吟詠旅譚

海の謡 番外編 // 青いリボン

番外編 : 青いリボン

「全然似合わない」
 吐き捨てるかのようにそう言われて、紫萌は笑顔に青筋を立てた。
 心なしか、口元も怒りに歪んでいるように思う。しかし相手は気づいていないのか、紫萌のことなどどうでも良いかのような顔をして、また本を読み始めた。奥の机に頬杖を突き、片手でスプーンを掻き混ぜている。しかし洒落た模様のついたティーカップから、立ち上っていた湯気の姿は既に無い。
(あのカップ、もう紅茶なんて入ってないんじゃないかしら)
 ふと、そんなことを思う。紫萌の目の前に置かれた応接用の机の上には、空になったティーカップと菓子の載っていた皿、それから白い小箱が一つ、置かれていた。
 そう、そもそもこの箱がいけなかったのだ。
 今朝渡された白い小箱。最近恒例になりつつある、『贈り物』というやつである。紫萌は小さく溜息をついて、その贈り主――目の前で本を読み続ける、ノクスデリアスをちらと睨んだ。紫萌がこの全知の塔へ来て二週間。彼からの贈り物に、いい目を見たことなど一度もない。
 日に日に巧妙になっていく悪戯を一つずつ思い返しながら、紫萌は髪に結わえた青いリボンを整える。白い空箱を手に取り立ち上がると、「もう帰るの?」とさも心外そうな口調で問われた。
「帰るの。誰かさんの落とし穴のせいで、足がまだ少し痛いから」
「ああ……。バカだよなぁ。わざわざ律儀に、あんな地図の通りに進むなんて。罠だって気づきそうなものなのに」
「あら。その地図をご丁寧に箱に入れて、リボンまでかけてプレゼントしてくれたのはどこの誰?」
 思わず、本気で睨んでしまった。顔を上げていたノクスデリアスと目があうと、彼は小さく息をのみ、目を逸らしてしまう。紫萌はふいとそっぽを向くと、つっけんどんに「お邪魔しました」とだけ言い残して部屋を後にした。
 先程までその箱にかかっていた青いリボンが、紫萌の髪に混じってふわりと揺れる。
 
(まったく、ノクスってどうしてああなの?)
 両腕を大きく降りながら、頬を膨らませて帰途につく。髪に飾った青いリボンに触れて、紫萌は大きく溜息した。
 悪戯の片棒を担いでいた、光沢のある清楚な青。逆手にとって「綺麗なリボンをありがとう」とでも言えば彼を悔しがらせることが出来ると思ったのに、まさかあんな風に返されるとは思っていなかった。
 「私なら、もっとがつんと仕返しするのに」と、笑顔で言い切った星蘭のことを思い出す。その笑顔に圧し負けて、先程は何やら空恐ろしくなってしまったのだが、後でどうすれば効果的だろうかと聞いてみるのも良いかもしれない。
 そんなことを考えていると、いつの間にやら兵舎の近くまで辿り着いていた。あまりに天気が良いものだから、少し遠回りをしてみたのだ。
(塔の人って、こんなに気持ちの良い日も家に閉じこもったままなのね)
 動く者のないがらんとした道を歩きながら、そんなことを思う。それからふと気づいて、紫萌は兵舎へ駆け寄った。その廊下に、塔での紫萌の数少ない友人――セーマの姿を見つけたからだ。
「セーマ!」
 呼ぶと白髪の青年が肩をびくりとさせ、大慌てで振り返る。その際、彼がその背に何か隠したのを、紫萌は見落とさなかった。紺色の、四角い何か。一瞬しか見られなかったが、紫萌にはぴんとくるものがある。
 紫萌の視線が向かう先に気づいてか、しどろもどろにセーマが言った。
「紫萌殿! お、お散歩ですか?」
「ええ。お天気が良かったから……。ところでセーマ。今、何か背中に」
「いえ、何も。――では私は仕事がありますので、これで」
 視線を逸らして一息に言い、ぎくしゃくとした態度で去ろうとする。紫萌は無言でその実直な青年を眺めていたが、鎌をかけるつもりでにこりと笑い、彼の空いている方の手を引いた。
「それ、ノクスの所へ持って行くのでしょう?」
 セーマがぴたりと足を止め、心底困惑しきった表情で紫萌のことを見下ろした。紫萌はただにこにこと笑いかけ、怒るでもなく、詰るでもなく、ただ素直にこう言った。
「セーマが共犯だったなんて、思いもしなかったわ」
 
「紫萌。帰ってきてから、随分ご機嫌ね」
 昼食の席で星蘭にそう言われ、紫萌は満面の笑みで頷いた。紫萌の預かっている、藍天梁の人間が数名で暮らしている屋敷でのことである。
 紫萌は長い黒髪を細い紐で二つに縛り、味噌汁の大根を食べながら、ふと、窓の方へと視線をやった。熱のない陽光が、きらきらと窓の外を照らし出している。
 最後の一片を食べ終えて、箸を置く。そうして紫萌は、何気なく呟いた。
「そろそろかしら」
「ああ、ノクス君が来るって言っていたわよね。何時に約束をしたの?」
 問われて、紫萌は首を横に振る。玄関の方から、聞き慣れた少年の声が聞こえたように思ったが、紫萌はあえて出向かなかった。そうしているうちに、誰かの足音が段々と紫萌のいる部屋へ近づいてくるのがわかる。
「約束はしていないの。でも、やっぱり来たみたい」
「紫萌!」
 ばん、と勢い込んで扉を開ける音。部屋へ駆け込んできた白髪の少年は、まだ箸を動かしていた星蘭を見てほんの一瞬だけまずいことをしたという顔になり、しかし謝罪はせずに、紫萌を向いた。
 その髪には、例の青いリボンが結ばれている。
「わあっ。それ、つけたまま来てくれたのね。うん、やっぱり似合うわ」
「に、似合うかどうかの話じゃないよ! 人がうとうとしているうちに、勝手に部屋へ入って、しかも――」
「うとうとどころじゃなくて、熟睡していたじゃない。椅子に座ったまま眠りこけていたから、毛布まで掛けてあげたのに、少しも気づかないで」
「あれも紫萌だったのか」
「そうよ。少しは感謝した?」
「まさか」
 ぷっと星蘭が吹き出した声を聞いて、ノクスデリアスがはたと肩を怒らせるのをやめ、居心地悪そうに咳払いをした。紫萌がくすくす笑い、ノクスデリアスがそれを睨み付ける横でかちゃかちゃ静かな音をたて、星蘭が食器を片付けていく。終いに「ごゆっくり」と笑って部屋を出て行ってしまったので、紫萌とノクスデリアスはその場に二人で取り残される形になった。
 むっとした顔で、ノクスデリアスが椅子へと座り込む。紫萌はその隣に立って、無邪気な笑顔を浮かべた。
「そんなに怒らなくたって。黒髪に似合うリボンが黄色なら、青いリボンは誰がつけたら似合うかしらって思ったのよ」
 聞いて、ノクスデリアスが身じろぎしたのがわかった。紫萌はその正面に座ると、「聞いちゃったの」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「綺麗なリボンのついた箱があったら、持って来てほしい……。って、セーマに言ってあったんでしょう? この前青いリボンのかかった箱を渡したら、黄色の方が良かったのにと言われて、随分探したって言ってたわ」
「――お喋りなやつ。もう二度と、あいつに頼み事なんかするもんか」
「良い物があったから、後で渡しに行くって」
「紫萌に知れてるんじゃ、意味無いじゃないか」
 毒づきながら髪に結わかれたリボンを外し、机の上へ無造作に投げる。紫萌はそれを手に取ると、あらかじめ用意しておいた色紙に小さな穴を開け、そこにリボンを通してみせた。簡単だが、立派なしおりのできあがりだ。
「順番が逆だけど、これはそのお返しね」
 
 ――あとで、ノクスデリアス殿に叱られてしまいますね。
 セーマが苦笑しながらそう話をしてくれた後、紫萌はすぐさまノクスデリアスの屋敷へととって返した。
『全然似合わない』
 そう言ってそっぽを向いた彼のことを思うと、意図せず笑みがこぼれるのがわかった。
 門番に挨拶し、ノクスデリアスの部屋を目指して、軽やかに階段を登る。しかし普段なら面倒くさそうな顔をしつつも出迎えてくれる、ノクスデリアスの姿はそこになかった。紫萌は辺りをきょろきょろと見回しながら、書斎の扉を控えめにノックする。
 返答がない。
(また、何かよくわからないことで怒っているのかしら)
 そんなことを思いながら、そっと扉を開け、隙間から顔を覗かせてみる。そうして紫萌は、息を呑んだ。
 午前中の明るい日差しが差し込む窓際に、一つの人影がある。椅子に深く座り込み、その胸元に開いたままの本を伏せて、今にも椅子から滑り落ちるのではないかというほどぐっすりと眠る一つの影。紫萌はそっと歩み寄り、その寝顔を見ると、思わずくすりと笑ってしまった。
 あどけない、無邪気な寝顔。普段は眉間に皺が寄りそうなほどむすっとした顔ばかりしているのに、今は少しの警戒も見せずにただ、夢の世界へ誘われている。
 手を伸ばして、その透けるような白髪に触れてみる。少しも、目を覚ます気配はない。
「いつもこんな風なら、もっといろんなお喋りが出来るのに」
 呟いた。彼の耳には届かない。
 
「しおりなんて、沢山持ってる」
 そう言い捨てたノクスデリアスは、それでも青いリボンのついたそれを持って、自分の屋敷へ帰っていった。
 残された白い小箱を指で転がしながら、紫萌は思わずくすりと笑う。
 黄色いリボンのかかった『贈り物』には、一体何が詰められているのだろう。そんなことを少し楽しみに思ってしまう自分が、なんだか不思議に思えたのだ。
...おまけ

:: Thor All Rights Reserved. ::