吟詠旅譚

風の謡 第一章 // 「別れの唄」

009 : Distrust

 夜が明けていくのを、ベッドに腰掛けじっと眺めていた。
 カーテンに和らげられた日の光が、ぼんやりと寝ぼけたように部屋へ差し込んでいる。アルトは立ち上がると、ゆっくりと静かにカーテンを開けた。窓の外を見て苦笑に近い微笑みを浮かべると、一度大きく息を吐き、機敏な動作で身支度を整える。しかし着るのは、今日のために用意された旅の服ではない。ベッドの下へ隠してあった、いつもの変装道具である。
(もう、起きてるはずだよな)
 窓から身軽に地面へ降りて、目的地へとまず駆けた。朝露に湿った草が足元を濡らし、静寂に冷えた空気が頬を撫でる。走る度、アルトの細い金髪が揺れた。
 旅立ちのための馬車が既に正門近くへ運ばれているのを遠目に見ながら、アルトはただ馬小屋へ向かって駆けていた。幼い頃、悪ふざけをして落ちた小さな池の側を通り、庭師が世話をしてくれた、アルトの花壇を横切った。
 通い慣れた、馬小屋への広い道。もう見ることもないはずの道。それを駆け抜け、胸で浅い呼吸をしながら小屋の扉へ手をかけると、動物臭さが辺りに満ちた。この匂いにも、もう慣れっこだ。一番近くにいた馬の額を撫で、辺りを見回すと、アルトは小さく息を吐いた。水をかえた形跡はあるものの、目当ての人物の姿が見られなかったからだ。
(デュオ……、いつもなら、この時間は馬小屋にいるはずなのに)
 最後に少しでも話がしたかったのだが、この様子では、馬車の準備にでもかり出されているのだろうか。しかしそう考えたアルトが隣の小屋をのぞきに行こうと扉へ手をかけたその時、不意に、反対側の扉の開く音がした。
 デュオが戻ってきたのであればいいが、万が一にも、ここで護衛の近衛騎士と遭遇してしまってはばつが悪い。咄嗟に背の高い道具入れの陰へ身を隠したアルトに気づかず、誰かが中へ入ってくる。ここからでは確認できないが、どうやら複数いるようだ。
「これで、本当によろしいのですか」
 声を聞けば、それが誰のものであるかはすぐにわかった。ナファンだ。どうしてこんな時間に、こんなところにいるのだろう。もしかすると、アルトがここに隠れていると知っての言葉なのだろうか。一瞬だけそうも思ったが、アルトは息をひそめて聞き耳をたてた。もう一人の誰かが、ナファンの問いに答えようとしているのがわかったからだ。
「良いも悪いも、何年も前から覚悟はしていたことさ。それに今の俺は、一介の馬番。どうすることもできんよ」
 聞いて、アルトは今度こそ驚いた。ナファンに対してそう答えた、声の主がデュオであることに気づいたからだ。
「それはそうかもしれませんが……マラキアからの付き人は一人も要らぬなどと、何か裏があるのでは。それにこの、急な勅命……。あの時のことを知る人間に、疑わぬ者などおりません」
 二人は、一体何を話しているのだろう。動悸がはやまるのを感じて、アルトは小さく深呼吸する。
「……だが、あいつは約束に守られている。今しばらくはまだ……安全なはずだ」
「あんな男との約束が、なんだというのですか! きっと我々の目の届かないところへいった瞬間、好き勝手やるに決まって――」
「ナファニサ・ティ・ラ・レメス、言葉が過ぎるぞ!」
「しかし、しかしお考えください! あの男が、あなたさま、そしてあの方に何をしたのか――」
「疑って何になる、何ができる! もう俺達は……手をひかなけりゃならないところまで、来ちまったんだ!」
 しばらく、二人のどちらからも言葉はなかった。それがそのうち時間を増して、ナファンの方からこう言った。
「――寂しく、なりますね」
 デュオの答えはない。扉が開く音がして、どちらかが外へ出て行くのがわかる。アルトはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ふと我に返ると、音を立てないように注意しながら裏口を出た。
 今のは、一体なんだったのだろう。外に出て風に吹かれると、得体の知れない寒気に鳥肌がたった。
――ナファニサ・ティ・ラ・レメス、言葉が過ぎるぞ!
(ティ・ラ・レメス――ナファンの事なのか?)
 そう言った時のデュオは、いつもの様子からは考えられないような剣幕であった。気を紛らわせようと腕をさすりながら、アルトは懸命に考える。
(どう聞いても貴族の名前だ。――けど、レメス家なんて聞いたこともない)
 しかしナファンに関して言うならば、納得できない事もない。没落貴族が位を失い、格の高い貴族のところで教育係になるというのなら、考えられない話ではないからだ。しかし――
「あなたさま」
 声に出して、呟いてみる。ナファンがデュオに言った言葉だ。確かに聞いた。確かにナファンがそう言ったのだ。
――今の俺は、一介の馬番。
 背筋に冷たい何かが走った。今まで何の疑いもなかったことの方が、余程おかしい事のように思われる。確かにナファンは、今までにもデュオとよく会っていた。馬番と執事の身分差からすればおかしなことではあったが、ナファンもアルト同様、身分にはあまりこだわりがないのだと思っていたから、別段気には留めなかった。
 頭が混乱してきた。一体どこからまとめれば良いのだろう。ナファンの事? デュオの事? それとも――
――あいつは約束に守られている。
(俺の事、か……?)
 今の会話は何だったのだろう。考えても、どれも想像の域を脱することはない。アルトはしばし考えて、首を横に振った。わからない。自分の知らないところで一体何が起こっているのか。
――お考えください! あの男が、あなたさま、そしてあの方に何をしたのか。
 そして一体何が、起こったのか。
「よお、遅かったな」
 すぐ背後から声がしたので、アルトは思わずびくりとした。デュオの声だ。
 出来る限り平静に近い素振りで振り返り、いつものように笑みを作る。笑いはしたが、無理はあったかもしれない。握り締めた拳の中を、冷たい汗がなぞっていく。
「なんだよ。その『遅かった』って」
「いやなに、おまえのことだ。最後にもう一脱走くらいはやらかすだろうと思ってな。待ってたのさ」
 デュオの方はと言えば、まるでいつも通りの反応だ。先程の会話をアルトに聞かれたかもしれないとは、微塵も思っていないということだろうか。
「なんだ、お見通しってわけか」
――お見通し。
 一体、どこまで?
「それで、別れの挨拶でもしに来てくれたのか?」
 アルトは声のないまま、首を横に振った。
「一つ、その、……頼みがあって」
 それは本当のことだ。始めはその頼みを聞いて欲しいばかりに、こんな早朝にデュオの元を訪れたのだ。しかし今のアルトには、その先に続けようとしていた言葉を続けることができなかった。
 宮殿では、本当なら誰もが敵同士。幼いころから、アルトにもそれくらいのことはわかっていた。だから使用人達といることを好んだのだ。彼らなら馬鹿馬鹿しい権力争いとも、騙し合いとも、遠いところにいると信じていたから。
(だけど、もしデュオが、元は名のある貴族だったとしたら……)
 そして何かの目的のために、マラキアヘ入り機会を狙っているのだとしたら。
「頼み?」
 デュオが聞き返したので、アルトは小さく頷いた。
「その……この宮殿の次の主が決まるまで、ここを……よろしくって、言おうと思ったんだ」
(違う)
 心の中で、叫びたかった。こんなことを言いに来たわけではなかったのに。
「馬鹿。おまえ、そういうことはナファン殿に言うのが筋ってもんだろ?」
 デュオが笑いながらそう言うので、アルトも口の端をつりあげて、答えた。
「ナファンじゃ、抜け出して来たことがわかった時点でお説教だよ。頼み事をしてる暇なんか、無いさ」
「確かに、そりゃそうだ」
 気持ちの良い、朝の風が吹いていた。それなのにじわじわと、嫌な汗が吹き出してくる。
 デュオはどうして、こんなにもいつも通りなのだろう。今までもずっとこうして来たから、もう慣れっこだという事なのだろうか。
「そういや、おまえに渡すものがあったんだ」
「渡すもの?」
 デュオが笑顔で頷いて、自分の服のポケットから、何かをひょいと取り出した。それは太陽の陽を受けて、きらりと小さな光を返す。
「ペンダント?」
 差し出されるまま受け取って、アルトはそう呟いた。大きな両手でしっかりと、それをアルトに握らせたデュオは、なにやらやけに満足げだ。
「いつかおまえが旅立つ時に、渡そうと思ってた」
 金色のペンダント。小さいものだが美しい細工が施され、質の良いものであるとすぐに知れた。ロケットのようだが、妙な傷があるせいで開くことはできない。表面に刻まれた紋章も、その傷のために元がどんなものであったのかは想像に難かった。古いものだが、その傷以外に損傷は見られない。大切に保管されていたのだろう。これが今まで、デュオの大きな手の中にあったのだと思うと、奇妙な気分にさえなった。
 しかし不思議に思うのは、その不釣り合いさだけが理由ではない。アルトは指先でペンダントの表面をなぞって、それが本物の金で作られていることを知った。
「――これは?」
 とてもではないが、一介の馬番が持つことのできるものではない。それなのに何とはない口調で、デュオがさらりとこう答えた。
「たった一つ残った、嫁さんの形見さ」
「デュオが結婚してたなんて、知らなかった」
「言わなかったからな。息子もいたんだ」
 今度こそ耳を疑った。アルトの、もの問いたげな視線に気づいたのだろう。デュオはにやりと笑って、まるで子供をあやすかのように、アルトの頭を撫でてみせる。
「今はもう、いないけどな」
「……死んだの」
「まあ、そんなところさ」
 アルトはしばらくの間、自らの掌へのったペンダントを見つめていた。そうしてそのまま、何も言わずに佇んだ。
 ほんの一瞬前の自分だったら。アルトは考えた。ナファンとのあの言い争いさえ耳にしていなければ、まだ素直に、この奇妙な贈り物を喜んで受け取っていたことだろう。
 ペンダントを裏返す。妙な傷は、裏側にまで走っていた。誰かが故意につけた傷なのだ。
「ありが……とう」
 視線をペンダントへ落としたまま、おずおずとそう言った。デュオが苦笑する声が聞こえる。「お気に召さなかったかい?」その苦笑がそう言ったように思えて、アルトは慌ててデュオの目を見た。実際、デュオの好意は嬉しいのだ。旅立ちの日にこんな大切なものを預けられることは、何にも優る名誉に思える。
 そう言おうとしてデュオを見て、アルトはしかし、言葉を無くした。
 悪戯っぽい笑顔で、デュオが笑っている。アルトが自分でリンゴをとって、噛ってみたいと駄々をこね、二人で菜園に忍び込んだ時と同じ笑顔だ。
(デュオは、気づいているんだ)
 先程の会話をアルトが聞いていたことも、そのせいで彼が、デュオに対する疑いを持ってしまったことも。
 デュオが本当にただの馬番であるなら、持っているはずの無い金のペンダント。だから渡したのだ。そうしてこれを渡した時、デュオは声無き言葉でこう言ったはずだ。
――聞きたいなら、聞いてみな。俺は全部答えてやるよ。
 今なら、全て話してくれる。今でなければ、もう尋ねることも出来ない。しかし、それでも――
 アルトはペンダントを握り締め、しっかりとデュオに向き直る。
「ありがとう。大切にする。スクートゥムへ行っても、いや、どんなに遠いところへ行っても……マラキアでのこと、デュオのこと、絶対に忘れない」
 そう言って、互いにしっかと抱擁を交わす。アルトはいつものように笑ってみせたが、それ以上には何も問わないことに決めた。その疑問を口に出した瞬間、自分の故郷、マラキアでの思い出がすべて変容してしまうだろうと、わかっていたからだ。
(俺は聞かない。……そうすればこれからも、デュオは俺の知っている馬番のデュオでいてくれる)
 求めずにはいられなかったのだ。見知らぬ場所への旅の背に、心休まる故郷を残しておくことを。

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