吟詠旅譚

風の謡 第二章 // 導きの炎、風の刹那

036 : SIGN -4-

 藍天梁。その響きに、アルトはなぜかどきりとした。藍天梁といえばクラヴィーアからずっと東方にある大国だが、今までに大がかりな国交があった試しのない国である。というのも、クラヴィーアと古くから交流の盛んだったレシスタルビアと藍天梁との間に、昔から諍いが絶えなかったからである。クラヴィーアにもそれなりの国力はあるが、レシスタルビアや藍天梁のような大国に睨まれては立場が危うい。だから長年の間、藍天梁とはつかず離れず、波風を立てないように接し続けてきた。政治に暗いアルトにでも、そのくらいは理解のあるところだった。
「その……藍天梁にいるはずの君が、どうして俺の幻の中に?」
 尋ねると、彩溟は満足そうににこりと笑った。それから片手を耳に添え、聞き耳をたてるような仕草をすると、身振りでアルトにもそうするように促してくる。
「呼ばれているわ。アルト」
「俺の名前、知ってるのか?」
「ええ。ツキに聞いたの。もう、ずっと前のことだけど」
 何でもないかのようにそう言って、彩溟はまた聞き耳の姿勢を促した。その様子があまりに無邪気なので、アルトも手を添え、耳をそばだててみる。
 確かに彼女の言う通り、アルト、アルトと遠くで誰かが呼ぶ声がした。それも複数だ。デュオ、シロフォノ、それにクロトゥラ。皆、焦った様子で口々に、アルトの名前を呼んでいる。離れは、そしてあの黒服達はどうなっただろう。そう考えるとまた切羽詰まった思いがこみ上げてきて、自然とアルトの心は焦れた。
「はやく、戻らなきゃ」
「ええ。だけど待って。その前に、あなたには会わなくちゃならない人がいる」
 あまりに悠長な彩溟の言葉に抗議しかけて、しかしアルトは、怒鳴りかけた口を閉ざした。彩溟が目を閉じ、口元に柔らかな笑みを浮かべて、いまだ耳をそばだてていたからだ。
「ほら、聞こえない?」
 囁くような声。そしてその中に、懐かしい小さな響きを聞いた気がして、アルトははっと息をのむ。
 優しく、明るい女性の声。デュオ達のものとは違い、その声だけは落ち着いて、耳打ちするようにこう言った。
「こっちへおいで」
 声が、アルトを先へと導いた。尋ねるように彩溟を見ると、彼女も小さく頷いてみせる。
「あなたを大切に思っていた誰かが、あなたの力を閉じ込めていたのね」
「力って?」
「――ずっと昔から私達を傷つけ、守り続けてきた力よ」
 そう言って彩溟は、悲しそうににこりと笑った。
 声に導かれるまま、光の中を歩いて行く。そうするうちに段々と、どうやら先程アルトを手招きしたのも、彩溟ではなくこの声の主だったのだと気がついた。
 光の波は柔らかいカーテンがなびくようにゆらめき、優しく頬を撫でていく。触れようとしてもそうすることは不可能なのに、向こうから触れられる感触は柔らかく、安心感が心を包んでいった。
 そのうち、唐突に声が止む。アルトがそこで立ち止まると、彩溟は先へ向けて、すっと手を延べてみせた。
「あなたの力が、そこにあるわ。それに手を伸ばせば、お友達のところへ帰ることができる。……だけどアルト。一つだけ覚えていて」
 彩溟がそう言いながら歩み寄り、そっとアルトの手を取った。その手はとても小さくて、柔らかく、そして頼りない。けれどそんな印象を覆すのに十分なほど、彼女の目はまっすぐ、強い力を持っていた。
(初めて会った時の、夕日の目とおんなじだ)
 ふと、そんなことを思う。彼女はただふんわりと笑って、アルトに向かってこう言った。
「覚えていてね、アルト。私もあなたのことを捜すわ。だからあなたも私を、私達を捜して。私達は、自分の力で再び出会わなくちゃならないから」
「そんなことをしなくたって、彩溟は今、ここにいるじゃないか」
「ここじゃ、だめよ。今は幻の中だもの」
 彩溟はそう言うと、アルトの手をそっと離す。両手を体の後ろへ回し、肩をすくめると、どこか悪戯っぽく笑ってみせた。アルトの手にはいつの間にか、赤い紐で編んだ髪留めが握らされている。
「さよなら、アルト」
 彩溟の姿がすっと、光の中へ溶けていく。アルトが慌てて手を伸ばすと、彩溟はただ笑って首を横に振り、続けて短くこう言った。
「またね。今度は、現実の世界で会いましょう」
 ――光が細かい泡になり、音もなく辺りに散っていく。心細げな泡が一つ、アルトの指先に触れてぱちんと割れた。
 それとほぼ、同時のことだ。
 手を伸ばした先に、何かが見えた。四角く、平べったい何か。それはどうやら、額縁に入った絵画のようだった。光にぼやけて定かではないが、なにやらやけに懐かしい。
 目をこらしてみて、ふと気づく。額縁におさまっているのは、一幅の肖像画だ。白金の長い髪を肩にかけ、藤色のドレスで着飾った、一人の女性の肖像画である。
 「ああそうか」と、アルトは呟いた。そのとき不意に、心が何かを理解したのだ。手を伸ばし、そっとその絵に触れてみる。今にも脈を打ち、呼吸をしそうなほど色のよい頬に触れると、どこか心が安らいだ。
 とくん、と小さな音がして、肖像画の裏を覗き込む。アルトはそこに描かれた大きな紋様を見て、困ったように小さく笑った。
「……見たことがある」
 左手は絵画に触れたまま、右手は自分の胸元に触れる。とくん、とくんと暖かい音が、規則正しく辺りに響いた。
 アルトの右手が掴んでいるのは、小さな、金のペンダントだった。
 鼓動のように脈打つ音が、その場の全てを支配していた。身を任せるように目をつむると、そのうち再び、アルトを呼ぶデュオ達の声が聞こえてくる。仲間は皆、無事でいてくれているだろうか。どうか全員で、マラキアを脱出しなければ――。
「彼らのところへ、戻ります」
 はっきりした声でそう言うと、温かい手が、そっとアルトの頬を撫でた。目を開けば、その手の主と顔を合わせることもできたかもしれない。しかしアルトは、そうしなかった。そこにいるのが一体誰であるのか、その頃にはすっかりわかっていたからだ。
「行って参ります。――母上」
 あえて目は伏せたまま、だがしかし微笑んで、呟くようにそう告げる。
 蝋燭の火が風に消えるように、闇夜の蛍が果てるように、そっと光が遠のいた。

 唾がかかるのではというほど近くで、必死に名を呼ぶ声が聞こえていた。滅多に見せない不安そうなその様子が、声だけにも聞き取れる。声の主がアルトを支えているらしく、叫ぶような呼びかけの度に、アルトの頭は揺り動かされた。
 正直なところ、快適な目覚めにはほど遠い。そんなことをぼうっとする頭で考えながら、アルトは小さく吹き出した。途端に声が一度やみ、アルトを揺さぶっていた腕も動きを止める。
 何故だかやけに、心が弾む。覗き込む人々の視線を感じると、余計になにやら、嬉しいような、楽しいような、そんな気分に包まれた。
(そんな場合じゃないって、わかってるのに)
 それなのに、一度笑い出すとそれが止まらなくなってしまった。笑いに揺れると肩や腹が痛んだが、アルトはあえて何でもないかのような顔で目を開き、相手に向かって口をとがらせる。
「そんなにがなりたてなくたって、聞こえてるよ。デュオ」
 目の前にある、汗と、血と、煤とで汚れた無骨な顔に、ぱっと明るい光が射した。視界の焦点を合わせると、囲むように覗き込む、他の面々の顔も見える。
 その背後に、空がある。ここがどこかは判じがたかったが、炎の煙がないようだから、少なくとも離れからは距離のある場所なのだろう。アルトの周りを取り囲んだ人々はいかにも疲れ果てており、しかしその誰もが、安堵した様子でアルトへ柔く微笑みかけた。
「この馬鹿、心配かけさせやがって」
 デュオがそう言って、アルトの首根っこを掴んで抱きしめる。不意打ちの攻撃からなんとか這い出そうとすると、よけいに力が強まった。
「デュオ、この――馬鹿力!」
「馬鹿はどっちだ!」
「デュオだろ」
「おまえだろう」
 渾身の力を込めてデュオの腕を解くと、笑いながら様子を見ていた他の面々とも目があった。シロフォノ、クロトゥラ、マルカートにダルシマー。どうやらあの場へ駆けつけたときにいた者は、全員無事に済んだようだ。視線を移すとすぐそこに、ナファンやリフラなど、先にマラキアを出た人々の姿も見受けられた。
「ここはもう、マラキアの外だよ。大分離れたところまで地下通路が延びていたから、ここならしばらくは、軍に見つかることもないと思う」
 アルトの視線で察したのだろう。シロフォノがアルトの目の前へしゃがみ込んで、そう説明した。大きな怪我はしていないようだが、顔中煤だらけで、簡単な手当すらすませていない。恐らくはたった今、地下通路を抜けてナファン達と合流したばかりなのだろう。
「水! 私、水をとってきますね!」
 はじかれたようにそう言って、リフラがどこかへ駆けていく。後ろ姿を見送りながら、アルトは改めて、辺りを見回した。
 聖地ウラガーノから馬で駆けたときに見たのと同じような、ただ広い草原だ。少し離れたところに人だかりができているのは、おそらく同じようにマラキアから脱出した人々の群れだろう。立派な外套を羽織った人間も、そうでない者も、皆一様に不安そうな表情をして身を寄せ合っている。
「……俺、迷惑かけたな」
 一刻もはやく、彼らのためにも首都スクートゥムへ急がなくてはならないのに。「ごめん」と短く言い足すと、いつも通りの緊張感のない表情で、シロフォノが楽しそうに笑った。
「迷惑なんてかかってないよ。アルトを運ぶことより、デュオ殿を落ち着ける方が大変だったしね」
「おい」
「事実です」
 口数の少ないマルカートにまでそう言われ、デュオも決まり悪そうに口を閉ざす。そんな様子を見て力なく笑うと、アルトは呟くようにぽつりと言った。
「母上の肖像画、……守れなかった」
 ほんの一瞬、空気が静まる。そんな様子を見かねたのか、少し離れたところに腰掛けていたクロトゥラが言った。
「あいつらの目的は、どうも始めからあの絵だったみたいだ。途中で妙な火薬の音がしたと思ったら、黒服の奴ら、それを合図に退却していったよ。絵が手に入ったから、戦う理由がなくなったんだろう」
「……そうか」
 短く答えて、右手を強く握りしめる。
(けど、『シルシ』は取り戻した……)
 金のペンダントに、赤い髪留め。その二つが汗ばんだ手の中で、今は静かに眠っている。
 視線を感じて振り返ると、いまだそばに座り込んでいたデュオが、じっとアルトの右手を見ていた。恐らくはそこに自ら手渡した金のペンダントがあることに、気づいていたのだろう。
「――スクートゥムまで、距離がある」
 アルトが言うと、デュオは一瞬はっとした表情をして、それから一度頷いた。アルトも頷き返して、右手をそっとペンダントから離す。
「その間、みんな聞かせてほしいんだ。……デュオのこと、このペンダントのこと。父上、母上、それから――俺のことも」
 右手を離れたペンダントが、アルトの胸を優しくたたく。ロケットペンダントはかたくなに開かず、その中身を沈黙に包んではいたが、今ではその表面が、事の不思議を語っていた。
 激しく傷つけられ、元の形もわからないと思っていた表層の紋章が、今では明確にその形をなしている。
 それは、あの幻の中で見た肖像画の裏に記された紋様と、全く同じものだった。
-- 第三章「闇は密かに」へ続く --
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