吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

051 : Sua sponte -2-

 ふらりと歩く男の脚が、影を伴わないまま柱を離れた。まるで無邪気なその足取りは、建物の縁まで進んで夜更けの町を見てまわり、ひらりと上がった右手は頬に添わせ、喧噪に湧く繁華街に向け、耳をそばだてるような仕草をみせた。
「ねえ、ラト。旅人ごっこは楽しかったかい? 化け物が正体を隠して、人間のふりしてすごすのは、さぞかし骨が折れたろう。商売なんて身の丈に合わないことをするお前の姿が、どんなに滑稽なものと見えたか」
 ラトと同じその声が、嘲笑うように言葉を揺らす。ラトと同じその顔が、不敵に笑んでラトを見る。「でも」と、禍人が言葉を句切り、耳に当てていた右手を、すらりと町へ延べてみせた。ラトが警戒に眉をひそめながら、それでもしかし、つられるように彼の腕が示す箇所へと顔を向ければ、禍人の声はこう続ける。
「あの判断だけは正しかった」
 視線を延ばした先にあるのは、――人々の喧噪と、煌々と灯る松明の火。そしてそれらに囲まれた、巨大な幕屋の天辺である。
 ラトが日中訪れた、旅一座の居座である。
「ラト、お前の選択は正しかった。自分の身を危険に晒してまで、あの狼を助けに向かう必要なんてこれっぽちもない。あそこにずらりと並んでいた、檻の中身を見ただろう? 蛇の尾を裂き、トリアの翼を捏造する輩の居る場所だ。お前のような化け物が見つかれば、一体何をされる事やら。髪を切り、鎖で繋ぎ、獣のように人間達に晒されるよ。臆病なくせに、誇りばかり高いお前のことだ。そんな屈辱には、とてもじゃないが耐えられないだろう」
 禍人が、吐き捨てるように呟いた。呟くそばから言葉が濁り、冷たく夜空に滲んでいく。ラトは目を伏せたまま、しかしやっとのことで、「やめろ」とだけまず言った。
「やめないよ。あの狼、夜中に一人で歌っていたって? 馬鹿なやつ、どうして大人しく待っていられなかったんだろうな。たった五日、町の外で身を隠す、それだけのことができないなんて」
 背筋に寒気が走っていく。「ちがう」と一言呟けば、何やら身体がこわばった。
 禍人の声、ラトの声。同じことだ。同じ声。
「そんなことは思ってない」
 言うそばから、それを否定する己の声が、ラトの身のうちに反響する。
「嘘ばっかり。ただでさえ自分の身が危ぶまれるこんな時に、馬鹿なことしたハティアの事、疎ましいと思ったくせに」
「嘘じゃない、そんなことは思わない。――彼女は、僕の恩人だもの」
「マカオの頃から進歩がないな。おまえはすぐにそうやって、善人ぶろうとするんだから。わかるよ。他人に手を差し伸べようとするお前の姿を見て、いつか誰かが、お前自身に手を差し伸べてくれることもあるかもしれないと、そう期待しているんだろう。だから善人ぶるんだろう」
 「浅ましいなあ」笑いをこらえて禍人が言う。ラトの腹の中にふと、――熱い何かが迸る。
 怒りに任せて顔を上げれば、ぐらりと視界が歪んで見えた。先程まではあんなに煌々と町の灯りが見えていたのに、いつの間にやらそれがない。生ぬるい風が足元をすり抜けてゆくのを感じて顎を引き、ラトは小さく息を呑む。
 気付けばラトは今、どこか真っ暗な闇の中で、細い足場の上に立っていた。
 月明かりすらない闇の中であるというのに、足場だけがてらてらと、不思議な光を帯びて見える。道のようにも見えるそれは、右へ左へ蛇行しながら、長く長く延びていた。
 「お前は卑怯で、とても賢いよ」くつくつと笑う声を視線で追えば、長く延びる道の先、遥か向こうに禍人の姿があった。それを追いつめようとして、だがすぐに、ラトはその場へ立ち竦む。足を浮かせてみて気づいたのだ。これはただの道ではない。人一人が慎重に進んでやっと通れるほどの幅しかないこの道は、その両脇に、すとんと墜ちる断崖を携えている。
 ほんの少しでも足を踏み外そうものなら、どこまで墜ちるか底知れない。
「マカオの化け物は死んだと言われた。それを信じたかった。この町へ来てようやく、お前もそれを信じ始めてた」
 禍人がふと、そう言った。
「旅人としてアバンシリを訪れて、薬師として仕事をして、――少しだけ、期待をし始めたんだ。……外の世界でなら、お前が丘で思い描いていた、ひとりの人間としての『当たり前の生活』ができるのかもしれないと考えた。でも、ラト、もう気づいたんだろう。その考え自体が、どれだけ世間知らずなものだったのか」
 禍人が危うげなバランスを取りながら、細いその道をラトの方へ、ふらふらと歩き出す。
「アバンシリではいろんな人に会ったね。旅の薬師になど注意を払いもしない商人が居るかと思えば、お前のような若輩者を、先生と呼んで重宝するようなやつも居る。クレモナのように上等な衣服を纏い、周囲に気を使われながら生きる人間が居る一方で、奴隷として焼き印を捺され、商品として扱われる人間が居る。奴隷の中ですら、優劣がついているのは傑作だったな。だけどお前が身を投じたのはそういう世界だし、お前が足を踏み外したなら、きっと、町で見た他の誰より最も惨めなところまで、墜ちることになるんだろうね」
 化け物でなくなれば、ただの人間として認められれば、そこには『当たり前の生活』があるのだと思っていた。一人の人間として尊厳が認められ、他者と対等に語り合い、誰かに大切に扱われ、誰かを大切に思うことが、認められるようになるのだと。
 けれど。
「ラト。お前はいつだって、境界線の上にいるんだ」
 明瞭な、それでいて荒々しい口ぶりで、禍人はラトにそう言った。
「境界線はどこにでも、幾らでも、無尽蔵に引かれている。マカオを出たことで、今のお前は『丘の化け物』という役割から逃れ、自由を得たつもりでいるのかもしれないが、そんなの全てまやかしだ。あの幕屋の中で見た、トリアのことを思い出せ。二股の蛇を思い出せ。お前はいつでも、化け物に戻りうるのだから。一歩踏み誤るだけで、どこまででも、深みに墜ちてゆけるのだから」
 禍人が言い放つのと同時に、ひときわ強い風が吹いた。不安定な足場に立つラトを、その先を歩く禍人を、アバンシリの夜風が弄ぶ。一瞬ぐらりと目の前の風景が歪むと、ラトの世界にはまた、アバンシリの夜景が、喧騒が戻ってきていた。だがそのことに、安堵するようないとまはない。建物の縁を歩いていた禍人の足が空を踏み、――その身を夜更けのアバンシリへ投げ出すような形で、影が傾いでいくのに気づいたからだ。
「――!」
 息を呑む。汗が湧く。胸が恐怖で竦み上がる。しかし、
 闇へ消えてゆこうとする禍人に向けて、ラトは、咄嗟にその手を延べていた。
「どうして助けるんだ? お前は、私のことなど嫌いだろう」
 ラトに片腕を掴まれ、壁のない建物からぶら下がった姿勢のまま、禍人がぽつりとそう言った。手が滑る。だがなんとしても離すまいと、掴んだその手を握りしめる。
 禍人の体重に引きずられるようにして、伏せた姿勢のラトの身体が、ずりずりと床を這っていく。空いた左手は必死に支えを探すのだが、やっとの事で掴んだ壁は、ぼろりと欠けてラトより先に地へ落ちた。
――お前が足を踏み外したなら、きっと、町で見た他の誰より最も惨めなところまで、墜ちることになるんだろうね。
 ひやりとした何かが背筋を走る。しかしその手は離さない。
 離せない。
(墜ちてたまるか)
 吹き出した汗が手の筋をなぞる。段々と、握力が失われていく。
「放せよ。このままじゃ共倒れだ」
「嫌だ」
「放せ」
「黙ってろ」
 有無をいわさずそう言って、腕に一層力を込める。自分がなぜそうしているのか、実のところラトには、ちっとも理解できてはいなかった。だが。
「お前と話してよくわかった。確かにお前の言うとおり……僕は自分のことなんて、いつまでも好きになれそうにない。けど、――自分の望みを諦めるために、悪人ぶろうとするお前の姿に打ちのめされるのは、僕だってもうまっぴらだ」
 禍人がふと、ラトのことを振り仰ぐ。その表情は茫洋として、この状況への焦りも、先程まで見せていた嘲りも、既にその中に見られない。
「『丘の化け物』は、ただ死んだわけじゃない。殺したんだ、僕が、そう決めて――。『丘の化け物』は、」
 眼下の禍人と目があった。
「とっくの昔に殺したんだ」
 墜ちてたまるかと、そう思う。
 墜ちてたまるか。貶められてたまるものか。他人にも、――
 自分自身にも。
「あの雨の日、――妹を助けようとして、お前が札を破り捨てたこと、思い出した」
 禍人が唇の両端を釣り上げて、最後に短く、こう言った。
「覚えておきなよ、ラト。その無謀と高潔は、いつか必ず、お前のことを追い詰める」
 
「――、ラト! この勘違いの大馬鹿野郎、お前は何をやってんだ!」
 突然耳に響いたその怒声に、はっと短く息を呑む。状況が理解できないまま、しかし乱暴に腕を引かれた先に見えたのは、額に青筋を立てたキリの顔であった。
 この男は、一体何を怒っているのだろう。ぼやけた頭でそう考えて、直後、頭部を襲ったその衝撃に、思わず目を白黒とさせる。
 かつてないほど強烈に、そして容赦なく、脳天を殴りつけられた。いや、どうやらそうではない。目の前に立つこの男に、頭突きを食らわされたのだ。
 視界が回る。気持ちが悪い。数歩ふらふらと後ずさり、その場に座り込もうとすると、再びキリに腕を引かれた。一体何だというのだろう。突然の出来事に、ちっとも理解が追いつかない。しかしふと、足元を風がさらっていくのを感じ、ラトは思わずひやりとした。
 先程までと同じ、吹きさらしの最上階に居る。ラトの右足は宙に浮き、キリに引っ張られるまますとんと座りこんだラトの腰は、建物の縁ぎりぎりの位置にあった。
「飛び降りとか、お前ほんと……お前ほんと勘弁しろよ……」
 すぐ隣に座り込んだキリが、絞り出すようにそうぼやく。飛び降り。その言葉に虚を突かれ、ラトは両目を瞬かせた。ぐったりとだらしのない姿勢で座るキリは額に汗を浮かせ、息を切らせてそこにいる。それでようやく、ラトも自分の置かれた状況を理解した。
「ちょっとキリ、帰ってくるなり挨拶もなしに駆け上がって、……一体何があったんだい?」
 階下からいくらか階段を上がり、ルクサーナが顔を覗かせる。キリは片手だけをぱたぱたと振ると、「いや、なんでもなかったわ」とやる気なげにそう返した。そうしてルクサーナが戻っていくのを確認し、その場に崩れ落ちるように寝そべった彼は、腹の上下がありありと分かるほど無防備に、深く、一つ大きな溜息を付く。
「ラト君、あのさあ……」
 言わんとすることは、ラトにも察しがついていた。だがあえて視線をそらすように、宙に浮いていた右足を引き、膝を抱えて顔を伏せる。
「野暮用帰りにふと頭上を見上げたら、顔見知りの大馬鹿野郎が、思い詰めた表情で空中散歩始めそうになってるのを見つけた時の俺の気持ち、わかる?」
 叱られるのかと思いきや、キリの口調は平坦だ。だがしかし、顔を伏せたままくぐもった声で、「さあ?」とラトが控えめに返せば、即座に、キリの足が背を蹴った。
「『さあ?』じゃねえだろ。もう一発お見舞してやろうか」
 むくりと上体を起こしたキリが、ラトの後頭部を鷲掴む。おかげでちっとも振り返れずに、ラトはその姿勢のまま、「勘違いはあんたの方だ」とまず言った。
「別に、……そういうつもりはなかった。ただちょっと、頭の中を整理してただけだ」
「へえ。両手放しで三階の縁に立った上、既に片足浮いててもか。随分人騒がせな瞑想法だな」
 それは『ラト』の意志ではない。だがそんなことを言ったところで、きっと理解はされないだろう。もう一度背中を小突かれて、ラトは小さく溜息をつく。
 どうやら機嫌を損ねたらしい。だがこれから先もこの男には、協力を仰がなくてはならないのだから、このままでいては良くないだろう。キリの勘違いであったとはいえ、心配をかけてしまったことを、謝らなくては。
(……、……心配)
 そうか、と今更不思議な納得が、ぽつりとラトの胸に落ちる。
 この男は、ラトを心配したのか。
「ああ、でも、そういえば」
 不意にいつもの軽い口調で、キリが短くそう話す。それに続いた言葉を聞いて、ラトはぽかんと口を開けた。
「さっきは勢いで頭突きしちまったけど、……額の目ってどの辺だっけ。もしかして命中した? 失明とか、してないか?」
 「まあどうせ使ってない目だし、多少の不具合があっても許せよ」きまり悪そうにそう言われても、すぐにはなんとも答えられず、ただゆるゆると顔を伏せる。そうして口元を隠してから、ラトは思わず、
 声を潜めて吹き出した。
 咄嗟に顔を伏せたのに、肩が揺れるのを隠せない。これでは笑っていることなど、もはや歴然ではないか。そのうち声すら抑えることができなくなり、ラトは抱いていた膝を伸ばすと、先程キリがしていたように、ごろりとその場に倒れ込む。
「この目が潰れたら、困るのはあんたの方じゃないのか。商品価値が下がるだろ」
「はあ? やめろよお前、まだ商売諦めんなよ。やり方を学ぶとか戦略を練るとか、昼間はやる気に溢れてたろ。俺は人買いの真似事なんか、なるべくやりたくないんだからな」
「僕だって売られたくはない」
「んなこと知ってるよ。だから働けって」
 呆れた様子でキリが言い、やれやれと肩をすくめてみせる。仰向けになってその様子を眺めながら、ラトはふと、「ありがとう」と呟いた。突然のその言葉に、どうやら耳を疑ったのだろう。訝しげなキリの視線を無視するように、ラトはそのまま目を閉じて、聞こえてくる音にただ耳を傾けた。
 夜を賑わす町の人々の声。遠吠えをする獣の声。精霊たちはまた無邪気に、夜の帳を駆け抜けていく。
――お前はいつでも、化け物に戻りうるのだから。一歩踏み誤るだけで、どこまででも、深みに墜ちてゆけるのだから。
 ラトの声が、ラトに確かにそう言った。そうだろう。そのとおりだろうと今は思う。だが理解はしていながら、ラトは奥歯を噛み締めて、その恐怖を黙殺した。
 今は怯えるより他に、するべきことが他にある。
「キリ。……ひとつ、その、頼みがあるんだけど」
 むくりと起きてそう言えば、胡座をかいて座すキリと、すぐに目があった。
 月の大きな夜であった。旅人はその青白い光を背景に、にやにやと笑んでラトに問う。
「次はどのようなご依頼で」
――ここに残って、お前に何が出来る?
 幕屋を離れる際、この男はラトにそう言った。
「ハティアを迎えに行こうと思う」
「ほう、それで?」
――その情けない面で迎えに来られたんじゃ、ハティアだって迷惑だろうよ。
 ラトが新たな依頼を告げると、キリはまず、鷹揚に頷いてみせた。それからふいに腕を組み、「まあ確かに、お前の予算じゃそれくらいが関の山かもな」と言って笑った。
「いいだろう。その依頼、俺が確かに請け負った」
To be continued...
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