町の中心部へと進んでいくと、人通りは更に増してきた。アルトは物珍しく辺りを見回して、それでも仲間からはぐれないようにとしゃかりきになって手綱を引く。こんな所へ一人で取り残されたらと考えると、情けないような惨めなような、何とも言いようのない気分になった。
「デュオ、こっちだ!」
 聞き覚えのある声に、顔を上げる。見ると宿屋の入り口に、見知った髭面が立っていた。宿を確保するために道を先駆けていた、弓兵のヴァルスだ。
「取れたか」
「部屋も厩も完璧さ。馬のことは俺がやっておくから、荷を下ろしたら宿に入って休むと良い。『アルト』も、疲れたろう」
 そう言って、ヴァルスが軽く目配せした。アルトはその心配りに感謝して、短く礼を述べる。しかし仲間と協力して馬から荷を下ろしていると、不意に背後から声をかけられた。
「その馬へくくってある絨毯、そりゃ良い品だね。あんた達、どこから来たんだい」
 ずんぐり太った中年の男だ。恐らくは商人なのだろう。人の良さそうな大きな青い目をして、当人の体程もありそうな荷を背中へ背負い込んでいる。アルトは小さく唾を飲み込んで、それから言った。
「……南の、レーントから」
 あらかじめ打ち合わせていた通りに答えたが、どうやら声が小さかったらしい。男が聞き返してきたので、アルトは若干戸惑った。それも男は続けて、色合いがどうとかと唐突に語り始めたのだ。模様が巧緻だの、蒼の色が深いだの、次々にうんちくを傾ける男を前にして、アルトは思わず閉口した。
 何を言われているのか、そもそもそれがわからない。当惑しきった頭で、そういえば昔、サンドラ家のレクスタも何やら語っていたと思い出す。
(こんなことなら、聞き流さずにちゃんと聞いておくんだった)
 アルトが心底後悔しながら顔をしかめると、ふと、視界に誰かの背中が割り込んできた。デュオだ。
「お目が高いね、旦那。こいつぁかの錦の町、ドルフから仕入れた一級品でさぁ」
「ドルフって、レシスタルビア領のかい。そりゃあ美しいわけだ! いいもんを仕入れたねえ」
「ちょっとした伝手がね。後でどうだい、お安くしとくぜ」
「百二十なら」
「まさか。ちょいと足元見過ぎじゃないかい」
 目の前でてきぱきと商談が進んで行くのを、アルトは目を丸くして見守った。商人のやりとりなどを目にするのは初めてのことだが、それを行っているのがデュオであると考えると、新鮮を通り越して奇妙にすら思われる。アルトはそこからできるだけ自然に離れると、いわく言い難い表情を隠しもせずに呟いた。
「デュオって、一体何者なんだ」
「それを、本人へお尋ねになるのでしょう?」
 隣に控えた、ゾーラが言った。この隊唯一の女性である彼女は、年を感じさせない少女のような笑みをこぼしてアルトを見ている。しかしバラム城時代は女ながらに一個小隊を任されていたという彼女の瞳には、ぎらりと光る何かがあった。
 アルトははっとなって視線を逸らし、首から提げた金のペンダントを握りしめる。ひやりとした感触が、掌の中でその存在を主張しているかのようだ。
 すぐ近くの建物から、食欲をそそる芳しい香りが漂ってくる。宵を迎え、どこの食堂からも盛んに呼び込みの声が聞こえてきていた。既に酒が入っているのだろうか、歌いながら歩く男をひょいと避けて、アルトは小さく頷いてみせる。
「ああ、――そうだな」
 答える声はアルト自身も驚くほどに深く、落ち着き払ったものだった。

:: Thor All Rights Reserved. ::