吟詠旅譚

太陽の謡 第一章 // 町を買った少年

001 : Initium

 ラトが初めてこの町にやってきたのは、十二年前のことだった。けれどその当時のことを、ラトはちっとも覚えていない。というのも、その時のラトはまだ一才にも届くか届かないかの赤ん坊であったからだ。
 ラトを育てた占い師のばあさまが言うには、赤子のラトは丘の頂上に立つ老樹の根本でぽつりと、一人で眠っていたそうだ。それを当時の町の羊飼いが見つけ、町の占い師であるばあさまに預けたのだという。
 ばあさまは何も言わなかったが、ラトは自分の異形――額に目を持つ三つ目子のために親に捨てられ、それ故に町から隔離された家に住む占い師のばあさまに預けられたのだろうと、それくらいのことは理解していた。
 ラトの三つ目が一体どういうものなのか、それは知識の深いばあさまにもわからないという。だがたまに会う町の者達の好奇の目にラトが傷つく度、ばあさまはこんな事を言って聞かせた。
「あいつらは、おまえが恐ろしいだけなのさ」
 そうかもしれない。ラトも町の人々に恐れられていることはわかっていた。しかし、どうして自分よりも何倍も力を持った大人達までがそう思うのか、ラトにはちっとも理解ができなかった。
「お前のその目が自分達と違うから、自分達とは違う何か特別な力を持っているかのように勘違いをして、勝手に脅えているだけさ」
「僕にそんな力はないよ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だけどね、ラト。お前はこう言われるのを嫌がるかも知れないが、私はお前には不思議な力が備わっているんじゃないかと思っているよ。村の者達が勘違いしているような恐ろしい力ではなくて、誰かを助けることのできる優しい力がね。今は村の者達も怖がっているけれど、いずれおまえがこのちっぽけな家から飛び出して、世界に旅立つ頃になれば、きっとこの占いばばの言葉が正しかったことに気づくさ」
 そう言ってばあさまはよく、微笑んだ。そしてそのばあさまも、ラトが八つの時に死んだ。死に顔の安らかな、大往生だった。
 
 羊たちを柵の中へ導き終えて、ラトは自分の家へと向かった。丘を下った先にある、小さな木造の家だ。そこにラトは今、ばあさまの後を継いだ占い師である『母さん』――タシャと、その娘であり、ラトが妹として可愛がっているニナと三人で暮らしている。ばあさまが死んでからのことだから、かれこれ四年になるだろうか。
 『父さん』つまりニナの父親はまだ家族が町に住んでいた間に早世しており、ラトは会ったことがない。話に聞いたところでは、腕っ節が強く、責任感があり、村の誰にも好かれる男だったという。
 ラトが玄関の扉に手をかけると、背後から明るい声がした。
「お兄ちゃーん!」
 ニナだ。振り返ると、村から家へと続く一本道に、小さな影が二つ並んでいる。ニナと、おそらくは村に住んでいるホロという少年だ。ニナのことを好いているらしく、最近よく、学校の帰りにニナを送ってくる。とはいえ普段はニナからその話を聞いているだけで、実際に会うのは初めてだ。
 ラトは頭に巻いていた布を額まで押し下げて、ニナに向かって手を振った。村の人間はラトのこの目を見ると、腐った物でも食べてしまったかのような渋い顔をする。何度も見たい光景ではない。
 それも、折角できたニナの友達だ。この不気味な兄のせいで、台無しにしてしまうようなことは絶対に避けたい。ラトはそう思っていた。
「おかえり」
 できる限りの明るい声で、声をかける。ニナは勢いよく手を振りかえしたが、ホロという少年は化け物にでも会ったかのように、その場へ硬直した。この家に住んでいるニナの『兄』といえば、奇怪な目を持ったはぐれ者であることを、彼もまた心得ているからだろう。
 ラトはもう一言何か声をかけてみようかどうかで迷い、すぐにやめた。
 目は伏せたが、できる限り胸は張って、扉を開けて家に入る。肩をすぼめて立ち去るところなど見られたくはない。「町の外れに住む、孤独な化け物」として哀れまれるのだけは御免だった。
 カタ、と乾いた音と共に扉が閉まる。それだけで不思議なほどに、ラトの心は落ち着いた。
 町の人間に会うのは、町の人間に会い、あんな目で見られるのは、幼いラトには辛すぎた。
「――だけどこれじゃ、同じじゃないか」
 ラトの口から、本人も気づかないうちに大きな溜息が漏れる。
「町の人が僕のことを怖がるように、きっと僕も、心のどこかで町の人のことを怖がっているんだ」
 せめて三つ目ではなくて、一つ目なら良かったのに。そう思うことがたまにある。同じ異形でも、村の人たちのあんな顔を見る目が二つも減るのなら、どんなに幸せなことだろう。
 そう思って立ちすくんでいると、突然もの凄い勢いをつけて、背後の扉が開かれた。扉がばん、とラトに当たる。ラトは突如として降ってわいた災難に叫びかけたが、扉を開いた当事者は事もなさげに頬を膨らませ、ラトへ一気にこう言い立てた。
「聞いてよお兄ちゃん! ホロってば、ホロってば……もうあたし、絶対にあんな子が友達だなんて思わない!」
 ニナだ。扉を開け放したまま一方的に怒鳴りつけ、ついには座り込んで泣き出してしまった。ラトはしばらく困ったように右手を泳がせて、それから恐る恐るニナの頭を優しく撫でた。こうなった時のニナは手におえない。余計なことは言わずに、泣きたいだけ泣かせておくのが無難なやり方だ。
「あたし、もうホロなんて大嫌い! あんな子に会わなきゃいけないくらいなら、学校だってもう行かないんだから!」
 あの後のほんの数分の間に、二人に一体何が起きたというのだろう。ラトが圧倒されていると、ニナはラトの右手を掴んで泣き続けた。母さんはどこにいるのだろう。もし家にいるのなら、ニナをどうにかしてほしい。
「か、母さん、ニナが……」
 家の奥へ呼びかけてみるが、返答はない。もっとも、これだけ大きな泣き声に気づかないのなら、恐らく外にいるのだろう。どちらにせよ昼食までには帰ってくるだろうが、それまでこうして待っていなくてはならないのだろうか。
「ニナ、その……泣いてちゃわからないよ。ええと、ホロと喧嘩をしたの?」
 ニナは一度しゃくり上げる声を抑えて、ラトの方へと視線をやった。ラトが安堵の溜息をついた途端、ラトの胸元に飛びついて、再び豪快に泣き始める。服が涙と鼻水でぐしょぐしょだ。ラトは思わず顔をしかめたが、ニナはそうしてしばらく咽び泣いて、ラトがいい加減にぐったりとしてきたところでようやく、赤い目をしてこう呟いた。
「だって、あたし、あたしは、お兄ちゃんのこと大好きなのに……」
 その言葉に、ラトは思わずぎくりとした。まるで悪いことでもしたかのように急に後ろめたくなって、ニナと目を合わせられなくなってしまった。
 喧嘩の原因は、恐らくラト自身なのだろう。ラトを見るなり立ちつくした少年とニナの間に、どういうやりとりがあったのかは想像に難くない。ラトは恐る恐るニナを引きはがすと、目を逸らしたまま言った。
「そんなの、今に始まったことじゃないよ」
「でもホロは、あたしと友達になりたいって言ったのよ。だったら私、お兄ちゃんとも友達になってほしいもん」
「ニナの我が儘だ」
「どうして? お兄ちゃんだって、町に行ってみたいって言ってたじゃない。友達がいたらきっと楽しいよ。お兄ちゃんだって」
 ニナが続けた。必死な表情だった。そうして口にした言葉はラトの心に訴えかけるように、そしてまた、――疾く走る鋭利な矢のように、ラトの心を貫いていく。
「お兄ちゃんだって、そんな寂しい顔しなくて済むじゃない」
 聞いて、ラトは色を失った。
 ああ、頬が火照っていく。寂しい顔だって? だから友達を作ってあげようとした?
(僕のために? 僕が、カワイソウだから?)
 ふざけるな。余程、そう叫んでしまいたかった。
 ラトはニナを突き飛ばすように立ち上がって、憤然とした態度でこう言った。
「馬鹿だよ、ニナは!」
 目の前で、妹が脅えたような顔をして自分を見上げているのがわかる。そんな顔なんて見たくない。どうしてみんなそうなんだ。どうして。
「寂しくなんかない! みんな、馬鹿ばっかりだ。意味もなく怖がったり、突然同情したり、そんなの勝手にやっていればいい。だけど、それを中途半端に僕へなすりつけるのはやめてよ!」
 違う。言いたいのはこんな事ではないのに。ニナの言葉に悪意なんてなかったことは、わかりきったことなのに。
 驚きに目を見開いた、ニナの顔が見える。ラトは思わずあとずさって、逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。
 扉の前に、机や椅子を押しやっておく。ニナの泣き声が遠くに聞こえた。そうしてラトは扉に背を向け、すがるように、粗末なベッドへ飛び込んだ。
 靴を履いたままでは、あとで母さんに怒られる。だが今のラトには、それすら、どうでもいいことのように思われた。
 悔しい。
 苦しい。
 悲しい。
 ラトは声をたてずに泣いて、泣いて、やがてそのまま眠りについた。
 夢の中に、誰か同い年ほどの少年が出てきた。少年は何度もラトに話かけたが、その姿は闇に溶け込んで、ラトの三つの目をもってしても、彼を見ることはできなかった。

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