吟詠旅譚

太陽の謡 第三章 // 砂中の灯

050 : Sua sponte -1-

「少しは落ち着いたかい」
 声をかけられてはじめて、いつの間にやらラトの隣に、人が訪れていたことに気がついた。しかし声には気づきながら、ラトは膝を抱えて顔を伏し、座り込んだ格好のまま、答えることはせずにいる。そうしてしばらく放っておけば、きっと相手も気を害して、この場を去ってくれるだろう。そう考えたのだ。
 今は誰とも話したくない。どうか放って置いてほしい。だがそう願うのに、相手は一向に立ち去る様子を見せやしない。そのうち肩に何かを被せられたのを感じて、ラトはゆるゆると、しかし明確な意志を伴い顔を上げる。
「要らない」
 乾いた声でそう言えば、不意に生暖かい風が吹く。視線を上げきらぬままでいるラトの視界には、腰をかがめるルクサーナの胸元と、その背後に夜更けのアバンシリが広がっていた。
 三階建ての建物の、――否、三階建てになる予定であったのだろう建物の、吹きさらしの最上階にいる。四隅の柱と一部の壁だけが中途半端に残されたこの階は薄暗く、手元には明かりのひとつもない。だが二つ先の通りに見えるアバンシリの繁華街は、この時間を迎えても尚煌々と火を灯しているし、脳天気な人々の怒声や笑い声は、夜風に度々運ばれてくる。それを苦々しく感じながら、ラトは己の肩に掛けられた毛布を剥ぎ取って、ルクサーナに突きつけた。
「要らない。持って帰って」
 「だめ」と即座に、有無を言わぬルクサーナの声。「黙って被ってなさい。それから、お湯を持ってきたからね。冷めないうちに飲むんだよ。身体を温めないと」
「病人じゃあるまいし」
「そんなに顔を青くして、立っているのもやっとだったくせに、病人となんの違いがあるって? 薬師先生、悪いけど今はあたしの方が、余程まともな診察が出来るよ」
 ルクサーナが無理にラトの腕をひき、湯の入ったカップを強引に押しつける。抵抗する程の気力もなく、ラトが渋々それを受け取れば、彼女は「よし」と満足げに笑ってみせた。
「キリからの伝言、伝えとくよ。用事があって少し出かけるけど、あんたもクレモナも、おとなしくここで待ってろってさ」
 ラトが答えずにいるのを見て、「確かに伝えたからね」とルクサーナが念押しする。そうして階下に戻っていく後ろ姿を見送って、ラトは小さく、力の入らぬ溜息を吐いた。
「病人じゃあるまいし」
 同じ言葉を意味もなく、口の中で繰り返す。陽の落ちる時間が早くなったとはいえ、日中はじりじりと灼くような陽に晒されるアバンシリの気温は、そう容易く落ちはしない。毛布も湯も、今のラトには不要なものだ。
(どうして放っておかないんだ)
 中途半端に毛布にくるまれた姿で取り残され、しかしそれをもう一度剥ぎ取る気にもなれないまま、黙ってカップを口元へ運ぶ。湯を口に含んでみて初めて、ラトは己の身体が、乾ききっていたことを自覚した。
(どうせならこのまま干涸らびて、……消えてしまえたならいよかったのに)
 ルクサーナに招き入れられたその建物は、外からは廃屋のようにしか見えなかったものの、内部は案外整えられていた。階下の部屋は煉瓦の壁が四方を囲み、住人を風雨から守っていたし、足元には色の禿げた大きな絨毯が敷かれていた。だが三階はこの通り、吹きさらしになって屋根すらない。
 それくらいが、ラトの身の丈にはあっている。そんな事を考える。
(要らない。……要らない、湯も毛布も気遣いも、不相応だ、僕は、僕には、)
 盗み見るように、頭上に輝く月の光を覗きこむ。そうすれば自然と、月明かりの下で微笑む、ハティアの姿が思い出された。
「   」
 無意識のうちに、肌に爪を立てていた。何かを確かに呟いたのだが、一体何を言ったのだが、ラト自身にもわからない。先程からずっとそうだ。止めどなく思いは溢れるのに、ひとつも言葉にならないのだ。
――それじゃ、しばらくお別れね。大丈夫よ、自信を持って! ラトの薬、とってもよく効くんだもの。きっとみんなわかってくれる。良い商売になるように、私、ずっと祈ってるから。
 別れる前の日の晩、無邪気に笑って彼女は言った。
――キリ、ラトの事をお願いね。ふたりとも、ちゃんと仲良くするのよ。……そうだ! 町の様子とか、収穫祭がどんなふうだったかも、あとできっと教えてね。自分たちだけ楽しんだらずるいわよ。どんな食べ物があったか、どんな人がいたか、教えてもらえるのを楽しみにしてるんだから。そう、とっても、……とっても楽しみよ。だから、町を楽しんできてね。
 あくまで明るくそう言った。ハティアはずっとそうだった。そうして翌早朝、街道の手前で別れた狼は、何度も何度もこちらを振り返りながら、やがて岩壁の向こうへと消えていったのだ。
「――あれは誰なの?」
 真っ青な顔をして、ここへ着くなりそう問うた、クレモナの言葉を思い出す。キリやルクサーナからいくらか距離を取った彼女は、遠慮のない様子でラトの袖を掴むと、「わたくしの目に、はっきり姿が映ったのよ」とそう告げた。
「あれもきっと、精霊だったわ。だけどまるで人間のように怯えていて、……こういう表現が正しいかはわからないけれど、わたくし、その精霊と目があったの。そうしたら急に、わたくしの方に近寄ってきて、――あまりに必死だったものだから、なんだか、その、怖くなって、手を払ってしまったの。おまえは何か知っている? 昨日よく似た、別の精霊を連れていたでしょう。何か知らない? あれが一体、なんだったのか」
 罪を暴くようなその問いに、ラトは一言も答えなかった。答えることが出来なかった。それで彼女の手を振り払い、足を引きずるように問いから逃げて、薄暗い階段を昇ったのだ。
 知っているとも。よく知っている。知っていてラトは駆けたのだ。
(よく似た、……別の精霊)
 昨日クレモナと出会った際、彼女はラトの背後に、一般的な精霊とは違う何かの姿を見たと言った。ラトは当初、ハティアが何かしらの方法で町の中についてきたのだろうと考えたが、――どうやらそれは、思い違いであったらしい。
 あの狼を背にして駆けたとき、ラトは周囲の精霊達が語りかける声を聞いていた。恐らく無意識なのだろうが、クレモナはそこにいるだけで、精霊達を引き寄せる。そうして気まぐれに寄ってきた精霊達が口々に、ラトに語りかけたのだ。
 呼ばれているよと、そう聞こえた。助けなくて良いのかと、彼らは楽しげにそう問うた。
 わかっていた。わかっていたのに、
 ラトは足を止められなかった。
(……僕は今まで、何度も君に救われたのに)
 頬に汗が浮いていた。鳥肌が立って仕方なかった。もたれかかっていた頼りなげな柱を殴りつければ、その反動で、手にしたカップの水が散る。叫び出したい衝動だけが体内を巡るのに、形にならず燻った。
「君のこと、今度こそ僕が、」
 助けなくてはならなかったのに。
 じっとしていられずにその場へ立ち上がれば、羽織らされていた毛布が、ぱさりと落ちて風に引きずられていく。ゆらりと歩く足取りすら、確かなものとは思えなかった。しかしそれでも、半端に残った煉瓦の壁を探りながら、足を引きずり歩んでいく。
 そうして壁の途切れるところまで脚を進めると、不意に強い圧力があった。
 風だ。熱を宿した夜風は容赦なくラトの身体を翻弄し、マカオを出てからまた伸び放題に伸ばしていたラトの赤い髪を、好き勝手に散らしていく。
 視界が悪い。だがふと足元を覗き込めば、遙か下まで吸い込まれるように、すとんと薄闇が延びていた。闇の先にあるのは、ラト自身も通ってきたはずの路地であろう。何の整備もされていない、ただ人の脚で踏み固められただけの道ではあった。何の変哲もない道であった。それなのに、夜闇の時間にこうして上から覗き込むと、何やら得体の知れないものと思われる。
 それがなぜだかわからないまま、闇に向かって手を伸ばす。すると、その瞬間。
「見捨てたんだ。お前は我が身可愛さに、ハティアのことを見捨てて逃げた」
 不意に聞こえたその言葉に、ざわりと血が波打った。だがその一方で、そこに訪れたのが誰なのか、どういう類の客であるのか、ラトは既に承知している。
 視線は揺らさない。ただじっと、賑わう繁華街を睨め付ける。
 上空の風に弄ばれながら、ラトは拳に力を込め、嗄れた声でこう言った。
「何しに出てきた」
「何って、お前が呼んだんだろう」
「くだらない冗談はやめろ」
「冗談なんかじゃないさ。石棺の中で永遠に、さよならできたと思っていたのか? もしそうなら、残念だったね。お前が私の名を言い当てた、あの瞬間から、私はいつでもお前と共に在るのだから」
 からかい混じりの声を聞く度、ちりちりとした苛立ちが、ラトの胸中を焦がしていく。「わかっちゃいたんだろう」呟くその相手は、しかし反対側の柱に寄りかかる形で立ったまま、ラトに歩み寄ろうとはしない。
 精霊達が、そっとその場を離れていくのが感じられた。恐れているふうではない。『彼』がうざったそうにぱたぱたと手を振ると、それに応じて避けたのだ。ラトが同じようにしたところで、彼らは気にする様子もないのに、随分態度が違うではないか。
「お前には今、一番会いたくなかったよ」
 目を眇めたラトの一方で、低く笑う声がある。楽しいことなど何もないくせに、振り絞るように嗤うその声が、静かに夜闇へ融けていく。
「――、禍人」
 唸るようにラトが呼べば、男は薄く微笑んでみせた。

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