吟詠旅譚

風の謡 第一章 // 「別れの唄」

010 : The sacred ground

 誰かが近くで泣いている。
 か弱い声だ。それなのに、その人物は泣きながら、必死で何かを探していた。
(ああ、いつもの夢の中だ)
 気づいて、アルトは辺りを見回した。明るいとも暗いとも、判別のつきにくい混沌とした世界。その中で、泣き声だけが妙にはっきりと耳に届いている。
(あの女の子は、どこにいるんだろう)
 いつもは見える少女の姿も、遠くにある何か暖かい光も、今日はどこにも見当たらない。アルトはしばらくそこを歩いて、意を決して、声をかけた。
「なあ、どうして……」
 言葉を最後まで続けることは、できなかった。アルトの視界は一転して、明るいどこかへ投げ出されてしまったからだ。
 
 ガクンと大きな振動がして、アルトは思わず瞬きした。頭が鈍く痛んでいる。大きな石でも踏んだのだろうか。乗っていた馬車が大きく揺れて、頭をしたたかに打ち付けてしまったのだ。
「アーエール殿下、申し訳ありません! お怪我は……」
「……大事無い」
 外からの問いに答えて、アルトは居心地悪く座り直した。ちらりと窓を覗いてみると、相変わらずの田園風景が広がっている。
 マラキア宮から、聖地ウラガーノへと続く道でのことだ。アルトはあてがわれた馬車の中で、一つ大きな欠伸をする。ただただ朝から晩まで馬車に乗り続けるだけの、旅程三日目。飽きるなという方が無理な話である。
 クラヴィーア王国ブリッサ地方にあるマラキア宮から聖地ウラガーノまでは、馬車を飛ばして約三日。そこで成人の儀の為に二泊し、そこから首都スクートゥムへはおよそ七日かかるという。もちろん夜になればどこかしらの町で宿をとれるよう計らわれているにしろ、全部で十一日間の強行軍だ。
 二日前の朝にマラキア宮を出発し、その日の夜はシーゼルという農村で、翌日はミミラという村で夜を明かした。アルトはそのどちらにも素朴な良い村だという印象を受けたが、いずれも日が落ちてから入村し、日が昇ると同時に後にしてしまったから、見て回ることはおろか村の人間と口をきく機会すら与えられる事はなかった。
 今日は夕方前に聖地ウラガーノへ着くというし、少しくらいは辺りを見て回る時間もあるだろうか。――今晩から早速儀式に入り、それが明日の昼まではかかるはずだ。やはり、期待はしない方が無難だろう。
(物心ついてから、こうしてマラキア宮を出るのは初めてのことなのに。まさか、スクートゥムまでずっとこんな調子なのか――?)
 うんざりはしたが、文句を言う相手もいない。双子の騎士はこの一行に参加しているはずなのだが、旅を始めてから一度も顔をあわせることがなかった。彼らのような少年兵は主に雑用を任されるようで、アルトの周りに来る用が無いのだ。
(それにしても、あの夢……)
 デュオに夢の話をしてからは、しばらくぶりに見た夢だ。アルトはもう一度、深く溜息をつく。
(せっかく声をかけたのに)
 あの夢は、一体何なのだろう。夢だとしか実際に説明のしようがないのだが、そこには妙な現実感がある。ただの夢だと言ってしまうことは、アルトにはできなかった。
(――夢占いにこってるっていう人の話、ちゃんと聞いてくればよかったな)
 考えてから、苦笑する。今更もう遅いのだと、十分に理解はしていたからだ。
「アーエール殿下」
 声が聞こえた。御者席の方のカーテンが開くと、御者の背中と付き人の顔、そしてその背景に崩れた絶壁と、石造りの立派な建物を臨むことが出来る。
「聖地ウラガーノが、見えてまいりました」
 
「これより先は、馬車での進入を禁止されております。ここでお降りください」
 止まった馬車の扉が開かれ、アルトは少し、目を細める。馬車にも窓はあったのだが、いざ外へ出るとなると、太陽の光がいささか眩しかったからだ。アルトは打ち掛けを羽織ると外へ出て、聖地ウラガーノをじっと見据えた。
 無残に崩れた絶壁と、それを囲うように、いささか不自然に出来上がった広い湖。そのほとりに、堅牢な石造りのウラガーノ城が建っている。度重なる侵略戦争に耐え、聖地を守り抜いた、物々しい城塞造り。話に聞いたとおりの光景だ。
 アルトは辺りを見回して、ふと、絶壁に刺さった何か棒のようなものに目を留めた。だが怪訝な顔でそれを見ていると、唐突に声がかかる。
「ようこそいらした。私は神官ノータ。おまえは何というのかね?」
 声の方へと向き直り、アルトは思わず瞠目した。そこに立っていたのが、白髪の老婆であったからだ。髪は乱れ、肌はたるみ、目には赤い布で目隠しがされている。見ると老婆に寄り添って歩いてきたものは皆目隠しをして、それでも危うげなくアルトの方へと歩いてきていた。
 気味の悪さに鳥肌が立つ。そんなアルトの心境を知ってか知らずか、老婆はひっひと不気味に笑った。
「その者、殿下に対して無礼であるぞ!」
 騎士の一人がそう言ったが、老婆は相変わらずの笑みを浮かべたままだ。
「ここは聖地ウラガーノ。王も老婆も、一人の人間に還るところよ。ここの神官が崇め奉るのは、天地の神とその付き人たる精霊達、そしてそれらに唯一認められたという英雄その人だけ。おまえさん、勘違いしてはいけないね」
「王も老婆も……。今の言葉、皇王陛下への反逆であるぞ!」
 他の制止も聞かず、騎士の一人が剣に手をかける。アルトは息を飲んで手を出しかけたが、次の瞬間、老神官の背後に控えていた目隠しの男が、持っていた杖で騎士の頭を殴りつけた。鈍い音がして、騎士がそのまま昏倒する。目隠しの男がもう一度振りかぶろうとしたのを見て、アルトは隣に控えていた騎士の腰から剣を奪い、それで男の杖を受けた。
 なんとも重い一撃だ。両手で剣を構えたにも拘わらず、振動を受け取った腕が骨まで響く。老神官ノータが楽しそうに、「ほお」と息をつくのが聞こえた。
「おやめください、この者は既に気を失っております! 私の名は、アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア。この者の無礼は主君である私の責任。何卒この場は、これにてお収め頂きたい」
 目隠しの男は答えない。代わりに前へ出てきた老婆が頷いて、ようやく男が杖を降ろした。
「全く、こんな礼儀知らずを連れ込んで。まあいい、おまえの顔に免じて許すとしよう。よくぞいらした。アーエール『殿下』」
 アルトは抜き身の剣を持ち主へ返すと、怪訝な顔でノータを振り返る。ここの者達は、なぜ目を隠したままこんなにも自然に振る舞うことができるのだろう。どうしても、違和感が拭えない。
「さあ、こちらへ」
 老婆を始め、ウラガーノの人間たちが歩いて行ってしまう。先程杖を振り上げた男が、自分自身で伸した騎士をかついで連れて行った。アルトが後について歩きだすと、唖然として様子を見ていた他の騎士達も、遠巻きにそれへついて来る。
(こんなの、聞いたことがない……)
 聖地ウラガーノで成人の儀を行うのは、正当な王族だけに許された特権だ。普段は立ち入ることはおろか、近づくことすら許されない場所である。だから当然、それがどのような地であるのかを聞くことは滅多にないのだが、誰もが目隠しをしているとか、あんなに強い神官がいるだとかということは、全くもって耳にしたことがなかった。
「そんなに、この目隠しが珍しいのかね……。これはね、お守りみたいなもんだよ。聖地には、見ちゃならんものがよく来るのでね」
 突然話しかけられて、アルトは思わずびくりとした。いつの間にやら、前にいたはずのノータが隣を歩いている。
「お守り……ですか」
「そう堅くなるでないよ。この老婆、若い者と話すのが好きでね。おまえのお付は皆怖がってしまったようだから、少しつきあっておくれ」
 アルトは「はあ」と相槌を打って、目を逸らした。崖の方へと視線をやると、先程と同じ、突き刺さった棒のようなものが視界にはいる。
「人が話しているというのに、一体どこをよそ見しているんだね」
 言われてアルトは、「申し訳ない」と小さく謝った。どうにも調子が狂わされる。どうせなら、と考えて、今度はこちらから質問することにした。
「あの崖に突き刺さっているものは、何ですか?」
「あれが見えるのかい。わしには、何も見えはせんが」
(……そりゃ、俺は目隠しなんてしていないから)
 心には思ったが、言葉にはしなかった。この老婆なら心の中まで読んでくるのではとも少しは心配したが、そこまで人間ばなれしているわけでもないようだ。アルトの方になど見向きもせず、ノータが一人で、楽しそうに呟くのが聞こえてくる。
「わしには、見えんのだがねえ」

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